065●フロー編●58.政策
──行きましょう、フローラ。今日のうちにここを出ます──
誰にも内緒で、ラルスとベルの三人だけで。
新しい暮らしを始める。
「行きたい……行きたいよ……! でも……っ」
フローリアンはぐっと堪えて、首を横に振った。
「……フローラ」
ラルスの悲しげな声が耳に入ってくる。行けるものなら行きたい。
王の地位なんていらない。欲しいのは、三人での幸せだけ。
それでも。
「僕が逃げたら……王家を継ぐ者がいなくなってしまう……」
「……」
逃げ出せない。王という責務を放り出し、自分だけ自由になど、生きられない。
それに現実問題、産まれたばかりの赤児を抱えて逃げるというのは、不可能だ。
フローリアンはぐっとわがままを飲み下した。
「ごめん、ラルス。無茶を言ったね。ベルとはずっと離れ離れってわけじゃないし、大丈夫だよ」
なんとか笑ってみせると、ラルスはそっとフローリアンを包んでくれる。
「なにもできずに、すみません……」
「ううん。逃げ出そうって言ってくれて、嬉しかった。ありがとう、ラルス……」
フローリアンはぎゅっとラルスの背中に手をまわし。
親子三人で暮らす夢を、かき消した。
***
フローリアンとラルスは、ベルを置いたまま王都に戻ってきた。
入れ替わりに、新しい護衛騎士と侍女を別荘の方に送っている。
執務室にシャインを呼ぶと、開口一番こう言ってくれた。
「ご出産、本当にお疲れ様でございました」
「うん、ありがとうシャイン」
自分の出産を労ってくれる人がいるのは、本当に嬉しい。
「シャインにも早くベルを見せてあげたいよ。本当に、めちゃくちゃかわいいんだ」
「はい。メイベルティーネ様にお会いできるのが楽しみです。」
にっこりと柔らかく笑うシャインは、しかし次の瞬間には書類を出して、王不在の間の出来事をおさらいしてくれる。
「……と、大体このような状況になっております」
「さすがシャインだ、よくやってくれたね。五ヶ月間、大変だったろう」
「多少の無茶は、ディートフリート様の時に慣れておりますので」
「あはは」
おそらくは疲れているのだろうが、顔に見せないシャインはさすがだ。
それともこういう仕事の方が、護衛騎士より合っているのだろうか。
「ところで、女性の地位向上の政策って、どうなってる?」
昔、ディートフリートがフローリアンの生まれる前にしていた政策だ。
フローリアンが生まれたあとは、そのままノータッチになっているのは知っていた。これはあまり焦らずに進めた方がいいというシャインの助言で、フローリアンもあれからはほぼ手付かずのままだ。
「こちらに関しては、ほとんどなにも変わっておりません。撒かれた種が、芽吹くのを待ちましょう」
「それって兄さまが行った政策のことだよね。もう二十年以上も前の話だよ。一体、いつになったらそれは芽吹くんだ?」
「徐々に芽吹いている種はございます。まだ、もうしばらくのご辛抱を……」
「いや。僕は、この政策を進めていこうと思う」
「陛下?」
シャインが困惑顔でフローリアンを見つめている。
だが、このまま放っておいたら、いつまでたっても女性の地位向上は望めない。
「もしも、僕に男の子が生まれなかった時のための、準備をしたいんだ。王位継承権を男女問わず与えるためにはまず、市井の女性の地位を向上させる必要がある」
「それはそうですが……まだフローリアン様に男児が生まれないと決まったわけではありません。それからでも遅くは……」
「遅いんだよ。妊娠するたびに病気療養が通じるとは思えない。誤魔化せるのはせいぜいあと一人か二人まで。それでも女の子しか生まれなかったら……末っ子には、また僕のように男装をさせてしまうことになりかねないんだよ」
それだけは、絶対にさせたくない。
だから次に妊娠する前に、女でも王位継承権を持つことができる土台を、作っておきたい。
「陛下、お気持ちはわかりますが、それは賛成いたしかねます。もう少し、時流が追いついてくるのをお待ちください」
「でもこの国の男たちは、芽吹くたびに踏み潰してくるよね。多少強引な政策を用いてでも、男たちの認識を変えないと、いつまで経っても女性の地位はこのままだ」
「陛下、それは逆です……まずは認識を変えなければ、スムーズに事は運ばないのです!」
「この国の男たちに、その認識を変えるつもりはあると思ってるの?」
そう問いかけると、シャインは言葉を詰まらせた。
答えはノーだ。特に有力貴族の面々は、女を道具としか思っていない者も多い。
そんな者たちと議会で話し合ったところで、女性に対してなにか優遇する措置をとるわけがない。
「議会に、三人の女性を入れられるようにしてくれ」
「それは無理です……そもそも承認を得られなければ、議会には入れません」
「方法はなんだっていいんだよ。そういうの、シャインは得意だろ? できない?」
「……できますが」
シャインは裏も表も知り尽くしている男だ。時には威圧し、時には懐柔し、時には策略を回らし、承認を得られるよう動くことは、シャインにとってさほど難しいことではないのはわかっている。
「有能な女性を三名選んで、みんなに承認させて」
「陛下……無礼を承知で申し上げます。このようなやり方はどうかおやめください。いきなり上から変えていくのは無茶です。民衆レベルで少しずつ変えていき、女性が上に立つようになるのはそれからです!」
「それって何年かかるの? 十年? 二十年?」
「それは……」
ディートフリートが撒いた種が芽吹き、根付くまでは大きな政策をしない方がいいのだろう。
ゆっくりと、着実に……しかしそれでは、女が王位継承権を手に入れるまでに百年だってかかってしまいそうだ。
兄であるディートフリートは、自分がユリアーナと結婚したいがために、生まれた子が女だった時のためにこの政策を進めていたはず。フローリアンを男だと思っていたから、この政策はやめてしまっただけで。
つまりディートフリートは、女にも王位継承権を与える算段があったのだろう。
兄がやろうと思っていたことだ。フローリアンは自分にもやってできないはずはないと、口を開いた。
「この国の女性の地位を変えるには、議会に女性を入れていくのは必須だよ。今の面子で、女性に有利な政策を打ち出してくれるわけがない」
「わかっています。しかし……」
「もしかして、シャインも女が権力を持つこと、よく思ってないのか?」
「いえ、私は男女関係なく、有能であれば能力を発揮できる機会を与えるべきだとは思っています」
「理想的だね。その理想の社会を生み出すためにも、頼むよシャイン。こうでもしないと、この国を変えることはできない」
「陛下……」
「大丈夫、上手くやるよ」
そういうと、シャインは頭をグッと下げて承諾の意を示した。
本意ではないということは伝わってきたが、それを飲み込んでくれたのだろう。
シャインが出ていくと、代わりにラルスが入ってくる。閉められた扉の向こう側を探るようにして、ラルスが口を開いた。
「どうかしたんですか? シャイン殿、えらく難しい顔をしていましたけど」
「うん、実はね……」
理由を告げると、ラルスもまた、眉間に力を入れている。
「俺も、女性の地位向上には賛成ですけど……シャイン殿は俺たちよりずっと経験が深いですし、反対されたならやり方を変えたほうがいいんじゃないですか?」
「そんなんじゃ、王位継承権が女にも与えられるようになるのは、いつになるかわからないよ。大丈夫、議会に女性を入られらるようになれば、ちょっとずつ良い方に変わっていくよ」
フローリアンは誰もいないのをいいことに、ラルスにぎゅっと抱きついた。
ラルスもまた、フローリアンを優しく包んでいてくれて、この国の未来に思いを馳せる。
(女も王になることができれば、もう僕のような思いをする王族はいなくなるはずだ)
女性の地位向上は、そのための第一歩。
我が子に男装をさせなければならない事態には、絶対にしない──そう、フローリアンは心に誓っていた。




