040●フロー編●35.エルベスの町
「ギリギリ、間に合いましたね」
ほっとしたように言ったラルスが、町の入り口で馬車を止め、フローリアンは大地に足をおろした。
結婚式日和の晴天で、自分の結婚式ではないというのにドキドキと胸が高鳴る。
「教会はこちらですよ。行きましょう」
町の地図を見て、一瞬でどこになにがあるかを完全に把握したというラルスが、先頭に立って歩き出した。シャインに「ディートフリート様はもちろん、ユリアーナ様やルーゼンにも話しかけないでください」と釘を刺されながら進んでいく。
小さな町だが活気があり、兄が住んでいるんだと思うだけでわくわくした。
教会の近くにまで行くと、赤い髪に警備騎士の服を着た男を発見した。ルーゼンだ。一瞬だけこちらに目を向けた彼は、すぐにそっぽを向いて、左手だけを何やら複雑に動かして教会に入って行く。
「少し待て、だそうです。ここで待ちましょう」
するとシャインがそんなことを言うものだから、フローリアンとラルスは目を丸める。
「今のでなにを言っているか、わかるの?」
「暗号ですか?!」
目をキラキラしているラルスに、シャインは頷いた。
「ええ。言葉に出すのが難しいときもありますからね。こういう時に便利ですよ」
「へぇ、やってみたいです! かっこいい!」
「アルファベットの形さえ覚えればできます。待ち時間に教えましょうか?」
「お願いします!」
シャインはこの国のアルファベット六十字分を、歌を歌うように口ずさみながら指を次々と複雑に変えていく。
こんなの覚えられるわけがない、とフローリアンはそうそうに諦めた。
「こんな感じですよ。慣れれば自在に使えるようになります。帰路にでも、少しずつ教えてあげましょう」
「あ、いえ、もう覚えました」
「……え?」
シャインが訝しげに聞き返した時、ルーゼンが教会から出てきて、もう一度左手を動かし始める。
それを見たラルスが、当然のように指を訳し始めた。
「い、ち、ば、ん、う、し、ろ、に、す、わ、れ……一番後ろに座ってもいいそうですよ」
ぎょっとしたのはフローリアンよりシャインの方。もちろん、フローリアンも驚いたが。
「あ、合ってるの? シャイン」
「合ってます。ルーゼンは確かにそうサインしていました。習得には普通、最低でも半日はかかるんですが」
「俺、こういうのすぐ覚えちゃうんですよね。じゃあ、入りましょう」
なんでもないことのようにラルスはそう言って、教会の中に入っていく。
「ラルスは人の顔や地図を覚えるのは得意だと知ってはいましたが、ここまでとは」
さすがのシャインも驚いたように声を上げた。
フローリアンも視覚情報をすべて記憶できるとはわかっていたが、記憶することと使うことは別物だと思っていたので驚きを隠せなかった。
「ほんと、すごいよね、ラルスは」
「その能力をひけらかさないのが、彼の良いところですね。では参りましょう、陛下」
「うんっ」
シャインにラルスを褒められたのがなんだか嬉しくて、足取り軽く教会に足を踏み入れる。
小さな教会は人がこれでもかというほどぎゅうぎゅう詰めだったが、誰もが笑顔でその時を待っていた。
(兄さまたち、こんなに祝福してくれるくらい、この町に馴染んでるんだな)
町人が結婚式を楽しみにしているのを見ると、嬉しくなってフローリアンも自然と口角が上がる。
ルーゼンに言われた通り一番後ろの席だけは空いていて、そこに三人は腰をおろした。
ざわざわと騒がしかった教会内だが、パイプオルガンの音が鳴ると同時にしんと静まる。
そして開けられる扉。
そこから兄のディートフリートとユリアーナが出てきただけでもう、フローリアンの涙腺は崩壊してしまった。
ディートフリートのタキシード姿とユリアーナの花嫁衣装が、きらきらと輝いて見えて。
隣にいたラルスが驚いたようにハンカチを取り出して渡してくれた。涙を拭きながら、誓いの言葉を交わす二人を見つめる。
神父の言葉に、ディートフリートが「誓います」と力強く述べた。
しかし同じように誓いの言葉を言う段階で、ユリアーナは言葉を詰まらせている。
「ユリア……」
兄の声が教会内に響くと、ディートフリートの方を向いたユリアーナの目から、コロンと涙がこぼれ落た。
「ディー……私は、あなたが大好きです。なにがあっても、もう二度と離れたくありません。不惑の私を娶ってくれてありがとう……これから私がおばあちゃんになっても、ずっとずっと一緒にいてください。ディー、愛しています……」
ディーという、聞きなれない愛称。二人の仲の良さが伺えて、なぜだかずっとフローリアンの涙は止まらない。
「わかっているよ、ユリア。今の君は本当に素敵だけど、不惑を過ぎた君はもっと素敵になっている。だから僕は君に夢中になるんだ。いくつになっても」
ディートフリートは今年で四十歳となった。同い年だというユリアーナも同じだろう。
ユリアーナの白髪がとても綺麗で。涙を流して微笑んでいる表情が、フローリアンの胸を熱くさせる。
「愛しているよ。ずっと一緒にいよう。幸せになろう。それは、僕の願いでもあるんだから」
「ディー……!」
ディートフリートはユリアーナのヴェールをそっと後ろへと流した。神父が誓いのキスを、という前に、ディートフリートはユリアーナの唇を奪っていた。
教会内がわっと盛り上がり、祝福の声がいつまでも響く。
兄の、ユリアーナを思う優しい顔。その幸せそうな顔を見るともう胸がパンパンになって涙が止まらない。
誓いのキスを思い返して、肌が痺れるような感覚に襲われる。はぁ、と息が漏れそうになり、慌ててハンカチで口元を押さえた。
みんなに祝福されながら教会を出ていこうとする二人。フローリアンたちの隣を通った時、ディートフリートがこちらを見てくれた。
隣にいたシャインが、左手でなにやら素早く合図を送っている。その瞬間、ディートフリートの瞳は完全にフローリアンと合い、優しく目を細めてから教会を出て行った。身体中が茹ったように熱い。
「……今、僕だって言った?」
「はい。気づいてくださいましたよ」
「そっか……」
祝いに来たことをわかってくれただけで、嬉しい。
幸せな新郎新婦を見られただけで、もう満足だ。
フローリアンは晴れやかな気分になり、二人に顔を向けた。
「帰ろうか、ラルス、シャイン」
日程はギリギリで組まれていて、遅れるわけにはいかないのだ。王としての責務をおろそかにはできない。ここまで付き合ってくれた、二人のためにも。
「いい式でしたね」
「うん。来られて良かった。ありがとう二人とも」
礼を言うと、ラルスもシャインも満足そうに笑っていた。
教会を出て再び馬車に乗ると、手綱を持つシャインに話しかける。
「ねぇ、さっきの手の暗号って、兄さまも使えるってこと?」
「ええ、使えますよ」
「僕も覚えようかな……これから必要になるかもしれないし、内緒話みたいで楽しそうだ」
「いいですね、覚えましょうよ、王! 俺、教えますよ!」
さっき覚えたばかりのラルスは、自信満々で教師を名乗り出てくれる。
「まず最初の文字の形はこうで……そうです。次はこう」
複雑な指の形に苦戦していると、ラルスがぐいっと寄ってきた。
「違います、こうですよ」
ラルスは遠慮なくフローリアンの手を触っていて、気づけばいつのまにか密着している。
フローリアンは心臓の音に鎮まるよう命令しながら、ラルスの手に触れられていた。




