032●フロー編●30.小さな背中
二人で笑っていると、トントンとノックの音がする。確認したラルスは、先程の笑い顔を一転させて真面目な顔になっていた。
「王子、王太后様です。二人で話したいということですので、俺は外に出ておきますね」
ラルスが出て行くと同時に、母親であるエルネスティーネがフローリアンの部屋に入ってくる。
相変わらず意志の強い瞳をしている母を見ると、怒られてしまうのではないかと体を固まらせた。
「フロー。王になる決心はつきそうかしら」
エルネスティーネの言葉に、フローリアンは首を左右に動かした。
女であるフローリアンを男として育てると決めた母に、怒りの感情はない。止むに止まれぬ事情があったのだろうとは思っているし、責め立てるようなことはしたくなかった。
それでも女として育ててもらえなかったことは、心の底に僅かな棘となって刺さってはいる。
言葉に出せずに否定したフローリアンを見て、エルネスティーネは悲しく眉を下げた。
「母さまは、僕に王位を継いでほしいと思っているのですか」
その質問に、今度はエルネスティーネが口を噤んだ。
なんと答えるべきかと熟考しているのだろう。
じっとその姿を見ていると、ようやく口を開いてくれる。
「わたくしはディートもフローも、どちらも大切に思っているわ。二人とも幸せになってほしい」
まごうことなき母の本心であろう。
その気持ちはフローリアンにも伝わって来ているというのに、それでも心はささくれ立つ。
(母さまも、僕を作ったのは兄さまのためだったんだよね)
どうしてもその考えが頭を離れてくれなかった。
「あなたかディート、どちらかがこの国の王にならなければならないことは、確定しているの。けれどわたくしが決められるものではないわ」
王位を継いでほしいかなど、愚問に違いないと思っていたフローリアンだったが、エルネスティーネが答えることはなかった。結局は本人同士の話し合いというわけだ。
過去にあった兄弟戦争とは逆で、まさか王位を押し付け合う事態になるとは。きっとこの国の歴史上、初めてのことだろう。
「では母さまは、なぜ僕のところに来られたのですか」
王になれとも言わず、ディートフリートの方に王を続けろとも言わず、ただ事態を静観するだけのエルネスティーネ。
どちらにも幸せになってほしいからなにも言えないのだろうとはわかったが、それならわざわざフローリアンの部屋に来ることもなかったはずだ。
フローリアンの問いに、エルネスティーネは弱々しい声で答える。
「あなたが消えて、いなくなってしまいそうな気がしたのよ。顔を見ておきたくて」
どうやらエルネスティーネは、逃げ出したいというフローリアンの心を読んでいたらしい。
それは最終手段であって、今すぐ消えようとは思っていないが。
「……止めないのですか」
「もちろん、止まるものなら止めるに決まっているわ。でもディートもあなたも頑固なところがあるもの。一度決めてしまったなら、私がなにを言っても止まらないでしょう」
(意外だな……絶対に止められると思ってた)
もし逃げるという選択をしても、エルネスティーネは止めるつもりはないらしいと知り、なんだか少し脱力した。
逃げてほしくない気持ちは伝わってくるが、それでも止めないのは、それだけ大切に思ってくれているからなのかもしれない。
(もし兄さまが王族を離脱したとして、そのあと僕も逃げ出したら、父さまや母さまはどうするつもりなんだろう……)
それを考えるとゾッとした。
直系でない血族ならいるが、こぞって名を挙げられては兄弟戦争の二の舞になりかねない。他にも簒奪を狙う者が現れてもおかしくはないのだ。
長く続くハウアドルの歴史に幕を閉じることになるかもしれない。
どちらにしろ、平和な王国に大混乱が巻き起こることは間違いない。
(兄さまもそれはわかってる。だから僕が先に逃げ出したり、絶対に嫌だと取り合わなければ、兄さまが王を続ける以外になくなるはずだ)
悲しむディートフリートの顔を想像して、罪悪感が胸を刺す。
兄の、自慢の弟でいたかった。頑張っているなと、偉いなと褒めてもらいたかった。
なのに、今考えていることは大好きな兄を悲しませるようなことばかりだ。
自分が王になるのは嫌だが、ディートフリートに嫌われるのも嫌だという矛盾で気持ちは落ち込む。
「フロー」
母の優しくも凛と通った声が響き、いつの間にか俯いてしまっていた顔を上げた。
「あなたは私の大事な娘よ」
自分より背の低い母に、ぎゅっと抱きしめられる。
(母さま……こんなに小さかったっけっかな……)
昔はもっと強くて大きく感じたはずなのに、今ではすっかり丸くなったというべきか。
フローリアンの心に隙間風が吹くように、寂寥を感じてしまった。
「なにも言えずにごめんね、フロー……」
「ううん。これは僕が決めなきゃいけない問題だから……母さまはなにも気にすることはないよ」
まだどうするかはひとつも決まっていないけれど。
母にこれ以上の心労を掛けてしまっては、父のように倒れてしまいかねない。
フローリアンがエルネスティーネに微笑んで見せると、申し訳なさそうに眉を下げたあと、「ありがとう」と頷いた。そしてそのまま部屋を出て行く。
母の後ろ姿を見ていると、責めたくなかったわけじゃない。
どうして女として育ててくれなかったのか──と。
(二十二年も前のことを責められても、母さまだってつらいだけだ。僕を男として育てると決めた母さまが、一番罪悪感でいっぱいだろう。僕が責めるべきじゃない)
フローリアンはぐっと言葉を飲み込んで、エルネスティーネの小さな背中を見送っていた。
母にも言い分はあるのだろうと思いながら。




