018●フロー編●16.城下町のウェイトレス
イグナーツと約束をしてから一年。
ツェツィーリアとの婚約からは二年が過ぎた。
男は十八からしか結婚できないこの国では、もちろん王族もその対象となっている。
フローリアンは現在十七歳でまだ結婚はできない年齢だが、十八になっても結婚をするつもりは当然なかった。どうにかしてツェツィーリアとの結婚を延ばしていくつもりである。
イグナーツは音楽家を続けているが、やはりというべきか、貴族だった時と比べて活動は縮小していた。それでも頑張っている方だと言えたが。
フローリアンは最近、今まで以上に勉強する時間が増えた。王になるための備えだとわかっていても……いや、わかっているからこそ、気が重くなるばかりである。
しかし国をより良くしたい気持ちは、兄に負けないくらいにはあるのだ。だから文句を言うこともせず、勉学に励んでいる。
家庭教師が帰ると、フローリアンは手を突き上げるようにして体を伸ばした。
「ふぁあ、疲れた……」
「長時間お疲れ様でした、王子! よく頑張りましたね!」
ラルスは相変わらずの元気さで、嬉しそうに笑っている。ラルスがそばにいてくれると、安心して集中できるのだ。
勉強が終わると、これでもかと褒めてくれることもやる気のひとつになっている。
「本当に毎日毎日勉強ばかり、すごいですよ。俺には無理です」
「これが僕の役目だからね。ラルスだって、朝は鍛錬してるだろ? 僕には無理だ」
「無理なことはないですよ。一緒にやりますか、鍛錬」
「遠慮しとく。僕が強くならなくっても、ラルスが護ってくれるしね」
「それはもちろんですよ! 俺の仕事ですから!」
力いっぱいに肯定されると、なんだか照れる。
護ると言われただけで、ただの仕事だとわかっていても心は浮き立ってしまう。
しかしラルスはそんなフローリアン気づくこともなく、腕を組んで唇を突き出した。
「でも最近、王子は部屋で勉強ばかりだから護衛らしいことしてないんですよね。せめて歩きたいですよ」
確かに、ずっと部屋で監視をしているだけというのは暇だろう。それが仕事とはいえ、逆の立場だったらげっそりしてしまいそうだ。
「王子もずっと勉強ばかりで大変でしょう。明日はお休みをもらって、町へ出かけませんか?」
「え? そりゃ、できるならそうしたいけど」
「じゃあ交渉しましょうよ! 言うだけならただです!」
ラルスの言い草にフローリアンはぷっと笑いながらも頷いてみせる。
「うん、そうだね。お願いするだけしてみようか」
毎日言われるがまま、組まれたスケジュール通りに過ごしていたフローリアンは、こんな簡単なことさえも気付かなかった。
そうして訴えたフローリアンの初めてのわがままはあっさりと通り、翌日はラルスと二人で町に繰り出す。
からりと晴れた空に白い鳥が舞っていて、その眩しさにフローリアンは目を細めた。
「まさか、こんなに簡単に休みが取れるなんて思わなかったよ」
フローリアンの呟きに、赤髪に紺色の騎士服を着たラルスは、嬉しそうに笑っている。
「王子が毎日真面目にがんばってるからですよ。不真面目だったらこうはいきませんって」
「あはっ、そうだね。なんにしても、ありがとうラルス」
「どういたしまして!」
予期せぬ休みが取れたことにわくわくする。しかも、ラルスと一緒にお出かけだ。
名目上は城下の視察ということにして、フローリアンはあちこちのお店や広場を見て回って楽しんだ。
「少しお腹が空いてきたね。ラルスはいつもどういうお店で食べてるの?」
「俺ですか? 大したところは行ってないですよ。そこの店とか、あと色々適当に」
「ここ? じゃあ、入ってみよう!」
「……まぁ、いいですけど」
珍しく歯切れの悪いラルスを少し不思議に思ったが、ラルスはすぐに笑顔を取り戻して店へと案内してくれた。
天気がいいのでテラス席にしましょうと言われて、小さな二人用テーブルの椅子に腰掛ける。
「なにかおすすめはある?」
「そうですね、『ちょっと贅沢なパスタセット』なんかは、王子の好みだと思いますよ」
「じゃあそれにするよ。ラルスもお腹が空いただろう。好きに食べていいよ」
「わかりました」
ラルスが呼ぶと、すぐさま近くにいたウェイトレスが気づいてやってきてくれる。
「ご注文はお決まりでしょうか」
二十歳ほどだろうか。笑顔の素敵な女性は、茶色の長い髪を一つにまとめて清潔感を溢れさせていた。
「『ちょっと贅沢なパスタセット』をひとつ。あとは……うーん、俺は『チキンのランチ』にするかな」
「ふふ、いつものね」
女性はそう微笑んだあと、フローリアンに目を向けた。
「本日は王子殿下にお越しいただけまして、大変光栄に存じます。どうぞ、ごゆっくりなさってくださいね!」
「ああ、ありがとう」
ウェイトレスはそう言うと、もう一度ラルスに視線と笑みを送った。ラルスの方は視線こそ合わせてはいなかったものの、ほんの少し指を上げて合図のようなものを送っている。
(知り合い……だよね。でも、ただの顔見知りって風じゃなかった)
客とウェイトレスというだけではない、もっと深い繋がりを持っているように見えたのだ。
フローリアンの胸は、ドキンドキンと嫌な音を立てる。
「ラルス……今の人って、もしかして……恋人?」
「……どうしてそう思うんですか」
質問を質問で返されてしまい、確信のようなものが心に生まれる。
『そんなに僕の気持ちが知りたいなら、付き合ってる恋人と別れておいでよ!』
ツェツィーリアとの婚約が決まった時に、口を滑らせてしまったひどい言葉。
あの時の言葉では別れていなかったことにほっとして、同時にまだ付き合っていたのだなと胸が苦しくなる。
ラルスが気まずかったのはこのせいだろう。別れろと言われて、まだ別れていなかったのだから。
「……ごめんね、ラルス」
「なにがですか?」
「その、以前、別れろなんて言っちゃって……そんなこと、思ってないから」
「そんな前のこと、気にしてないですよ」
柔らかな声で言ってくれたので、フローリアンは胸を撫で下ろした。
ラルスも二十二歳だ。いつ結婚してもおかしくはない。
「結婚、するの?」
聞かずにはいられなかった。なにを聞いても、気持ちが落ち着けるわけもないとわかっていながら。
「……決まった時には報告します」
「うん……その時には、お祝いするよ」
そう言うと、ラルスは少し困ったような笑みを見せた。
心臓がぎゅっと掴まれたような痛みが走る。心から喜んであげられないことがつらい。本当は結婚なんかするなと叫びたい。
(馬鹿だな……ラルスは僕のものじゃないっていうのに)
胸の苦しみを抱きながらの食事は、あまり味を感じることはできなかった。




