017●フロー編●15.フローリアンの秘密
「イグナーツが遊びでこんなことをしたんじゃないってことはわかったよ。相応の覚悟があるんだってね」
家と縁を切るだなんて、並々ならぬ覚悟には違いない。
侯爵家の嫡男という地位を捨てる者など、この世にそうそういないだろう。
そこまでしてイグナーツはなにをしたい、もしくはフローリアンになにをさせたいというのか。
「言ってごらんよ。イグナーツは僕になにを望んでるのかをね」
「脅しの内容は聞かないのですか?」
「僕のバレては困る秘密か? 願いを先に聞くよ。その秘密とやらがなにかは知らないけど、イグナーツの希望を叶える方向では考えてる。どうせツェツィーのことなんだろうし」
「脅す必要がないのなら、助かります」
そうは言ったが、実際問題受け入れられない願いを言われては、脅されてしまうに違いない。
フローリアンは内心不安で胸を鳴らしながら、イグナーツからの要求を待った。
「俺の願いは殿下の想像通り、ツェツィーリアのことです。俺の出るコンサートの時に、わざわざ変装をして来てくれていることはわかっている」
「それをするのだって大変なんだよ。誰かに君とツェツィーの仲を疑われては大スキャンダルなんだから」
「今の俺とツェツィーリアの間にはなにもない。だが、彼女が望むなら駆け落ちだって辞さないつもりでいる。そのために家とは縁を切ったのだから」
イグナーツの決意と覚悟の表情に、威圧を感じる。
繊細そうに見えるというのに、かなり大胆な男だとフローリアンは息を吐いた。
「ツェツィーがそんなことを望むわけないだろ? 僕や家族に迷惑を掛けるようなことをする子じゃないよ。君のようにはね」
「だからこうして頼んでいるのですが」
ちっとも頼んでいるようには見えない態度で、イグナーツは言い放った。
扱いづらいと思いながら、フローリアンは口を開く。
「僕に、婚約者を駆け落ちさせる手伝いをしろと? さすがにそれは無理だよ。今まで築いてきたノイベルトの信用が失墜するような手助けは」
王族と婚約した娘が、別の誰かと駆け落ちする。それはあまりに不名誉なことだし、そんなことをすればノイベルトは貴族社会から爪弾きにされてしまうだろう。
それこそ事前にツェツィーリアが家と縁を切っておかないと無理な話だ。しかしフローリアンと婚約した状態で娘と縁を切る理由がノイベルトにはない。
「だがツェツィーリアの心は、殿下にではなく俺にある。違いますか」
自信満々の言葉に、フローリアンは仕方なく頷いた。
「まぁ……そう言わざるを得ないね」
隣でラルスがむっとしていたが、なにも言わずにやり取りを見守ってくれている。
ラルスはまだ、フローリアンとツェツィーリアがうまくいってほしいと思っているのだろう。
「ならば、ツェツィーリアが真に結ばれるべき男は俺のはず。俺はツェツィーリアを連れて二人で生きていく覚悟はある! 殿下都合での婚約破棄なら、できないことはないはずでしょう!」
なんとなく予想はついていたが、イグナーツの狙いはフローリアンからの婚約破棄だ。フローリアンからの一方的なものであれば、駆け落ちほどには評価は悪くはないが。
(できるならとっくにしてる。けど年齢的に僕はまだ勝手に婚約破棄できる立場じゃないし、できたとしても別の婚約者をあてがわれるのはもっと困る)
事情を話すわけにはいかない。けれど、イグナーツは引き下がりそうにない。
フローリアンは見た目よりもずっと感情的なイグナーツを眺めた。
敵意を送ってくるので苦手だと思っていたが、人間的なのだと思うと少し親しみも湧く。
どうにかして二人を幸せにさせてあげたいという気持ちは、もちろんフローリアンにもあった。だからこそ、譲れない部分もある。
「僕がツェツィーと婚約破棄をしたとして、その後はどうする気? イグナーツはもう離籍して一般庶民だ。ノイベルトがそんな君との結婚を許すとは思えない」
「それは」
「やっぱりツェツィーを駆け落ちさせるつもりだね。もしツェツィーがそれを望んだとして、君はどうやって生きていくつもりだ? 音楽で身を立てる? 侯爵家の嫡男でなくなった君が、どうやって」
「音楽に身分は関係ない。ピアノのある場所ならば、どこへ行こうと稼いでいける」
自信満々のイグナーツに、フローリアンはわざと嘲笑してみせた。
イグナーツは確かに腕のいいピアニストだ。本人も音楽が好きなのは伝わってくる。十八歳にして単独でのコンサートが成功しているのも、自信になっているんだろう。
しかしそれはやはり、侯爵家の嫡男だったからだ。
「自信があるのは結構だけど、一般庶民となった君の演奏を誰が聴いてくれると思う? ツェツィーのように、純粋に君の奏でる音楽が好きだという人もいるだろう。でも大半はそうじゃない」
フローリアンが言い切ってみせると、イグナーツは明らかにムッとしている。しかし残念ながら、これは事実である。いくら腕が良くても、埋もれてしまう音楽家はいくらでもいるのだ。
その点で、イグナーツは環境に恵まれていたと言える。
これからは義理だったり、恩を売るためであったり、こねを作る目的での観客がグッと減るだろう。彼と結婚したがっていた令嬢なんかは、潮が引いたように去っていくに違いない。
「今の君がツェツィーと一緒になれたとしても、苦労をさせるだけだ。そんな男のところへ、僕の大事なツェツィーを行かせるつもりはない」
「……では俺がこの国や他国でも名を轟かせられるほどの音楽家になった時には、文句はないということですね」
さすが、王族を脅そうというだけの胆力のある男だ。その金色の眼はまったく諦めておらず、むしろギラギラと輝いている。
「少なくとも、今よりは真剣に話を聞いてあげるよ」
「その言葉、お忘れなく」
そう言ったかと思うと、イグナーツはその場に跪いて首を垂れた。
「殿下の大切なお時間をいただきましたこと、深く感謝申し上げます」
「まったく、僕を脅そうとしてた男の言葉とは思えないね。話はこれで終わりでいいってことかな?」
「はい。また近いうちに必ず来ますから」
近いうちにとは、また大きく出たものだ。それだけ自分の腕に自信があるのだろうが。
「そうだね、君が名を馳せるくらいの音楽家になった時には、僕の方から呼び出すよ」
「ええ。必ず、お願い申し上げます。では、御前を失礼致します」
フローリアンはメイドを呼び、イグナーツを城外まで送るように命じた。
後にはフローリアンとラルスが残り、いつの間にかずっと肩に入っていた力を弛緩させる。
「はぁ、とりあえずなんとかなったかな」
ほっと息を吐くと、隣にいたラルスが少し納得いかない様子で口を開いた。
「最後には秘密とやらで脅されるんじゃないかと思いましたけど、結局イグナーツ様はなにも言いませんでしたね」
「そうだね。僕の話にある程度は納得してくれたのと……多分、その秘密に自信があるわけじゃなかったんだと思う」
女かもしれないという明確な証拠もない状態では、あっちも強くは出られなかったのだろう。
これで、もしもフローリアンを脱がせて男だったとすれば、不敬罪で一気に窮地に落ちるのはイグナーツの方だったのだから。
「まぁ僕にとってもイグナーツにとっても、譲歩し合えた妥協案になったと思うよ」
「そうですね……っていうか、イグナーツ様の持つフローリアン様の秘密ってなんだったんでしょうね」
「……さぁね」
「なにか秘密、あるんですか?」
「そりゃ、誰だって秘密のひとつやふたつくらいあるだろ」
「俺に、教えてくれませんか」
ぐいっと横から顔を覗かれて、フローリアンはドキンと胸を鳴らしながら一歩下がった。
「秘密は、秘密だから秘密なんだよ! だいたい、僕の秘密を知ってどうする気? イグナーツのように僕を脅したいの?」
「ち、違いますって!」
予想外のことを言われたようで、ラルスは慌てて両手を振って否定している。
「じゃあ、どういう……」
「秘密って、一人で抱えると大変じゃないですか。俺は絶対に誰にも言わないんで、少しでも王子に楽になってもらえたらいいなと思っただけなんですけど……」
ラルスの優しさに触れて、フローリアンはぎゅっと胸を押さえた。
気持ちは嬉しい。知ってほしくもある。
ラルスが護衛騎士になって一年が経過し、彼の人となりはわかっている。本当にそう思ってくれているのはわかった。
けれど、いつ護衛騎士から外れるかわからない相手に、こんな重要なことを漏らすわけにはいかない。
「ありがとう、ラルス。気持ちだけ受け取っておくよ」
「……俺、信用できませんか?」
「まさか、違うよ! 誰より信用してる!」
慌てて否定すると、ラルスは嬉しそうな、それでいて寂しそうな、複雑な顔をしていた。
「じゃあ……いつか言える日が来たら……俺に言ってもいいと思える日が来たら、教えてくださいね」
そう言って微笑むラルスに、こくんと頷いて見せた。
本当に言える日が来るのかはわからないけれど。
こうして気にかけてくれることを、なにより嬉く思った。




