015●フロー編●13.兄が子どもだった頃のこと
「ディートフリート陛下がとユリアーナ様が十歳の時に、お二人は婚約なさいました。ユリアーナ様のお父上はホルストという名で、前王陛下の側近だったのです」
シャインがディートフリートの昔話をしてくれる。
そんなに幼くして婚約したということは、政略だったのだろうと察しはついた。
「そう……兄さまも大変だったんだね」
「勘違いされておられるかもしれませんが、ディートフリート様とユリアーナ様は、出会った時から大変仲睦まじく、結婚を心待ちにしていたんですよ」
「本当に?」
「ええ、本当です」
それでも結局はユリアーナと結婚していない。大事な兄にユリアーナはなにをしたのかと、嫉妬にも似た感情を抱きながら次のシャインの言葉を待つ。
「陛下とユリアーナ様が十七歳になられてすぐのことです。ユリアーナ様のお父上のホルスト殿が亡くなられたのは」
元々心臓弱かったということで、誰も疑うことはなかったという。
そのため、ディートフリートとユリアーナの関係は問題なく続いていた。
十八になればすぐに婚姻を結ぶ予定だった、と。
「しかしその後しばらくして、亡くなったホルスト殿の不正が発覚したのです」
「不正……?」
フローリアンが思わず顔を歪ませると、シャインは厳しい顔で首肯した。
ホルストは機密情報を敵国に売り、国庫からは多額のお金を持ち出していて、その証拠が彼の死後、次々に出てきたようだ。
「ホルスト殿は不正などする方ではないと、陛下も私どもも必死に捜査しましたが……彼の無実に繋がるようなものは、なにひとつ出てこなかったのです」
本人もすでに亡くなっているのだ。聞き取ることもできないし、どうしようもなかったということはわかった。
「じゃあ、ユリアーナとは……」
「はい。ディートフリート様が、婚約破棄を言い渡すほかありませんでした」
「それは……そうだろうね……」
ホルストは犯罪者だ。その娘であるユリアーナと婚姻を結ぶわけにはいかない。
この国の公的騎士や官僚ですら、三親等以内に罪を犯したものがいれば、辞職しなければいけないのだから。
「ユリアーナ様はアンガーミュラーの家督を剥奪され、当然財産も没収されて貴族ではなくなりました。王都居住禁止命令が出され、ユリアーナ様は母君と共に、この王都を出ていかれたのです」
それでディートフリートは結婚していなかったのだ。今も独り身を貫き通していることで、どれだけその婚約者を愛していたのかがわかる。
フローリアンは兄の心痛を思い、奥歯を噛み締めた。
「その一年後、ディートフリート様が十八歳の時にフローリアン様はお生まれになったのです。それはもう、誰よりフローリアン様の誕生を喜んでいらっしゃいましたよ」
流れるように兄の話をしていたシャインが、フローリアンの誕生という横道に逸れた。
自分のことを喜んでくれるのは嬉しいが、今はそれより兄の話を聞きたい。
「兄さまはその後も、誰とも婚約しなかったということだよね」
「はい。候補はいたのですが」
「誰?」
「侍従長ウッツ・コルベの娘、ゲルダ・コルベです」
その二人ならフローリアンも知っている。確かにいつもウッツはディートフリートに擦り寄っていたように思う。
娘のゲルダは、矢印のような特徴的な鼻をしているが、美しい金髪を持つ綺麗な女性だ。
「どうして兄さまはゲルダと結婚しないの?」
「それはもちろん、ユリアーナ様を忘れられないからでしょう。陛下は他の女性に目を向けることもしませんから」
会ったことはないが、ユリアーナという女性はそれほどまでに魅力的な人だったのだろう。
結婚をして、子を成すことは王族の義務であるともいうのに、頑なにゲルダを拒んでいるのだから。
そこまで考えると、フローリアンは心のどこかでなにかが引っかかった気がした。
「ゲルダは兄さまに振られた後、誰かと結婚を?」
「いいえ。ウッツ殿が諦めきれなかったようで、長い間婚約者候補であり続けた結果、婚期を逃しております。」
「ゲルダは今いくつなの?」
「確か、今年で三十歳になったはずです」
三十歳は、この国では行き遅れと言われてしまう年齢である。
(ゲルダは親の執着のせいで、誰とも結婚させてもらえなかったってこと?)
そう考えると可哀想な女性だ。王である兄なら、権力を行使すれば誰とでも結婚させてあげられるはずなのに、それをしないことにも引っかかる。
「ゲルダ本人が、兄さま以外の誰とも結婚したくないって?」
「そんなことはないようです。行き遅れとなり、泣き暮らしているという話も小耳に挟みましたので」
「じゃあ兄さまが責任を持って、誰か良い人のところへ嫁がせてあげればいいのに」
「それが、ディートフリート様のお立場としては難しいのです」
「どうして?」
「それは……」
フローリアンの問いに、今まで難なく言葉を継いでいたシャインが初めて言い淀んだ。
「言って。これは命令だよ」
王である兄に口止めをされていないのならば、言えるはずだ。言いにくいことも命令とすれば、シャイン自身も多少は言いやすくなるだろう。
「では……これは、殿下の胸の内に仕舞っていただけば」
「うん、約束するよ」
誓ってみせると、シャインはようやくその口を開いてくれた。
「ここだけの話ではあるのですが……私も陛下も、ウッツ・コルベを疑っていた時期があるのです」
「疑う? もしかして……」
「はい。亡くなったホルスト殿を利用して罪を着せたのではないかと」
「違ったんだね」
「証拠は今も、まだ出ておりません」
今も出ていないということは、今も探し続けているということだ。
ウッツが犯人だという信憑性がどれほどのものか、フローリアンにはわからない。しかしユリアーナが出ていってから十六年、なにも出ないなら確率は低いだろう。
だというのに、ディートフリートは行き遅れとなったゲルダを他の貴族に嫁がせる様子がない。
「兄さまはまだ、ウッツを疑っているってこと?」
その問いに、シャインはなにも答えてくれず口を閉ざしている。
(兄さまは、ウッツが犯人というわずかな可能性を信じているのかもしれない。だから犯人の娘になりうるゲルダを、誰かに紹介するわけにもいかず、放置する形になってしまってる……?)
当事者ではないフローリアンには想像するしかできなかったが、そう考えるのが一番自然だと思えた。
「どうして、この話を僕に?」
しかし一番の疑問はそこだった。兄がわざわざこんなことを伝えさせに来たとは思えない。おそらくはシャインの独断だろう。なにか意図があってのこととしか思えない。
「フローリアン様はいずれ王となるお方です。身辺の情報は、きっと役に立つでしょう」
「……うん、そうだね」
「私はこれで失礼して、代わりの警護の者と交代いたします」
シャインは十数分話しただけで、部屋を出ていってしまった。
別の騎士が入ってくると、すぐに勉強を促される。後ろで監視する護衛がラルスでないことを残念に感じながら、フローリアンは本を開いて字を追った。しかし、まるで頭に入ってこない。
(シャインは意味のないことをしない男だ。僕になにかさせようとしていた……もしくは、なにかに気付かせようとしていた?)
思えば、ディートフリートの話の前に、簡単な歴史のおさらいをしたのだって不自然な気がした。
(六四〇年の兄弟戦争……僕が兄さまと対立すると思われてる? あり得ない、僕は王位継承に興味はない。そりゃ、兄さまがこのままなら、いつかは継がなくちゃいけないかもしれないけど、自分から積極的に王になるなんて冗談じゃない)
しかしこの考えにも違和感が残る。シャインが継承争いを懸念するだろうか。仲の良い兄弟だと、誰よりもわかっているというのに。
(違う……兄さまは僕が生まれて喜んだって言ってた。王位継承争いの火種になりうる僕を……)
継承争いを懸念するのは、むしろ生まれる前なのではないだろうかとフローリアンは思考を巡らす。
(待って。どうして僕は兄さまと十八歳も年が離れてる? )
十八歳差の兄弟。
世の中にはいないことはないだろう。しかし、間に兄弟が何人かいるのならばともかく、一人目と二人目でこんなに差が開くことはあるのだろうか。
(十八年もの間、母さまは妊娠できなかった……いや、しなかった? 争いの火種になるかもしれないから、子どもは作らなかったと考えた方が自然だ)
己の仮説にしっくりと来た瞬間、ぞわりと背筋が冷たくなる。
(じゃあ、どうして僕は作られ……)
「王子、先程からページが進んでおられないようですが?」
監視役の護衛騎士にそう言われて、フローリアンは慌ててページを捲った。
「読んでるよ、頭の中でまとめてたんだ」
そう言い訳をして、考えるのは一旦中断する。
ラルスならうるさいことは言わないのにと、監視役が短髪の赤髪でないことを残念に思った。
真面目に勉強するために紙とペンを用意していると、ふとツェツィーリアの顔が浮かんでくる。
(ツェツィーは今頃、音楽祭を楽しんでるかな)
自分がしてあげられることなど、音楽祭やコンサートに行かせてあげるくらいしかできないけれど。
少しでも喜んでくれると良いなと思いながら、フローリアンは己の勉強に取り掛かった。




