46話 魚釣り
竜追い祭イベントの翌日、その早朝。16日目を迎えた町は、昨日の出来事を忘れたかのように穏やかな雰囲気に包まれていた。
ほんの少し肌寒い空気と小鳥のさえずり、柔らかな朝日の光。そしてすっかりお馴染みとなった迷彩柄のバックパック。ゲーム開始直後からずっと続けている珍妙なマラソンもだんだん違和感が無くなってきている。たまに出会うプレイヤーからの視線にもすっかり慣れた俺は、この時間が段々と好きになってきていた。
相変わらず走る速度は遅いけれど、ひとつ新たに理解したことがある。この珍妙なバックパックを背負うとパワーやスピードなど表面的なステータスが無効化されてしまうのに何故タイムに変化があるのか。それは、体内を巡っているマナが大きく関与しているようなのだ。
「なんだかコツを掴んだ気がする」
不思議なことに、昨日のイベント後から、俺はマナをより明確に認識できるようになっていた。だからこそやっと理解できたのだけれど、どうやらマナをうまく使えば身体能力を底上げすることも可能らしい。
身体能力を底上げするスキルは【リインフォース】と呼ぶ。いつのまにか習得していたこのスキルを磨けば、町1周(約4km)を5分で走るという途方もない目標も本当に達成できるような気がしてきた。
ひょっとしたら、マラソンをする本当の目的はこのスキルの習得にあったのかもしれない。師匠は何も言わなかったけれど。
町の西南端に到達して左へ曲がる。
考えることが無くなって、ふと、昨日の夜のことを思い出した。
――そんなこと、言われずとも理解していますよ! プレイヤー全員に賞金を払ってでも今すぐ中止すべきだと思っていますよ! それが出来ないから……ッ。
昨日の夜に銭型が言ったセリフ。あれは、このゲームには今も厄介なトラブルが発生していて、しかも解決の目処が立っていない。そんな悪い状況にもかかわらずテストは中止できない……と解釈すれば良いのだろうか。
どうしてテストを中止できないのだろう。その理由は全然分からないけれど、銭型が見せた必死な顔はとても演技だとは思えない。運営にとって何か不都合な事態が発生していることは間違いなさそうだ。
やっぱり、このゲームは今すぐ止めてしまう方が良いような気がする。
運営が中止を宣言しないとはいえ、プレイヤーはログアウトを禁止されている訳じゃない。賞金は惜しいし、ゲームをクリアするという目標を達成できないのは残念だけれど、厄介なトラブルに巻き込まれるよりは遥かにマシだと思うから。
そう考えて、俺はゲームの中止を改めて雪羽に提案した。しかし彼女は考える素振りも見せずに首を横に振ってみせた。チリアットに襲われた後ですら涼しい顔でゲーム続行を決断したのだから、当然の答えだったかもしれない。
「はぁ……」
我ながら情けない溜息が漏れる。
一体どうすれば良いんだろう。
俺がこのゲームを止めるのは簡単だ。ゲームウインドウにある【ログアウトボタン】をタッチすれば、この世界の俺はすぐに霧散する。その後、棺桶めいた冷たい箱の中で冬眠している本当の俺は、魔法のようなプロセスを経て現実の世界に復帰するのだろう。
そんなことは解っている。しかし、何度自問しても、彼女たちと別れて自分だけがこの世界から逃げる気にはなれなかった。
「……止めよう。考えても仕方ないことで悩むのは俺の悪い癖だよな」
ゴール地点に到着して、深呼吸の最後にひときわ大きく息を吐く。
一介のプレイヤーに過ぎない俺があれこれと頭を悩ましても時間の無駄だ。今は自分ができることをやるしかない。昨日の夜にそう決めたじゃないか。
まずは宿に戻って朝食を取ろう。
天を仰げば抜けるような青空が広がっていた。今日もいい天気になりそうだ。
* * *
朝食を終えた後は、夏秋冬と一緒に行動することになった。今日から渓流エリアの再開に向けて色々と準備をしようという話になったのだけど、その関係で俺に手伝って欲しいことがあるのだとか。
「ログハウス、ですか?」
「うん。草原以外のエリアを探索するのって移動に余計な時間がかかるでしょ? でもログハウスを手に入ちゃえばその問題が解消されるから、何とか手に入れたいの」
ログハウスとは仲間内で共同利用できる宿泊用アイテムだ。詳しくはまだ理解していないけれど、要するに豪華なテントだという。モンスターが闊歩するエリアの中でも安全に夜を過ごせるらしい。それが本当なら確かに魅力的なアイテムだと思う。
「それで、俺はログハウスを買うお金を出せば良いんですか?」
「買うんじゃなくて、自分たちで作るんだよ。と言っても大工仕事をする訳じゃなくて、素材を集めて合成するんだけどね」
ほら、と彼女が見せてくれた紙切れには、10種の素材アイテムと必要な個数が記されていた。木材や岩など普通に要るだろうと思われる素材の他に【水精霊の魂】というアイテムも必要らしい。
「素材を全部集めて町の【合成所】にいるNPCに渡せば造ってくれるみたいなんだけど……手に入れるのが難しそうな素材があるんだよね」
それが水精霊の魂というアイテムだという。必要個数は1つだけれど、いったい何処にあるんだろう。
「えっとね、魂の入手条件は噂レベルだけど調べてあるの。でも私だけだと難しそうだから、アキトくんに助けて欲しいんだよね。これ以外の素材はユキちゃんとダージュくんにそれぞれ頼んであるから」
「今朝のくじ引き、そういうコトだったんですか」
「うん。という訳で、パパッと買い物してくるから少しだけ待っててね」
夏秋冬は説明を締めくくると、見慣れない看板が掲げられた建物に入っていった。
* * *
町の周囲に広がる【駆け出し者の草原】は見渡す限りの草原が広がっているエリアだ。とはいえ、その大地全てが草に覆われている訳ではない。北東部の一部には川が流れていて小さな湖も存在している。連れられるままに【カヴァン湖】という湖に行ってみると、そこでは多数のプレイヤーが競うように釣り糸を垂らしていた。
湖の直径は最大で500メートル程度だろうか。地図で確認した形はひょうたんに近く、ここから見る水面は鏡のように穏やかだ。ヘリから水面を覗き込んでみると、5センチほどの小魚がクモの子を散らすように逃げていく。水の透明度はさほど高くないようで、小さな影はあっという間に見えなくなってしまった。
「水深は結構あるから落ちないように気をつけてね。泳ぐのって結構難しいんだよ」
「……ひょっとして、落ちたことあるんですか?」
「えっとね、この湖にいる【ヌシ】を釣ると報酬として水精霊の魂が手に入るらしいの」
夏秋冬が強引に説明を続ける。ここは逆らわない方が良さそうだ。
「ヌシはとっても大きな魚だって噂なんだけど……ひょっとしたら、首長竜みたいなモンスターだったりしてね」
「そんな大物が釣れたら、逆に引きずり込まれそうですね」
「あはは。その時は助けてね、アキトくん」
楽しそうに笑う彼女は、アイテムボックスから竹竿を2本取り出した。
透明な釣糸には小さなピンポン球のような浮きがついていて、その下やや離れた位置にオモリがくっついていた。糸の先端にある針は2センチほどの大きさだけれど……こんな装備で大物が釣れるのかな。フナやコイを相手にするような構成だけど。
「この竿で本当に釣れるんですか?」
「だって売ってる釣竿はこれだけなんだもん。大丈夫、重要なのは道具じゃなくて腕だよウデ」
二の腕をポンポンと叩きながら彼女は小ぶりな竿を振る。風切り音に続いて微かな水音がして、湖面に小さな円がいくつも生まれた。
「ところでエサは使わないんですか?」
「うん。気合で何とかなるもん」
そんなコトを言っているが、どうやら嘘っぽい。
周りのプレイヤーの様子を見てみると、彼らはゴカイによく似た生き物をエサにしているようなのだ。
「……うに。湖のへりに【レッドワーム】って虫が生息しているの。それを使うと良く釣れるって話だけど――」
「――はい、採ってきましたよ」
さっそく手に入れたワームを渡そうとしたら、小さな身体が盛大にひっくり返った。
「ど、どどどどドコにいたの!? 近く!? すぐ近く!?」
「そこの大きな石の裏に大量にいましたけど」
「場所を変えよう! ね、ね? アキトくん!」
「どうしてそんなに逃げるんですか」
「気持ち悪いからだよ! アキトくんは平気なの!? ミミズみたいなウネウネ具合とかムカデみたいな足とか不気味に光るボディとか先端にある変な形の口とか! そんなのに触るくらいなら――」
イタズラ心に火がついて彼女の足元にワームを投げてみる。
「――にゃああああああああああああ!?」
結果、付近にいた釣り人全員から怒られてしまった。
* * *
ちょっとした騒ぎから3分後。周囲のプレイヤーにごめんなさいと頭を下げ終えた俺は、夏秋冬の機嫌を元に戻すのに苦労していた。
「……アキトくんのばか」
「ごめんなさい……」
銀色の目には今も少し涙が浮かんでいる。ちょっとした冗談のつもりだったのに、あんなに驚くとは思わなかった。
「はい、エサを付けましたよ」
まだ口を尖らせている女の子を宥めながら素早く作業を終える。彼女は「ありがと」と小さく呟いて、ワームがついた針を湖面へと投げ入れた。
気を取り直して俺も竿を振る。そのまま2人並んで獲物を待つ。
「釣れませんねー」
「そーだねー」
意気込んでピンポン球のような浮きを注視していたけれど、数分が経過しても何の反応も見られなかった。
穏やかな風に吹かれながら更に待ってみたものの、水面に漂う浮きはノホホンとしたまま働こうとしない。場所が悪いのか竿が悪いのかエサが悪いのか。原因は不明だが魚の気配すら感じられない。
そんな現状に飽きたのか、隣の小さな肩が俺の腕にくっついてきた。
「ね、美味しかった?」
「何がですか?」
「タルトだよ。ユキちゃんと一緒に食べたんでしょ?」
「ああ、はい。個人的な感想ですけど美味しかったですよ」
「そっか」
まだ少し口を尖らせているけれど、少しは機嫌を直してくれたらしい。
「昨日の夜、部屋に戻ってきたユキちゃんのテンションがちょっと変だったんだよね。深刻な顔をしていたかと思ったら急に赤くなったり、思い出したように少し笑ったり」
「そうなんですか。昨日はじめて知ったんですけど、雪羽さんって意外によく食べるんですよね」
「あ、それユキちゃんも言ってたよ。なんか緊張しちゃって、どれだけ食べたかもよく覚えていないんだって。『絶対に大食い女だと思われた』って頭抱えてた」
銀の髪を細かく揺らしながら竿を上げる。まだエサが残っていることを確認した彼女は西のほうへと針を落とした。
「ね、アキトくん。これからもユキちゃんと仲良くしてあげてね」
「……突然どうしたんですか?」
「ちょっと変わってるし変な所でヘソを曲げたりするけど、とっても良い子だから。それは保証するよ」
夏秋冬は念を押すようにもう一度「仲良くしてあげてね」と繰り返してくる。よく解らないまま頷くと、彼女は満足そうに微笑んでピンポン球を少し動かした。
「もう気付いているかもしれないけど、わたしとユキちゃんは現実世界でも友達なんだ。幼馴染って関係が一番当てはまるのかな」
そうなのかな、という気はしていた。ゲーム内でリアルの話題を出すことはあまり褒められた行為ではないので、自分から訊ねるようなことは出来なかったのだけど。
「テスターの当選倍率はかなり高かったのに、すごい偶然ですね」
「え? う、うん。そーだよね」
あはは、と目を泳がせながら笑う。そんな彼女は、やや強引に話を元に戻した。
「アキトくんだから言っちゃうけど、ユキちゃんってリアルでもゲーム内でも全然変わらないんだ。だから昨日の夜のことを知ってビックリしちゃった。あの子が男子と2人きりで食事なんて、宝くじの1等に当たるよりもレアな事件なんだよ」
男の子と仲良く会話している姿だって見ないのに、と楽しそうに笑う。
「ユキちゃんって凄く不器用なんだよね。その性格のせいで損することも少なくないから、わたしもついお節介になっちゃって。ごめんね、突然ヘンなお願いして」
「そんな事ないですよ。嫌われない限りは一緒にいようと思ってますし」
「うん、ありがと! あ、勿論わたしとも仲良くしてくれると嬉しいな」
えへへ、と少し照れた顔を見ていると、この子は雪羽のことを本当に大切に思っているんだなと感じた。
それからも、釣り糸を垂らしながら、彼女と色々なことについてお喋りした。
暑くも寒くもない絶妙な陽気はとても心地がいい。そんな環境だからか、自然と心も休まってついつい眠たくなってしまうけれど、隣にいるのが夏秋冬なので寝落ちする心配は全くない。
「このローブを着ていると冒険してるって気分になるんだよね。だから外に出る時はこの姿って決めてるんだ」
「よく似合ってると思いますよ」
「えへへ、アキトくんが褒めてくれるならセクシぃな衣装にだってチャレンジしちゃうよ? 胸元が大きく開いたコスチュームとかどう?」
それは止めておいた方が良いような気が。
「その哀しげな目はどーいう意味なのかな?」
「いやー、今日は良い天気ですね」
「今まで毎日快晴だよ!」
そんな他愛もない話のほかに、珍しい料理を出す店や、新しく発売されたアイテムについて、果ては特定の時間にのみ出没するというNPCの話まで。肝心の釣果は相変わらずサッパリだけれど、ほのぼのとした時間を過ごしていると何だか癒される。こういうイベントも悪くない……いや、むしろ大好きだ。
和やかな雰囲気で会話は進み、話題は次々と切り替わっていく。今のテーマは昨日のイベントについてだ。
「結局、鬼ごっこ勝負はわたしが最下位だったんだよね。ちょっと自信あったのに」
「そういえば、あの竜人の衣装ってどうやって用意したんですか? 完成度が高くて驚いたんですけど」
「でしょ? あれは衣装屋さんが変装セットを貸してくれたの。もう返却しちゃったけどね」
夏秋冬いわく、衣装屋の店主と親交を深めるイベントをクリアしていると特別なイベントが発生したらしい。
衣装を変えてもステータスには一切影響しない。だから俺は衣装屋とほとんど交流が無かったのだけれど、そんなイベントが隠されていたとは知らなかった。
「私とダージュくんの他にも何人か変装していたみたいだよ。タッチされちゃえば普通にアウトだし、ちょっとした失敗で正体を見破られちゃうんだけどね。あの転移さえ無ければもっと逃げられたと思うけど……アリスちゃんには悪いコトしちゃったかな」
「別に気にしていないと思いますよ」
「そうだと良いけどね。また会えると嬉しいな」
少しだけしんみりとした雰囲気になって会話が止まる。まだ針にエサが残っているかを確認するために竿を立ててみると、湖面から出てきたワームはだらりと脱力していた。そろそろ新しいワームと交換するべきなんだろうか。意味があるかどうかは知らないけれど。
「うーん、全然釣れないね。何が悪いのかな」
夏秋冬が首を傾げる。俺も同じ気持ちだ。そろそろ1時間が経過するというのに、まだ1匹も釣れていない。のんびり待つことは嫌いじゃないけれど、このまま魚を待っていても何も変わらないような気がしてきた。
「投げ釣りはできないんですか? 近くで糸を垂らしていても大物なんて釣れないと思うんですけど」
「そんな竿は売っていないもん。周りを見てもみんな同じ竿でしょ?」
じっと待つことに疲れたのか竿から手を離してしまう。そんな彼女は大きく伸びをすると、足を伸ばしていた俺の太ももに頭をちょこんと乗せた。
「首が痛くなりませんか?」
「うん。もうちょっと足を細くしてくれると嬉しいかも」
無茶なことを言わないで下さい。
「まーまー、そんな顔しないで少しくらい我慢してよ。それにしても困ったな。ヌシはまだしも、ふつうの魚すら1匹も釣れなかったらユキちゃんに笑われちゃう」
期待の眼差しを向けられても誤魔化すように笑うしかない。俺だって釣りたいとは思うけれど、魚がやる気を出してくれないと勝負すらできないのだ。
他のプレイヤーも似たようなもので、無駄足だと帰った人は見ているだけでも10人以上。せめて魚の居場所が分かればいいけれど……。
「……やってみるか」
目を閉じて意識を集中する。凪のように穏やかな空間の中で生物の気配を探してみる。不思議そうに俺を見る夏秋冬と周りで釣り糸をたれるプレイヤー。それらの他に何か動くものは――
「――アキトくん? いきなり立ち上がってどーしたの?」
「少し場所を変えてみます」
ゆっくりと湖のヘリを歩き、30メートルほど西に移動したところで立ち止まる。古くなったエサを交換して、10パーセントの自信とともに針を落としてみる。
すると、今まで完全に寝ていた浮きが突然目を覚ました。
ピンポン球を中心に幾つもの円が生まれる。その様子を注視しながら待ち続け、浮きが完全に水没した直後に引き上げる――
「――よし」
独特の手応えが腕に伝わってくる。獲物を逃がさないよう慎重に竿を立てると、やがて真鯉によく似た魚が勢いよく飛び出してきた。
「やった! アキトくん凄い! 魚群探知機みたい!」
「それ褒めてますか?」
「細かいことを気にしちゃダメだって。ほら、魚はここに入れてね」
言われるまま、彼女が差し出してきた魚篭に獲物を入れてみる。便利なもので、完全に飲み込まれていた針が自動的に外れてくれた。
「コレに入れておくと生きたまま保存できるんだって。アイテムボックスに収納しても大丈夫だから簡単に持ち運べるんだよ」
元気に跳ねている魚の大きさは50センチくらいだろうか。なかなか立派な型だけれど、残念ながらヌシではないみたいだ。それでも嬉しそうに魚を眺めていた夏秋冬は「わたしも釣るぞー!」と元気に竿を手に取る。乞われるままに新しいエサをつけると、彼女の釣り針は勢いよく飛んでいった。
それから、昼前までに2人で15匹釣り上げた。夏秋冬が釣った魚は1匹だけだったけれど、満足そうな顔をしているので良しとしよう。
「ところで、この中にヌシはいないんですよね?」
「うん。さっきから他の人の様子も観察していたけど全然釣れていないみたいだよね……気が進まないけど、やっぱりあの人に訊いたほうが早いかな」
一人で納得したように頷いた夏秋冬が俺を見る。
「ね、一度町に戻っていいかな。後でちゃんと説明するから」
どうやら何かアテがあるらしい。ということで、俺たちは町に戻ることになった。




