Ex.1 ゲームマスター
ここは、ソウルブラッドオンラインというゲームの世界に存在する建物の一室。
ゲーム開始から15日目。時間は23:40。
ひっそりと静まり返る、まるで病室のように白色が目立つ部屋で、気弱そうな男が今日50回目の溜息を吐いた。
「はぁ~~」
湿っぽい音は誰にも聞かれないまま消滅し、耳が痛くなりそうな沈黙がまた戻ってくる。男の周囲には数多くのディスプレイが覆い被さるように配置されており、それらには夥しい数のメールが表示されていた。
「『死ね』とか『クズ』とか『無能』とか……ネガティブな言葉を大量に浴びせられると本当に死にたくなってくるんだなぁ。よくこんな罵詈雑言が思い浮かぶなって感心するけど……はぁ」
オフィスチェアに収まっている体の力が抜けて白衣の裾が床に届きそうになる。そんなことには全く無関心なまま、男――銭型GMは狭い机に額を乗せた。
テンプレートを利用した小綺麗な文章でも、自分で必死に考えた文章であっても、それに対する反応は更なる罵倒の嵐。もちろん全てがそんな内容ばかりではないが、寛大な意見が書かれている割合はコーヒーを買って当たりが出る確率と大して変わらない。
そんな現実に打ちのめされて、彼は諦観の念をこめて息を吐いた。
「……クレームメールなんだから当然だよな。賞金が出るからプレイヤーは唯でさえピリピリしているし、そんな中で運営がバカな失敗をすれば矛先がどこに向かうかなんて決まりきっているし」
幽鬼のような呻き声を出しながら生白い顔が上を向く。
「これも勉強だってチーフに言われたけど、GMって大変なんだなぁ。同僚は妙にそっけ無くて相談に乗ってくれないし……ああ、もう愚痴は止めよう。めげる暇があるなら丸く収める方法を考えろって話だよね」
今の自分はゲーム運営を任されたGMの一人であり、ユーザー対応という大任を負っているのだ。本来開発職である人間には難しい仕事だが、泣き言ばかり並べ立てても仕方がない。自分の応対がゲームの評価を左右してしまうのだから何とかしないと。
「今のところはかなり失敗気味だけれど……ってダメだ。油断するとすぐに落ち込むのは危険な兆候だよ。無理矢理にでもポジティブに考えないと」
そう己を戒めて銭型は心を再起動させる。指を小さく振りキーボード型の入力デバイスを呼び出して、目の前に立ちはだかる仕事に改めて挑みかかった。
観葉植物すら置いていない殺風景な空間に、キータッチを教える微かなデジタル音だけが連続で響く。
仮想空間のアバターを操っている時でも現実世界での癖はよく顔を出す。それは運営の人間であっても変わることはなく、キーを打つ銭型の首が時折ぐるりと回転する。そんな無駄な動きを挟みながらも打鍵スピードは全く衰えず、作業は速く正確に進んでいく。
「謝罪文だけは少し上達した気がする……なんて言ったら黒代崎チーフにコブラツイスト決められちゃうかな」
自嘲気味に呟いて笑う。
そんな銭型の少し丸まった背中を、怪しげな男がじっと見つめていた。
男は無精ヒゲを生やしており、風下に立つライオンのように目を細めている。ニヤリと口元をゆがめて笑い、作業に没頭する銭型を目指してゆっくりと歩き出す。
「アレ痛いから勘弁して欲しいのに……うーむ、補償の原案はこれで良いかなぁ」
男の身のこなしは少々硬いものの、その足音は恐ろしいまでに静かだ。熟練した技能を持つ泥棒でも音を隠し切れないような環境なのに、まるで足を持たない幽霊のように無音のままターゲットへと近づいていく。
「補償を厚くすれば良いって訳じゃないけど……まあ、意見を貰ってからまた考えれば良いかな」
無防備な背中を眺めながらほくそ笑んだ男は、銭型が大きなアクビをした瞬間を狙って一気に襲いかかった。
「んがぁっ!?」
細い身体が驚きに固まる。不意を突かれた銭型には抵抗するヒマも術も無かったが――襲撃者の正体を理解したとたん、その顔がウンザリしたような色に変わる。
「チーフ……音を消して近寄っていきなりヘッドロックは止めて下さ痛い痛い痛い!」
「うるっさい。ちょっとストレスが溜まってるんだから黙ってろ」
「だったらせめてペインアジャスターをイジらないで下さいよ! 本当に痛いじゃないですか!」
「痛くなかったらお前ヘラヘラ笑うだろ。『まったく黒代崎チーフは何時まで経っても子供だなあ』なんて思いながら哀れみの視線を向けてくるだろ」
「そんなコトしないですよ!」
「うるっさい。実はそう思ってるんだろ? んん?」
デンジャラスな空気を孕んだ沈黙が生まれる。テメー嘘ついた瞬間に死刑執行だぞコノヤローと雄弁に語っている眼光を前に、哀れな子羊はごくりと唾を飲み込んだ。
「……ちょっとだけ」
「よく言った。褒美に殺してやる」
大人たちが手足をバタバタさせて暴れる。その様はまるで子供のようで、成人男性が職場でする振る舞いとしては全く相応しくないものの、それを咎める人物はこの世のどこにも存在しない。
一見するとイジメの現場にしか見えないが、銭型の口元にも小さく笑みが浮かんでいた。このイベントは2人が出会って以来ずっと続いているもので、双方にとって挨拶の代わりになっているのだ。周りからの評判はすこぶる悪いが。
「ふー、満足した」
「パイルドライバーは勘弁してくださいって言ったじゃないですか……」
「でも頭スッキリしただろ? 嫌な思い出も全部吹き飛んだだろ?」
「重要な事まで吹き飛びそうでしたよ……まったく、チーフは」
フラフラになりながら椅子に戻り、ポロっと出そうになった言葉を慌てて飲み込む。
「どんな悪口を言ったんだ? おう?」
「何も言ってません! 本当ですってば! だからアイアンデスクローはやめて下さぁああああああああ!?」
黒代崎魔王。このゲームの開発を担当したグループの長であり、ゲーム内における最高責任者。不敵な笑みを浮かべている顔は現実のそれとほとんど変わらない。彼ほど【名は体を表す】という言葉が似合う人物はいないと銭型は常々思っている。
魔王の戯れにボロボロになりながらも、銭型はGMの顔になって改めて口を開いた。
「そ、それで、不具合の原因は特定できたのでしょうか。私が調べた範囲では特に問題など無いように思えるのですが……考えにくいですが、外部からの不正侵入という可能性も考慮する必要があるのかもしれません。専用回線を使って各会場を繋いでいるとはいえ、可能性がゼロだとは――」
堰を切ったように次々と意見をぶつける部下に対し、自らをチーフと呼ばせる上司はあさっての方向を向きながら右手をヒラヒラさせた。
「ああ。ま、そんなに焦るな」
「チーフ、もうフザケている場合じゃないんですよ。NPCに『お客さん、今夜はお楽しみですか?』とか『耳ついてんのかハゲ』とか言わせてプレイヤーの反応を楽しむ悪趣味な遊びをしている場合じゃないんですよ」
「大丈夫だ。そういうイベントはちゃんと相手を選んでるから」
「そんな心配をしている訳じゃありません! もう既に洒落にならない事態が発生してるという現実をちゃんと受け止めていますか!? ねえチーフ!?」
背もたれの高いイスに身を委ねた上司は部下の訴えに口元を緩める。洋画俳優のように軽く肩をすくめて左右の手のひらを天井に向けた。
「そんなに叫ぶなよ。あまりストレスを溜め込むと本当にハゲるぞ? 緩和するよう設計されているが、完全カットは無理だから――」
「――そんなの気にしている場合ですか! 問題をこのまま放置したらどうなるか理解していますよね!? 一刻も早く原因を特定して修正しないとクビが飛ぶだけじゃ済まない可能性もありますよ!?」
「そうだな」
「そうだな、って……」
アッサリとした返答に、銭型の顔が絶望したように歪んだ。
なぜなら、いまの黒代崎から全く覇気が感じられないからだ。彼の力をもってすれば不具合の対応など5分も必要としない筈なのに。仮にそれが叶わないほど根が深い問題だとしても、彼自身が深く関わった作品ならば率先してコードを睨み、不眠不休でバグを潰しにかかる筈なのに。今の彼はそれをしようとしない。しているとは思えない。
「手伝えることなら何でもしますし、頼りになるスタッフもいます。それでもダメだとしても、本社から応援を出してもらう事だって可能ですよね?」
「ああ。お前の言うとおりだ」
まるで柳に風だ。いつもなら部下に噛み付かれたと同時にコブラツイストを発動するのに、この上司は一体どうしてしまったのか。
そもそも、黒代崎が開発指揮を執ったゲームで深刻な不具合が発生していること自体が異常なのだ。このゲームも今までと同じく、社内テストを繰り返した上で今回のテストを迎えている。なのに、何故こんな事態になってしまったのだろう。
銭型の頭に浮かぶ疑問は消えることなく膨張していく。脂汗が流れ出しそうなストレスを必死に抱え込みながら、彼は絞り出すように声を出した。
「どうしても不具合の修正が難しいのなら、やはりテストの中止を選択する他ないと思うのですが……どうしても本社は中止を認めないのですか? なぜなんでしょう?」
ゲーム内と外では時間の体感速度が大きく異なるため、現実世界にいる開発チームはリアルタイムでこちらの動向を把握している訳ではない。とはいえ、今このゲーム内でどんな事態が発生しているかは知っている筈だ。いや、仮に事態を把握していないとしても、黒代崎からの連絡は届いているはず――
「――ああ、それ嘘だ。本社が中止を認めないんじゃなくて、続行するよう俺が頼んだんだ」
「……え?」
己の耳を疑ような言葉に、銭型の目が丸くなる。
「ようやく最低限の準備が整った。これでやっと半歩前進したと言えるか。楽観視はできないが」
「ど、どういう事ですか?」
「『このゲームはこのまま続行すると正式に決定した』と言ってるんだよ。状況の把握と混乱を外部に漏らさない為の小細工に苦労したが、これでやっと一息つけそうだ」
目の前の男が何を言っているのか理解できない。ふつふつと湧き上がってくる強烈な不安を胸の内に留めていられなくなって、銭型は音を立てて頭を掻き毟った。
「どうした。ストレスをコントロールできないと早死にするぞ?」
黒代崎が笑う。その顔は敬愛する上司そのものなのに、何かが違う。
胸を押されたように銭型が一歩後退して――その瞬間、プシュ、と妙な音が生まれた。
「え……ちーふ?」
「心配するな。昼寝用アイテムを使っただけだ。さっき作ったヤツなんだけどな」
呆然と己を見る部下に対し、黒代崎は淡々と告げる。
「訳ありでな。これからのGM業務は全てキャンセルだ。ああ、お前が用意した補償はそのまま配布しておくから心配するな」
「なん、れ……こんな、」
舌がもつれてうまく喋れない。泥水に飲み込まれるように銭型の視界から光が消えていく。トロンとしたまぶたはもう殆ど閉じていて、黒代崎の肩を掴んでいた手からも力が抜ける。
「ここ最近ろくに寝てないだろ? 優しい上司が特別休暇をくれてやると言ってるんだ。いいから黙って気絶しろ」
黒手袋をはめた手が銭型の目を塞ぐように動く。その直後、まるで息を引き取るように銭型の身体から完全に力が抜ける。やがて、その姿は、床に染み込むようにして跡形もなく消滅した。
「さて、楽しくない作業を再開するか」
足元を眺めていた黒代崎の顔から笑みが消える。やや乱暴に足音を鳴らしながら、彼はどこかへと向かって歩き出した。




