謝罪など必要ありません。ただ私が愚かだったのです。
「 謝罪など必要ありません。ただ私が愚かだったのです」
リディアは努めて冷静に聞こえるように心がけながら、優しくそう答えた。自分の手を握り返してくる存在を思い出し、大丈夫だからと微笑んで見せる。そうだ、自分がしっかりしないでどうする。もう自分は、恋に夢を見ていた乙女ではない。随分と年をとってしまったけれど、その分しっかりと地に足をつけて生きられるようになったではないか。
だから、今度こそ笑顔でさよならを言えるはずだ。たとえ目の前にいるのが、誰よりも愛したかつての恋人だとしても。
***
かつてリディアは、王立学園に通う子爵令嬢だった。正直なところ、貴族と名乗るのがおこがましいほどの財政状況ではあったのだけれど。学園には裕福な商人の子どもも入学しているが、彼らの方がよほど裕福な暮らしをしていたくらいだ。
それでも生まれた時から貧乏暮らしのリディアは、庶民的な生活にすっかり慣れてしまっていて慎ましいながらも青春を謳歌していた。なんといっても天下の王立学園だ。学園内には貴重な本がたくさんそろった図書館があり、学園に通っている者であれば自由に閲覧することができる。自前で貴重な本を用意することができないリディアにとっては、大変ありがたい場所なのだった。
そこで貴族子女とは思えないほどの懸命さで課題に取り組んでいたリディアは、ある日、同じクラスの男子学生が自分を凝視していることに気が付いた。平民だが、貴族子息だといってもおかしくないほど容姿が整っている。その端正な顔立ちに似つかわしくない驚きようで自分を見ていたわけだが、その反応は珍しいものではないためリディアは素知らぬふりを貫いた。
見た目こそ令嬢然としているリディアだけれど、口を開けばどうにもはすっぱで庶民的な部分が露わになってしまう。そしてすぐに想像と違って残念だと去られてしまうのだ。嫁候補にはならないと判断されるのだろう。
きっと先ほどの彼も、貴族令嬢が必死になって勉強をしているなんてみっともないだとか、貧乏くさいと思ったに違いない。まあ言いたい人間には言わせておけばいい。自分には、王宮で働くという目標があるのだ。下働きではなくそれなりの高給取りとして職を得るためには、試験を突破する必要がある。実家の太い学生の戯言にかまっている時間などない。
再び思考の海へ沈んでいったリディアは、しばらく後に自分の前に差し出された本を見て固まってしまった。先ほど自分を見て目を見開いたまま固まっていた男子学生が、何やら複数の本を持って再度やってきたのである。一体何事か。資料探しという名目でお目当ての女子学生に声をかける男子学生がいるらしいということはリディアも耳にしてはいたが、それはあくまで口実である。リディアのように本気で勉強をしている女子学生に、ちょっかいをかけてくるような物好きはいない。
だからこそ首を傾げつつ、資料を受け取ったリディアはその中身を確かめるようにページをぱらぱらとめくると、食い入るように読みふけり始めた。目の前の文字列に深く入り込んだリディアは、渡された本のお礼をまだ相手に伝えていない。けれど本を持ってきた男子学生は、夢中になって読みふける彼女の姿にひどく満足気にうなずいていたらしい。
それがリディアと、その恋人メイナードとの出会いだったのである。
***
貴族の子女の場合、幼い頃から婚約者がいることも多い。けれど、持参金を用意できない名ばかり貴族のリディアは、自分で結婚相手を見つけなければならなかった。実家を援助できるような大貴族と結ばれるなんて、リディアの両親も期待していない。むしろそんな大貴族から縁談の申し込みなどがあったら、詐欺を疑ってしまうだろう。
だから子爵令嬢であるリディアが平民であるメイナードと交際をしていても、問題などなかったのである。学園を卒業したら結婚しよう。メイナードにそう言われて夢身心地になっていた時だった。リディアの両親がとんでもないことを言い出したのは。
「すまない、リディア。もうこれしか方法がないんだ」
「……そんな、お父さま!」
なんとリディアの両親は、突然多額の借金を負ってしまったのだという。いくらひとのよい両親とはいえ、ほいほい他家の保証人になどになったりはしない。それにもかかわらず、両親の名前が連帯保証人となった書類がいくつも存在するのだとか。
両親の筆跡に似せてはいるが、使用している羽ペンやインクが絶妙に異なる書類。けれども警邏は、それを両親のものだと断定してしまった。筆跡鑑定は、個人の技量に左右される。それどころか、特に明確な根拠もなく家々の力関係で話し合いが進むことも少なくはない。どうやら両親は身近な人間に嵌められたようだということはわかったものの、リディアにはどうすることもできなかった。
「ごめんなさい。どうか不甲斐ないわたしたちを許してちょうだい」
このままでは一家離散してしまうと覚悟を決めた両親により、リディアは成金の老人の元に嫁がされることになってしまったのである。リディアには年の離れた弟がいるため、両親はなんとしてでも子爵家を存続させたかったのだろう。リディアが嫁ぐことで援助を受けられる手はずになっているのだとか。
家の事情はわかっているが、納得できるかどうかは別物だ。愛するメイナードと別れた挙句、若い女を所望するひひじじいの元に嫁がされるなんてまっぴらごめんである。リディアが大貴族の深窓のご令嬢であれば、涙を流しつつも自分の運命を素直に受け入れたかもしれない。何せ、貴族令嬢にとって家のために生きるのは当たり前のことなのだ。
けれどリディアが育った子爵家は、あまりにも名ばかりの貴族だった。平民に交じって暮らし、それでもかなり切り詰めた暮らしをしてきた。貴族の義務だけがのしかかり、さらに困窮していく生活。リディアは貴族らしく振舞う意味があるほど、己の身分に価値を感じてはいない。だからこそ、彼女は行動を起こした。
藁にもすがる思いで、リディアはメイナードに手紙を書く。どうか自分と一緒に駆け落ちしてほしい。お金がなくても、メイナードと一緒ならきっと幸せだからと。
***
手紙の受け渡しは、いつもふたりが手紙をやりとりしている秘密の場所を使うことにした。学園近くの公園にあるさくらんぼの大樹、その根元付近にある大きなうろがそれだ。位置が低すぎるためか、それとも斜めに細長いせいで奥行きも広さもないせいか、動物の巣として使われている形跡もなかった。
別にふたりの仲は隠し立てする必要があるものではなかった。貴族と平民という身分の差はあれどリディアの家は貴族というのもおこがましいほどの貧しさで、なんだったら魔導具関連で財を成しているメイナードの家のほうがよほど裕福なくらいだ。
これはちょっとした遊びの延長。リディアには巷で流行っている大衆小説のような恋愛に憧れがあり、周囲の目を盗んだ手紙のやりとりを行っては胸を躍らせていたわけだ。交換日記のように今までもほぼ毎日手紙を入れていたのだから、きっとメイナードも気づいてくれるだろう。リディアはそこに希望を見出したのである。
(お願い、メイナード。私を助けて!)
手紙には自分が置かれている現状を切々とつづった。自分の両親が誰かに嵌められたらしいこと。大変な借金を負ってしまったこと。どうか自分を連れて逃げてほしいこと。リディアはメイナードに一緒に駆け落ちしてくれないかと提案したのだ。
リディアが駆け落ちの実行日として指定した日。その日は朝から天気がぐずついていた。出かける頃にはぽつぽつと雨が振り始め、やがて雪混じりのみぞれとなった。
寒さに震えながら、可愛らしい喫茶店のひさしの下でメイナードを待つ。彼はどんな顔をしてリディアを迎えに来てくれるだろうか。信じられないくらい大荷物を持ってきたりするのではないか。そうしたら、リディアはメイナードに言ってやるのだ。もう、メイナードったら。あなたさえいてくれたら、他にはなんにもいらないのよ。でも、私との新生活のためにいろいろと用意してくれたのね。どうもありがとうって。
けれどどれだけ待っても、メイナードがリディアを迎えに来ることはなかった。もしかしたら、メイナードは実家の家族と別れの挨拶をしているのかもしれない。天気が悪い中出かけることを不審に思われないように、様子を伺っているのかもしれない。メイナードが来ない言い訳を自分の中で積み重ねる。
けれど、店の前でひとを待ち続けるリディアを気の毒に思ったらしい主人から、先にお席について待たれてはいかがでしょうかと声をかけられて、リディアはふらふらと歩き出した。どうしてメイナードは来てくれないのか。その意味するところを考えたくなくて、公園に向かう。メイナードは意外とうっかりしているところがあるから、勘違いしてあの大樹の前で待っているかもしれない。
途中から傘をたたんで走り始めたリディアは、公園につくなり手紙を入れたうろの中を探った。いつもなら翌日にはなくなっているはずの手紙が、うろの中に放置されている。水たまりにでも落としたのかすっかり文字が読めなくなった手紙は、しわだらけの状態で押し込まれていた。
メイナードの手紙のためだけに使っていた封蝋は剥がされている。つまり、メイナードは手紙を読んだのだ。それにもかかわらず、手紙は元の場所に押し込まれていた。これだけでメイナードの気持ちを推し量るには十分だった。平民とはいえ裕福な家に生まれたメイナードにしてみれば、借金持ちの訳あり令嬢となったリディアなんてお荷物以外のなにものでもない。迷惑をかけられるのはまっぴらごめんだ、そう判断されても仕方がなかった。
だったらはっきり断ってくれたらよかったのに。そう思いつつ、メイナードが何も言わずに自分から距離を取った理由も理解していた。泣きわめくリディアにすがられたら、面倒なことになるのはわかりきっている。何より、貴族の娘をそそのかしたと嫁ぎ先から難癖をつけられたらたまったものではない。降りかかる火の粉は払われて当然だ。
どうしようもないことだとわかっていながら、あまりにも自分がみじめで、リディアはぐしゃぐしゃの手紙を樹の根元に投げ捨てた。
※※※
どんなに泣きつかれても朝はやってくる。リディアが成金の元に嫁ぐ日。馬車に乗ろうとしていたリディアの前に現れたのは、鬼のような形相をしたメイナードだった。実はリディアは、メイナードが怒った姿を見たことがない。彼は高慢な貴族に絡まれたときも、理不尽な教師に目をつけられたときも、いつも穏やかに微笑んで受け流していた。逆にリディアの方が、メイナード以上に腹を立てていたくらいだ。メイナードは、君が怒ってくれるから僕は笑って頭を下げていられるのだよ、平民はしなやかに対応できる方が長生きできるからねなんて言っていたけれど、それがどうにも歯がゆくてならなかったものだ。
それなのに、どうしてメイナードはこんなに怒っているのだろう。そもそもリディアは学園の誰にも詳細を伝えないまま退学していた。この場にメイナードがいること自体が不自然なのだ。
「リディア、君はどうして!」
今さら話すこともないし、どうしてと言いたいのはリディアの方である。自分の誘いを断っておいて文句を言われても困ってしまうではないか。ああ、もしかしたらメイナードは誰にも何も言えなかった自分と違って友人に相談したのかもしれない。そして、いくら駆け落ちになんて付き合えなかったとはいえ、無視はよくないと諭されたのだろう。
なんて自分勝手な男なのだろう。ふざけるなと言いたかった。馬鹿にするなと言いたかった。でも別の男の嫁になるという自分を見て、なぜか腹を立てているらしいメイナードを見ていると、なんだかこれも流行りの小説みたいだなと思ってしまったのだ。
だったら、最後くらいは綺麗なお別れをしよう。一瞬の逡巡のあと、リディアはそう決めた。馬車に乗りかけていたのをやめて、メイナードの元に歩み寄る。本来ならば迎えにきた婚家の人間の手前もあり、誤解されるような会話は慎むべきだ。それでも、リディアはメイナードの前に立った。リディアなりの意趣返しだったのかもしれない。
「メイナード、幸せになってね」
あなたなんて大嫌いと言いたかった。私のことを一生忘れないでと言いたかった。でも、物語の主人公ならば相手の幸せだけを願うだろう。駆け落ちを拒否された憐れな女だからこそ、最後に見せる顔くらい綺麗なものであってほしい。そんなことを考えてしまう程度には、やっぱりリディアはメイナードのことが好きだったのだ。
嫁ぎ先は意外と悪いところではなかった。結婚相手は若い女を侍らせたがっていたひひじじいではなく良識的な老紳士で、口うるさい親戚連中に根負けしてリディアを娶ったらしい。実家への援助はもちろんのこと、リディアとは白い結婚となる代わりに侍女としての給料を支払うと言われ、リディアはがぜんやる気になったのである。
それからしばらく。老紳士の孫育てを手伝ったり、老紳士の健康問題を解決したりと、リディアと老紳士は最後まで良い関係で過ごすことができた。とある魔導具の発明により、実家の両親が契約書を書き換えられて不当に借金を背負わされていたことが判明したり、なぜかその罪が驚くほどスムーズに暴かれたりもしたが、おかげさまでリディアは老紳士の死後もお金に悩まされずに済んでいる。あれほど子爵家にこだわっていた両親も、結局自分たちは貴族に向いていないと爵位を返上したことも大きい。
信じられないことがいろいろあったが、リディアは自分の人生にそれなりに満足していた。老紳士と死別してからもなぜか乳母めいた生活を送ることになっていたが、それでもリディアは毎日を謳歌していたのである。ある日突然、懐かしい声で呼び止められるまでは。
***
「リディア!」
道を歩いていたリディアは、突然声をかけられた。一瞬呼吸することさえ忘れてしまったのは、自分に声をかけてきたのがメイナードだったからだろう。もう長い間、メイナードには会っていない。どこで何をしているかも知らなかった。ひとに尋ねれば消息をつかむことはできたはずだが、リディアは意図的にメイナードの情報を耳に入れないようにしていたのだ。
久しぶりの再会だというのに、すぐにメイナードだとわかるほどかつての面影を残していた。昔よりもずっと逞しく、ずっと素敵になっている。かつてメイナードに抱えていた淡い想いがじんわりと胸に広がって、懐かしい気持ちがあふれた。大丈夫だ。きっと、この想いは思い出に変わっている。作り笑いなどしなくても、自然と微笑みを浮かべることができた。
「まあ、こんなところでお会いするなんて。こちらにはお仕事で?」
「あのお転婆なリディアがすっかり淑女になっている。ああ、君は幸せに暮らしているんだね」
小さな男の子を連れたリディアのことを、愛おしそうに見つめてくるメイナードを見て、なんだか非常にいたたまれない気持ちになる。悪いことは何ひとつしていないはずなのに、どうにもきまりが悪い。うつむきそうになるのを必死にこらえていれば、メイナードが深々と頭を下げた。
「偶然こちらに来たといいたいところだけれど、下手な言い訳をしたところで意味がないからね。ずっと、君に謝りたかったんだ」
その言葉に、リディアはぎゅっと手に力が入ってしまった。手を繋いだ相手が顔をしかめているのを見て、慌ててその手を緩める。そしてそっと首を横に振った。
「謝罪など必要ありません。ただ私が愚かだったのです」
大人になった今なら、あの時の自分の提案がどれだけ自分勝手なものだったか理解できる。もしも自分たちが本当に駆け落ちを実行していれば、両親も弟も路頭に迷ったに違いないのだ。メイナードの実家にも多大なる迷惑をかけてしまったことだろう。
嫁ぎ先で向き合ったからこそ打ち解けた老紳士も、リディアが約束を守っていなければ恐ろしい一面を見せたかもしれない。メイナードがリディアの手を取らなかったことは、まこと正しかったのだ。だから、今度こそ笑顔でさよならを言えるはずだ。たとえ目の前にいるのが、誰よりも愛したかつての恋人だとしても。
***
幼い初恋を終わらせるためにメイナードと向き合ったはずなのに、彼から出た言葉は信じられないものだった。
「リディア。今現在、君にご主人はいないはずだ。もう一度、僕とやり直してほしいだとか、夫になりたいだなんて贅沢は言わない。ただ、君たちの幸せを近くで見守らせてくれないか。雪の降る日も、月の見える日も、花の咲く日も、ずっと君に笑っていてほしい」
メイナードの提案に、リディアは目を大きく見開いた。どうして、今ここで彼からその台詞が飛び出してくるのか。
――雪の降る日も、月の見える日も、花の咲く日も、ずっとあなたの隣にいたいの。あなたが隣にいてくれたら、私はきっと一生笑顔で幸せに暮らせるはずだから――
それはあまりにも幼く、わがままな愛の言葉。かつてリディアが、メイナードに宛てたものの読まれることのなかった手紙に書いていたことなのに。
「どうして、それを。あの手紙は私が拾った時には、既にぐちゃぐちゃで文字なんて読める代物ではなかったでしょう?」
「君の弟がわざわざ手紙を家に届けてくれてね。内容は自分も知らないって聞いたから、なんとかして手紙を読もうと努力したのさ」
「そんなことのために、あなたの人生を使ってしまったの? 本当にお馬鹿さんね」
「……僕は、今も昔も君一筋のお馬鹿さんなんだよ。雪が降ったら、君がしもやけになってないか、月を見たら君が大好きな焼き芋をちゃんと食べられているか、花が咲いたら道端の花の蜜を吸い過ぎて蜂に刺されていないか心配したものだよ」
「そこは綺麗な雪や月、花を見て、私を恋しく思うところでしょう!」
リディアが淑女の振る舞いをかなぐり捨てて叫べば、メイナードが愛おしげに微笑んだ。学生時代そのままの柔らかな笑みだった。
「君の手紙を読むために努力をして、その結果、新しい魔導具も開発できた。それがあれば君のご両親の汚名をそそげ、莫大な特許料も手に入る。すぐに君を迎えに行けると思っていたんだ。まさか開発者保護のために、何年も自由な移動が禁止されることになるなんてね。何せ僕を保護したのは王家なものだから、異議申し立てをすることもできずに難儀したよ」
メイナードはリディアの手紙を読むために、消えた文字を復元する研究していたらしい。その過程において、筆跡鑑定についての新しい魔導具まで発明したのだそうだ。リディアの両親の冤罪を晴らした魔導具の開発者がメイナードだったことに、リディアは驚くとともにどこか納得もしていた。努力を惜しまないメイナードだからこそ、新しい技術を開発することが可能だったのだろう。
そしてその有用性から、魔導具が普及し一般化するまでの間、国に保護される羽目になったことも理解できてしまった。メイナードの魔導具は多くの権力者の不都合を暴いてしまうのだ、一歩間違えば大変なことになったに違いない。そんな根回しさえすっとばしてしまうくらいに、自分のことを大切に思っていてくれた。それがあまりにも嬉しくて、リディアは目を潤ませた。
「メイナード、あなたは本当にすごいひとだわ」
「いいやリディア、君こそ本当にすごいね。僕が軟禁……もとい保護されていた時、君はすでに大富豪と仲睦まじく暮らしていた。君が嫁いでからというもの、あの気難しい老紳士はまるでかつての若い頃のように、人当たりも良く穏やかになったと評判でね。僕がいなくても、君は自分なりの幸せをしっかりつかんでいた。今だって、君にはもう大事な家族がいるとわかっている。君に僕は必要じゃないかもしれない。でも、僕は君がいないと生きていけないんだ」
ちらりとメイナードが、リディアと手を繋ぐ相手を優しげに見つめていた。急にそんなことを言われても、なんて答えてよいかわからない。口ごもるリディアに代わり、舌ったらずな声がさかしげに言葉を発した。
「だってさ、姉さん。ここまで追いかけてきてくれる男なんて、なかなか他にいないって。手を取ってあげなよ」
「あんたが偉そうに言っていいことじゃないでしょうが!!!」
直後、超弩級の雷が落ちた。
***
鼻をつままれて悲鳴を上げる男の子を見て、メイナードが慌てて仲裁に入る。いくらしつけの範囲とはいえ、リディアの容赦のなさが少々気になるところだったのだ。さすがに幼子にするにはいささか乱暴に過ぎる。けれどリディアはメイナードの動きを片手で制した。
「メイナード、この子の見かけに騙されないで。それからグレン。もとはと言えば、あなたが手紙を抜き取ったりするから、こんなことになったのよ? わかっているの?」
「だからそれはごめんって。確かにたまたま尾行していた俺が、『この封蝋、見たことない! 欲しい! よし、綺麗に封蝋を取れば何も問題ないじゃん!』って考えて、実行しちゃったのが悪いよね。まさか封蝋を取るためにつけた薬液で、インクがすっかり流れてしまうなんて……」
「反省すべきはそのもっと前段階なのだけれど。そもそも姉の跡をつけたあげく、手紙を勝手に持ち出したことを罪だと認識しなさい。まったくこれだから行動力のある幼児は恐ろしいのよ」
「そこは俺が天才だから仕方がないよね。それに手紙もあんなところに不用心に置いているからさあ。読まれてもいいのかなって思って」
若気の至り部分を爽やかにあてこすられて、リディアは目を吊り上げた。
「私に悪い部分があったことはもちろん認めるわ。それでもよ! 封蝋をはがした後の手紙を元の場所に戻そうとしたのをすっかり忘れて、カバンのなかに放り込んだあげく、べろべろの蛇腹折りにしてしまったこと。そしてそこまで忘れていたならばいっそゴミとして捨ててくれればよかったのに、何日も後になって元の場所に戻したこと。本当にこれは、とんでもない罪よ?」
「悪いと思ったから、あの後、手紙をグレンに届けたんじゃないか。さよならも言えないままお嫁に行くのはかわいそうだなって、グレンを呼んだ俺って偉くない?」
「偉くない! あちらの皆さまのお心が広かったから許されたけれど、本来ならば嫁ぎ先で私が針のむしろに置かれる可能性だってあったんだからね!」
「でも、わかってて義兄さんに挨拶したのは自分じゃーん」
「グレン!!!」
メイナードは呆然と目の前のふたりを前に立ち尽くしていた。こんなやりとりには、ずいぶんと馴染みがある。学生時代のリディアとその年の離れた弟――とんでもなく頭の回転の速い無鉄砲な天才――が、いつもこんな漫才のような掛け合いをしていたのではなかったか。あまりにもリディアの弟の幼年時代にそっくりな顔立ち。同じグレンという名前。何より、リディアのことを姉さんと呼んでいることで、メイナードはありえないと思いつつも、恐る恐る真偽を確かめた。
「グレン、君は……」
「ははは、久しぶり! 最後に会ったのは、義兄さんが王家に保護される直前だっけ? 俺もちゃんと約束を守ったでしょ。まあ、虫除けになるを通り越して、若干お邪魔虫になっちゃいそうな自覚はあるけれど。ごめんねえ、新婚生活を満喫する前に子持ちにさせちゃうなんて」
「いや、その姿は……」
「ほら、俺のせいでふたりの青春を汚しちゃったわけじゃん? だから、若返りの薬を作ってふたりにはいちゃらぶしてもらおうと思ってさ。人体実験も必要だけれど、薬の量が少なかったから、勿体なくて俺自身で試したら効きすぎちゃってね。しかも同等の薬はいまだ再現できていないってありさま。まあ、実験器具に付着していた残りかすで成金じーさんを、じーさんの孫が成人するまで長生きさせられたんだから、やっぱり俺ってすごすぎじゃね?」
どうやら薬に使用した素材の一部に突然変異のものが混入しており、偶然効果のある薬が作られてしまったらしい。まあ、本当に若返り薬を恒常的に作ることが可能になっていたならば、メイナード同様にグレンも王家に保護されてしまっていただろう。だからこれで良かったのだと、うろたえるメイナードの前でグレンは陽気に笑ったのだった。
***
幾多のすれ違いを乗り越え、ようやくともに暮らし始めたリディアとメイナードだったが、ひとつだけ想定外だったことがあった。それは一緒に暮らす予定だったグレンが速攻で家出してしまったことだ。
「ああ、どうしましょう! グレンがひとりで暮らすなんて!」
「いくら中身は成人男性とはいえ、あの幼子の姿では犯罪に巻き込まれる可能性も」
「違うわ。あれはぎりぎり犯罪者にならずに済んでいる愉快犯なの。お目付け役がいなければ、悪人相手にいろんなことをやらかしているに違いないわ!」
「……グレンが楽しんでいて、かつ世の中から悪党が一掃されるならまあ良いことかと」
「そうなのかしら? 本当にそんな風に前向きに考えて許されるものなのかしら?」
首を傾げるリディアを必死で慰めるメイナード。ふたりは知らない。しばらく後に、「いったん大人には戻れたけれど、今度はまたちょっと違う方向でややこしいことになっちゃった! 困ったからお世話してくれよ~」と笑いながら、白黒ハチワレ猫姿でグレンが帰ってくることを。リディアはグレンに向かって、超弩級の雷を再び落とすことになるのだった。
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