91:これは決してサービスなどではない
パスティア・ウェモンの騎士の詰所のような場所で、先導していたレイスが呼び止められていた。
「何かあったんでしょうか……?」
ヌーラが心配そうに御者台越しの騎士たちを見つめている。
「サボってたのがバレたんじゃないのか」
ナーディラがレイスを心底バカにしたように言う。それでも足りないくらいのことをされたわけで、俺には彼女を咎めるつもりはない。
レイスがこちらにやって来る。なにやら難しい顔をしている。
「問題が発生した。私は行く」
「問題とはなんだ?」
「お前たちが知る必要はない」
レイスが冷たく言い放つと、ナーディラはすかさず返す。
「私たちを野放しにしてもいいのか?」
「お前たちがドルメダであるという疑いが晴れたわけではないことを肝に銘じておけ。お前たちが逃亡したとなれば、身元引受人であるアレムが罰を受けることになる」
レイスはそう言ってファマータを全速力でパスティア・タファンの方へ走らせて行ってしまった。
突然訪れた解放の時に、俺たちは半ば肩透かしを食らった気分だった。
「これからどうする、リョウ?」
御者台からこちらに身体を向けて足を投げ出すナーディラが尋ねてくる。
「そうだな、まずはファマータと車をアレムに返さないといけない」
「それなら、パスティア・タファンの中腹に向かうといいだろう」
イマンの言葉で目的地が決まる。彼は加えて言う。
「僕の独断ではあったが、君たちはすでにパスティア・タファンの魔法・精霊術研究所の所属だ。慣例として、研究部門長のフェガタト・ラナに挨拶をしておかねばならないな」
「研究所に……!」
ヌーラの目が輝いている。アメナも好奇心を掻き立てられたようだった。
「では、アレムのところ、そして、研究所へ向かいましょうか」
イマンは俺たちを眺めて、首を捻った。
「その前に、少し身なりを綺麗にしておこうか」
気づけば、ムエラ・ココナを出てから今までの六日ほど、俺たちはちょくちょく魔法や精霊術で生み出した水で身体を拭うくらいのことしかしていない。
この世界では、これくらい当たり前のことだが、イマンは綺麗な身なりをしていた。パスティアでは今の俺たちはみすぼらしすぎるのかもしれない。
イマンはナーディラに言う。
「僕の別荘の場所は分かるかな?」
「ああ、あの街の外れの……」
「そこへ向かってくれないか」
***
街から離れた自然豊かなエリアにやって来る。
雑木林に囲まれた瀟洒な建物が見えてくる。それがイマンの別荘だ。なんだか、ものすごく久しぶりに戻ってきたような気がする。
イマンはナーディラに、閉じたままの門にそのままファマータを進ませるように言った。
「おい、大丈夫なのか?」
不安そうなナーディラの声とは裏腹に、大きな門がひとりでに開いていく。
「どうなってるんですか、これは?!」
ヌーラが声を上げる横で、アメナが興味津々に目を煌めかせている。
「精霊駆動というやつじゃな」
イマンは服のポケットから小さな赤金色のメダルを取り出した。
「これを頼りに精霊駆動が始まるように門扉を細工してある」
「そ、そんなこともできるんですか……」
ヌーラの感動と共に、俺たちの乗った車は別荘の建物の正面に停まった。素早く車を降りると、ナーディラが建物横のファマータ留めに車を置いてくれた。
みんなで立派な建物の玄関の前に立つ。
イマンが慇懃なお辞儀をした。
「ようこそ、僕の別荘へ」
玄関を入ると、広々としたホールが待ち構えていた。
吹き抜けのホールから階段が階上に伸びて二階部分の回廊に繋がっている。床は綺麗に磨かれた白い石がパネルになって敷き詰められている。
ホールの一階部分からは三方に廊下が出ていて、別荘の大きさを想像させた。
「私の領主の屋敷よりも大きいぞ……」
ナーディラがお上りさんみたいにキョロキョロとしている。
「ここは僕の同胞たちの避難所としての想定もしているんだ」
イマンは右手の廊下を指さした。
「向こうに浴場や休憩室がある。身体を綺麗にして、少し休んでいてくれたまえ。僕はやらなければならないこともあるから、少し失礼させてもらうよ」
イマンは足早に反対側の廊下に歩いて行った。
休憩室は、簡素な内装ではあったが、毛足の長い絨毯や柔らかなクッションの長椅子などが置かれ、くつろぐには最適な空間だった。
香水なのか、いい香りのする液体の入ったボトルも並んでいて、何か身体の芯からほぐされるような空気だ。
「悪いが、先に身体を洗わせてもらうぞ」
ナーディラが隣室に向かおうとする。
ヌーラとアメナが見送ると、ナーディラが俺に目を向けた。
「リョウも来い」
「えっ!? 俺は後でいいよ」
「時間を無駄にするな。行くぞ」
ナーディラが俺の腕を掴んで強引に浴場へ引っ張っていく。
脱衣所からはドアなどの仕切りがなく、そのまま浴場が続いていた。
ナーディラは臆面もなく服を脱ぎ始めて、仕方なく俺も裸になった。露わになったナーディラの健康的でしなやかな肢体を横目に浴場に入る。
「なんだ、こりゃ、すごいな!」
ナーディラの声が響く。
大きな湯船にはすでにお湯が張られていて、湯気が漂っている。これも精霊駆動で維持されているのかもしれない。
「こんなの初めてだ!」
ナーディラが俺の腕を掴んでたっぷりのお湯の中に飛び込む。
危うく溺れかけて、思わずナーディラの頭を叩いた。
「いきなりそういうことしないの! あと、ここに入る前はお湯をかけて身体の汚れを流すんだよ!」
湯船をこの世界の言葉でなんというのか分からなかった。
ナーディラはシュンとした顔で頭を押さえて、鼻の下まで湯に浸かる。
「そこまで怒らなくてもいいだろ……」
「とにかく、急にここに飛び込んだらダメ。分かった?」
「うん、分かった」
ナーディラが身体を寄せてくる。
お湯の温度はそこまで高いわけではない。温めの、ゆったりと入れる心地よさだ。
「お前のいたところでは、そういう規則があったのか?」
「規則っていうか、そういう習わしなんだよ。この中のお湯が汚れちゃうだろ」
「なるほど、そういうことか。優しい世界だな」
──優しい世界、か。
そんなこと考えもしなかった。銭湯じゃ、かけ湯はルールになっている。だから、気遣いでそうしているわけじゃない気もする。
「例のコウセイブッシツはどうなるんだ?」
しばらくして、ナーディラがそう尋ねてくる。
彼女には昨夜、基本的なところは話してある。
「この世界では、おそらく作ることはできないだろうな」
「じゃあ、デイナトス狂病は治せないのか?」
その言葉には深い失望が滲んでいた。ホッサムの顔が思い浮かぶ。
「イマンの話では、精霊駆動の応用で治癒することがあったみたいだから、しばらくは彼の方法を支援する方が近道だと思う」
「解法は一つじゃないわけか」
「そういうことだな」
意外にも真面目な話題をふっかけてきたな、と思っていたら、いきなりナーディラが湯船の中で俺の身体に跨ってきた。
「ちょ、ちょっと……!」
「少しくらい大丈夫だ」
「いや、そういう問題じゃなくて……!」
「待つのじゃ!!」
大きな声がして、振り返ると、浴場の入口に素っ裸のアメナが立っていた。
「やはり、お前たちは子をなそうとしていたか」
「そ、そんなことしようとしてない……!」
ナーディラが俺を跨いだまま立ち上がる。
「私たちの時間を邪魔するな、クソ女!」
「なんじゃと、選ばれし者であるアメナになんという口の利き方じゃ」
──なんでこんなことに……。
浴場が戦場になってしまった。取っ組み合いの喧嘩を始めた二人から静かに離れて、俺は早々に浴場を出ることにした。
残念なようなホッとしたような、複雑な気持ちだった。
***
「あれ、さっきアメナさんがそちらに向かわれましたけど──」
休憩室に戻ると、長椅子に座ってテーブルの上に香水のボトルを並べていたヌーラが目を丸くして出迎えた。
浴場の方から爆発音のようなものが聞こえてくる。
それだけでヌーラは全てを察したようだった。悪戯っぽく笑って彼女は言う。
「争いの渦中の人がここにいて大丈夫ですか?」
「素っ裸の女性陣の間に入って仲裁する勇気はないよ」
「あはは、災難でしたね」
「笑い事じゃないぞ、ヌーラ……。あいつら、俺がナーディラに気持ちを伝えてから、妙に活き活きしてるんだ」
「うふふ、それはね、やっぱり、生きる力が湧いてきているからですよ、きっと」
「やけに達観しているように見えるな」
「だって、わたしだって──」
休憩室の浴場側の入口にナーディラとアメナが立っていた。
「リョウ……、なに呑気に話し込んでる……!」
「アメナたちはリョウを巡って死闘を繰り広げておったのじゃぞ……」
二人は肩を貸し合いながらそこに立っている。どちらもげっそりとしている。戦いの後遺症だろう。
「お前ら、身体を休めに来たんだろうが。なんでヘトヘトになってるんだよ……」




