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89:心の通じる時

 ナーディラの涙が俺の服の肩をじっとりと濡らす。


 身体は震えていた。


 彼女はポツリポツリと話し始めた。


「怖かったんだ。……あの監獄は死のにおいしかしなかった」


 ナーディラのような強い人でも、やはり、死は怖いのだ。善く死ぬために生きようと心に誓っていたとしても。


「あの冷たい独房に独りだったんだ。仕方ないさ。でも、もう外に出られた」


「そうじゃない。私が怖かったのは、お前たちが死んでしまうのを想像することだった」


「俺たちが?」


「私のせいで、お前たちを命の危機に晒したんだ」


 ナーディラは思い詰めた様子でそう言った。


「なんでそうなるんだよ。そんなこと誰も思ってない」


 彼女は強く首を振る。


「私のせいなんだ。私がお前の鍵のことを聞き回らなければ、騎士たちに捕まることはなかった。パスティアの人間がお前の鍵について思うところがあるのがとっくに知っていたはずなのに……」


「お前は俺の記憶を取り戻したくて頑張ってくれてただけだよ。騎士に捕まったのは、結果論でしかない」


「ムエラ・ココナでも、私のせいでお前を危ない目に遭わせた……」


 ──あのこと、未だに引きずってたのか。


 ナーディラが声を上げる。


「怖かったんだ……!」


 レイスがチラリとこちらを見るが、身体を寄せあう俺たちを睨みつけて顔を背けた。


「私のせいでお前たちが……お前が死んでしまうのが。もしそんなことになったら、私は……!」


 ポロポロと涙をこぼして、彼女は俺の腕にしがみついた。


 それでナーディラは監獄を出てから大人しくしていたんだ。自分の勇み足で新たなトラブルを招かないように……。


 肩を抱いて、嗚咽を漏らす彼女を落ち着けさせた。


「もう大丈夫だよ。みんな無事だ」


「私は怖い。魔法が世界の均衡を崩していると証明されることが」


「どうして? それがこの世界の均衡を維持する方法を探す手がかりになるんだ」


「なら、私は今まで間違った考えでガラーラたちを殺してきたことになる。それが怖い」


 ああ、そうか。


 自分が突き進んできた道が本当に正解だったのか、彼女は不安で仕方がないのだ。


(サイモン、ナーディラは──)


 サイモンに問いかけようとして、思い留まった。


 これはきっと、俺自身の言葉で伝えなきゃならないんだ。


「俺だって、ずっと自分が正しいのか悩み続けてきた。あの時こうしていればッて。後悔の度に自分を責めた。自分を責める理由なんて、振り返ればいくつだってある」


 ナーディラが至近距離で俺を見つめていた。俺の言葉にじっと耳を傾けている。


「でも、それは後ろを振り返るためじゃないんだ。前を見て、次こそは後悔のないようにって、自分を奮い立たせるためなんだ。お前がそれを教えてくれたんだよ」


「私が……?」


「俺はね、正直、お前が羨ましかった。誰かを助けるために、考えるよりも先に行動して、自分ではなく、常に誰かのことを考えている……。人はそうあるべきだって思うけど、そうあれる人は少ない。お前はすごいよ」


「そのせいで、誰かが死んだかもしれないんだぞ」


「俺はお前に言ったよな、『ずっと一緒にいる』って。お前の選んだ道も、俺が正解にするよ」


 ナーディラの目に光が点ったような気がした。


 彼女の両手が俺の頬を包み込む。温かい手だった。


 彼女の顔が近づいてくる。


 向こうの方で、咳払いがした。


 レイスがため息をつくと、剣を片手にこのスペースから集落の方へ出て行った。


 ──なんだよ、気を利かせたつもりか?


「気を利かせたつもりか、あいつ?」


 ナーディラがレイスの背中を睨みつけてそう言うので、俺は笑ってしまった。


「なんだ?」


「いや、同じことを思ったから」


 選ばれし者のように結びついた存在でなくとも、思いは伝わり合うのだ。


「リョウはいつも私を救い上げてくれるな」


「そうか?」


「お前が私の騎士だったんだな」


「そんなに格好いいもんじゃないよ……」


「そうやってはぐらかすところも、好き」


 真っ正面からそんなことを言われて、顔が熱くなってしまった。


「どうやら問題は解決したようじゃな」


 向こうから足音がする。ヌーラとアメナが戻ってきたのだ。


「す、すみません……、お邪魔かと思ったんですけど、アメナさんが……」


 ヌーラが困惑した顔で謝ると、なんだかおかしくなって、ナーディラと俺は顔を見合わせて笑ってしまった。


 ナーディラが立ち上がって伸びをする。


「心配をかけたな。私は少し考えすぎていたようだ」


「元気になったみたいでよかったです」


 アメナは腕組みをしてナーディラを睨みつけている。


「選ばれし者同士の絆に割って入ろうとは、恥ずかしげもない奴じゃ」


「逆だ。お前が後から割って入ってきたんだろ」


 ナーディラがいつものような悪戯っぽい笑みを返していた。


「あのことは話したんですか、リョウさん?」


 ヌーラに尋ねられて、俺にはまだ重大なことが残されているんだと思い出した。


「あのこと……?」


 ナーディラが首を傾げる。


 ついに打ち明ける時が来たんだ。


「ナーディラ、俺はこの世界の人間じゃないんだ」


 ナーディラは不意を突かれたのか、茫然としていた。


「今まで言えなくてごめん」


 彼女はヌーラとアメナの方に目を向けた。


「お前たちは知っていたのか?」


 二人はうなずく。


 不安げな表情がナーディラの顔を覆い尽くしていく。その瞳が俺を捉える。


「私にだけ秘密にしていたのか……?」


「そういうことじゃない。言う機会がなくて……」


「記憶を失くしたっていうのはウソなのか……?」


「違う。この世界のことを何も知らないのは本当だよ」


「どうして初めから本当のことを言ってくれなかった?」


 詰問調でナーディラに訊かれて、彼女と初めて出会った頃のことを思い出した。


「混乱させるかもしれないから。それに、このことを話せば、お前が俺を突き放してしまうと思ったんだ」


 ナーディラが眉を吊り上げる。


「そんなことで私がお前を?! ふざけるな!」


 杞憂だったんだ。


 ナーディラに異世界のことを話さないと決めた時、なぜそういう結論に至ったのか、俺はもう憶えていなかった。だけど、彼女を失いたくないという一心でそう決めた気がする。


「ナーディラさん、わたしたちもついさっき聞いたんです。リョウさんは悩みに悩んで……」


「そんなことは問題じゃない。私の気持ちを勝手に決められたことが嫌なんだ」


 ナーディラがきっぱりとそう言った。


 アメナが柄にもなく慌てていた。


「ナ、ナーディラ、そこまで目くじらを立てることもあるまい。アメナはお前が割って入ったなどと思っておらんぞ……」


 ──さっき思いっきり言ってただろ。


 ナーディラの険しい表情。


「私は信用ならないということか」


 否定しようとした瞬間、彼女はこのスペースを出て行こうとした。


 思わず、その腕を掴んだ。


「放せ」


「謝るよ。俺は勝手にお前が受け入れてくれないと思った」


「お前と心が通じ合っていると思ったのに」


「通じ合ってる」


「うるさい! 放せ!」


「ナーディラ、お前のことが好きだ」


 ナーディラの動きがピタリと止まった。


 ヌーラが目を丸くして口元を手で覆う。


 アメナはやれやれと言うような表情。


「頼りがいがあるところも、強いところも、勇み足をするところも、意外と女の子っぽいところも……」


「う、うるさいな!」


 ナーディは俺の手を振り解いたが、行こうとはしない。


 涙を浮かべて俺を睨みつけていた。


「そんなんで埋め合わせられると思うな!! 私を幸せにしろ、バカが!!」


 俺は無言で彼女を強く抱きしめた。


 また向こうの方で咳払いがした。レイスだ。


「明日は早々にここを出る。さっさと寝ろ、バカどもが」


 ナーディラが俺の腕を絡めとる。


「罰として一晩中そばにいてもらうぞ」


「全然罰じゃないよ」


 ナーディラは顔を赤くして、俺の腹に拳を叩き込んだ。


 あまりにも鋭い衝撃に、思わず膝を突いて、頬が地面にくっついた。


「リョ、リョウさん?!」

「一撃じゃな……」

「リョウ、すまん……!」


 意識が遠のいていく。



***



 翌朝、盗賊団の集落を後にした。


 結局、最後までカリムとは和解しきれなかった。


 街道に出ると、ファマータの車のそばでイマンが待っていた。少し寂しげな笑みを浮かべて。


「さあ、パスティア・タファンに戻ろう」


 そうだ、俺たちにはまだやるべきことがたくさん残されているのだ。


 車に乗り込むと、前の方でレイスが声を上げた。


「私が先導する。遅れるな」


 ナーディラが笑う。


「ありゃあ、早くお家に帰りたいとみた」


 ファマータが地面を蹴る音と共に車が走り出す。

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