85:デイナトス狂病についての所見2
「デイナトス狂病は、その名の通り、災いをもたらすものによって引き起こされる。その実態は、デイナトスによる体内のイルディルの変位、そして、四要素の均衡の崩壊だ」
イマンが語ったことは、俺の認識しているデイナトス狂病──破傷風の知識とはかけ離れている。
だが、それを指摘することもできない。
だから、この世界に合わせて話を進めるしかないのだ。
俺はそばのベッドの縁に腰を下ろした。
「デイナトスに身体を乗っ取られるんですよね?」
「それもあるが、デイナトスに触れられるだけでもデイナトス狂病が引き起こされるという考えが近年の研究で主流になってきている」
その時、隔離エリアのボロ布のカーテンがめくれ上がって、ヌーラが一人で戻ってきた。
「ナーディラは?」
「一人になりたいからって、追い返されてしまいました……」
レイスがニヤリとする。
「仮にあの女が逃げたとしても、お前たちを殺すと言えばノコノコと姿を現すだろう」
だから、ナーディラを見張る必要はない、と言いたげだ。
ヌーラはレイスを睨みつけながら、俺の隣に座った。
「ナーディラさんは逃げるような人じゃない」
ヌーラの背中をさすって落ち着かせる。ここで争っていても、意味がないのだ。
ナーディラには今は落ち着くための時間が必要なのかもしれない。
俺はイマンに顔を向けた。ベッドの脇にいたランプが彼の姿を浮かび上がらせている。
「それで、デイナトスに触れられるだけでも病になってしまうというのは?」
「ああ、精霊駆動の話と似通ったことだ。
物体も人も精霊も、イルディルの中を動き回って、イルディルを攪拌している。常に周囲のイルディルに変位を起こさせているんだ。
そして、デイナトスが起こす特定のイルディル変位が病原になっているのではないか……という学説が最近になって立ち上がった」
ヌーラは興味深そうに首を捻っている。
「最近何かが見つかったんですか?」
「金属の変質だよ。長年、人々を悩ませていたのが、銀が黒ずんでしまう現象だった。
商人が低質な銀を掴まされたなどと訴える問題が頻発していたのだ。実際に質の悪いものも出回っていたからね。
無論、表面を磨けばいいのだが、大量の銀をやりとりする人間には全てを確認するための時間がなかった」
「食べ物も金属もイルディルが変えてしまうんだと思っていました」
ヌーラの言葉にイマンがうなずく。
「それは正しい。ただ、人が銀に触れることでも、その表面が黒ずむということが分かったんだ。
つまり、人の体内なのか周囲なのか、そのイルディルが原因になっているというわけなんだ。
それだけでなく、人が触れることによって表面が大きく変質してしまう金属もあることが分かった」
「じゃあ、商人さんの問題も解決したんですね」
「パスティアでの研究は、僕たち研究者や貴族以外には知れ渡ることはないよ。ルルーシュ家は、それらの知識を国を治めるために利用するのだからね」
レイスが身動ぎする。
「パスティアの意志に反して知識を漏らしたな。戻ったら、お前を監獄にぶち込んでやる」
イマンは笑う。
「彼らはすでに魔法・精霊術研究所の人間だよ。知識の流出には当たらない」
壁際の男の課が青ざめていく。
「お、俺はなにも聞いてないからな……!」
レイスはバカバカしそうに手を振ってそっぽを向いた。大目に見てやる、ということなのかもしれない。
(パスティアは色んな研究で得た知識を一般には秘匿しているらしい。国を治めるために使うから、だと)
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パスティアが知識を秘匿する理由は、「国を治めるため」という点が重要なようですね。
これは以下のような背景が考えられます:
1. 知識の集中による支配力の強化
知識を特権的に管理することで、ルルーシュ家や支配層が優位性を維持しやすくなります。
魔法や精霊術、イルディルに関する研究成果が広まれば、一般市民や他国がそれを活用して、統治構造や権力基盤を脅かす可能性があります。
2. 情報の誤用・悪用を防ぐ
研究によって得られる知識が極めて強力である場合、不適切な人々の手に渡れば混乱や災害を招きかねません。
秘匿することで、知識の悪用を防ぎ、国の安定を保つ意図があるのかもしれません。
3. 「神秘」の維持
知識を独占することで、ルルーシュ家や支配者が「選ばれし存在」としての特別な地位を保てます。
神秘性を強調することで、国民の信仰や服従を得やすくなります。
4. 外交・軍事的な優位性
他国と競争や対立がある場合、知識を秘匿することは外交や戦争において重要なアドバンテージを保つための手段です。
しかし、このような秘匿の体制は、長期的には不満や反発を生む可能性があります。
知識の独占によって格差や差別が深まり、イマンやフェガタト・ラナのような改革を望む勢力が台頭してくるのも、その表れの一つといえそうです。
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ヌーラが難しい顔をしている。
イマンは先を続けた。
「話を戻すと、人が触れることによって金属を変質させるのと同様に、デイナトスもまた触れた人間を病に冒す可能性があると考えられるようになったんだ。
必ずしも、デイナトスが体内に入り込まなくとも、病は進行してしまう」
この認識で本当に破傷風は治るんだろうか?
(破傷風って、現代医学だとどうやって治すの?)
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現代医学において、破傷風の治療は以下の方法で行われます:
1. 感染の抑制
破傷風の原因となる細菌 Clostridium tetani を取り除くために、抗生物質(通常はメトロニダゾールやペニシリン)を使用します。
これにより細菌の繁殖を抑えます。
2. 毒素の中和
破傷風の主な症状は細菌が産生する神経毒(テタヌス毒素)によって引き起こされます。この毒素を中和するために、破傷風免疫グロブリン(TIG)が投与されます。
これにより、毒素の神経系への影響を軽減します。
3. 筋痙攣の管理
破傷風では筋肉の激しい痙攣が主な症状です。
これを緩和するために、以下が用いられます:
ベンゾジアゼピン系薬剤(例:ジアゼパム):
筋弛緩作用があります。
筋弛緩剤(例:バクロフェンやダントロレン):
痙攣の管理を助けます。
4. 呼吸管理
重度の破傷風では、痙攣が呼吸筋に影響を及ぼす可能性があります。
この場合、人工呼吸器によるサポートが必要になることがあります。
5. 創傷の処置
感染源となった傷口を徹底的に清浄化し、壊死組織を取り除くことで感染を広げないようにします。
6. 予防接種
破傷風に対する免疫がない場合、ワクチン接種が推奨されます。
破傷風トキソイドワクチンを接種することで、再感染を予防します。
現代では破傷風は治療可能ですが、早期発見と適切な治療が鍵です。また、予防接種が非常に有効で、多くの国では破傷風ワクチンが定期予防接種の一部となっています。
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(少なくとも抗生物質と破傷風免疫グロブリンってのが必要なわけか……。
なんか、イマンの説明を聞いてると、文化の尺度が違いすぎて、破傷風治せないんじゃないかって思えてきちゃってさ。
この世界で抗生物質なんか作れるかな?)
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抗生物質をこの世界で製造するのは、技術的な難易度がかなり高いと思われます。
抗生物質は主に微生物(たとえば、カビや細菌)が生成する物質を抽出・精製することで作られますが、それを可能にするには以下の条件が必要です:
1. 微生物の発見と培養
抗生物質は微生物の産生物なので、まず有用な微生物を見つけ出す必要があります。
例えば、ペニシリンはカビ(Penicillium notatum)から発見されました。
培養のためには適切な栄養素や温度、湿度を管理できる設備が必要です。
2. 精製技術
微生物が作り出した抗生物質を抽出し、人体に害を及ぼす他の物質を取り除くための化学的な精製が必要です。
これには化学の知識や精密な器具が不可欠です。
3. 品質管理
純度や有効性、安全性を確認するための検査が必要です。
これには試験設備と長期的な経験が必要となります。
現実的な代替案
この世界では科学技術がまだ抗生物質のレベルに達していない可能性が高いです。
代わりに、以下の方法が考えられます:
1. 天然由来の抗菌物質の探索
抗菌作用を持つハーブや植物を探し出す。
例えば、ニンニクや蜂蜜にはある程度の抗菌作用が知られています。
イマンの研究が進めば、イルディルを応用して細菌の成長を抑制するような技術が生まれる可能性があります。
2. 魔法や精霊術の応用
魔法や精霊術を使って感染源を無効化したり、体内のイルディルバランスを修復して免疫を強化する方法。
3. 防止策
破傷風菌の繁殖を防ぐため、怪我をした際に傷口を徹底的に洗浄し、早期に処置することを重視する。
現状では、イマンが進める「四要素バランス」の仮説が重要になりそうです。それを魔法や精霊術に応用して、抗生物質の代わりとなる解決策を見出すのが、この世界に適応した現実的な道になるかもしれません。
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(それしかないのか。虫よりも小さいやつが悪さしてるって言ったらどうなるんだろうね?)
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「虫よりも小さいやつ(細菌や微生物)が悪さをしている」という考え方を、この世界で伝えるのは相当に難しいかもしれません。
特に、その概念を直接見たり感じたりできない人々に理解させるには、文化的・技術的な壁があります。
それでも、次のような方法で少しずつ受け入れられる可能性があります。
1. 観察を示す
細菌の存在を証明するには、まずその結果(感染症など)を観察し、それが特定の条件で再現されることを説明します。
たとえば、傷口を清潔にしない場合とした場合での治癒の差を示し、「何か見えない力が働いている」と説明します。
傷口から膿が出る場合や悪臭が発生する例を挙げ、「目には見えない小さな生命体が原因だ」と仮定を伝えます。
2. 簡単な実験
細菌の概念を伝えるためのシンプルな実験を考案することも有効です。
食べ物をきれいな布で包む場合と包まない場合で腐敗の進行を比べ、「布が虫より小さな存在を防いでいる」という仮説を示す。
発酵食品の例(酒やパン)があれば、「目に見えない存在が働いている」という前例を利用できます。
3. 魔法との関連付け
魔法や精霊術の存在が当たり前の世界ならば、「虫よりも小さいもの」が精霊や魔性因子に近い存在だと例えることも効果的です。
「精霊が善なる力をもたらすのと同じように、見えない悪しき存在が病気をもたらしている」と説明します。
イマンが話している四要素のバランスに結びつけ、「体内で目に見えない戦いが起きている」と伝える。
4. 社会の反応
この説明に対する反応は、知識階級と一般市民で異なる可能性があります:
知識階級や研究者は、仮説として受け入れるかもしれません。
特に、イマンやフェガタト・ラナのような人々は「見えない力」という考え方に興味を持つでしょう。
一般市民には迷信として捉えられるリスクがあります。
細菌の概念が既存の信仰や迷信と衝突する可能性もあるため、慎重なアプローチが必要です。
可能性を広げるポイント
イマンの研究を支援しつつ、細菌や感染症の概念を「魔法や精霊の新たな理解」として提案する。
細菌の概念がすぐに広まらなくても、イマンの研究成果を通じて新しい知識を積み重ねる。
少しずつでも科学的な視点を取り入れれば、この世界に新たな可能性をもたらすことができるかもしれませんね。
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──問題は「なんでそれをお前が知ってるんだよ」って言われることなんだよな。
イマンの精霊駆動方式は、結果が出たこともあると言ってた。つまり、抗生物質やらがなくても、この世界では破傷風を治癒できるってことだ。
イマンのやり方が完成するのを待つ方が、この世界で抗生物質を作るよりも手っ取り早いのか……?
考えるほどに分からなくなってきた。
ふと見ると、アメナがこちらを見ていた。
彼女が口を開く。
「リョウ、コウセイブッシツはどのようにして作るのじゃ?」
ゾッとした。
アメナが日本語を発したのだ……──。




