82:根掘り葉掘り2
「世界の均衡はあまりにも規模が大きすぎて、現在の僕たちには扱いきれない代物だというのが定説になっている」
イマンはそう言って幌の隙間から空を見上げた。
ヌーラが途方に暮れたような表情を浮かべる。彼女は世界の均衡を保つ方法を探しているのだ。そのためにはこの世界の循環システムを確定させる必要があった。イマンの説明はそれを真っ向から否定してしまう。
イマンは続けて言う。
「だから、僕は世界そのものではなく、この身体の中に着目しているんだ。人間の身体は世界を写し出したものだという仮定を立ててね。それがデイナトス狂病の治癒にも繋がってくる」
「デイナトス狂病にも?」
俺たちが今、向かっているラヒームにも関わってくることだ。
イマンは両手を広げた。
「人間の身体は四つの要素によって作られている。身体・動物性因子・魔性因子・魂だ。
世界の理に照らし合わせて、身体は人間、動物性因子は動物、魔性因子は魔物、魂は精霊と対になっている。
それらがイルディルによって相互に作用しているが、その均衡が崩れた状態がすなわち病に冒された状態だ」
ヌーラは驚きの声を漏らす。
「そこまで分かっているんですか?」
「いや、これはあくまで仮説の話だよ。だが、それも実践的に証明されつつある……と考えている」
(イマンは世界全体ではなく人間の身体の中のイルディルに目を向けているらしい。
イマンの仮説では、人間は身体・動物性因子・魔性因子・魂の四つの要素でできていると言っている。それらがイルディルによって相互作用しているんだと。
で、その四要素のバランスが崩れた状態が病気だと捉えてるようだ)
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イマンの仮説は興味深いな。
その四つの要素に基づく考え方は、哲学や医学におけるいくつかの伝統的な理論と共通点がある。
例えば、古代ギリシャ医学の四体液説や、東洋医学での五行思想にも通じる部分がありそうだ。
イマンの四要素について
1. 身体:
物理的な存在としての肉体。
外部環境や物理的な刺激と直接的に関わる。
2. 動物性因子:
生理的・感覚的な部分で、生存や快楽に関する本能的な動きを司る。
古代の哲学では「アニマルスピリット」や「動物魂」として言及される部分と重なる可能性がある。
3. 魔性因子:
魔力や超常的なエネルギーを指すのだろう。
イルディルがこの因子に関わっていることで、魔法や精霊術と身体の相互作用が説明される。
4. 魂:
人間の精神的・霊的な側面。存在の核であり、道徳や意志の源とも考えられる。
バランスの重要性
この仮説では、イルディルがこれらの要素を媒介することで均衡を保つ役割を果たしているとされる。
もしイルディルの流れが阻害されたり、特定の要素が過剰または不足した場合、身体に異常が生じて病気となる。
例えば、魔性因子が乱れることで魔法障害や精神的な不調が引き起こされる可能性がある。
この仮説の意義
治療への応用:
病気の原因を物理的な要因だけでなく、霊的やエネルギー的な観点からも捉えることで、新しい治療法の発展が期待できる。
イルディル研究の深化:
世界全体のイルディルと異なり、人体内における局所的なイルディルの挙動を観察することで、より具体的なメカニズムが解明されるかもしれない。
イマンの研究をサポートすれば、イルディルが人体とどのように関わっているかを深く知る手がかりになるし、もしかするとこの世界の根本的な仕組みに迫ることができるかもな。
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(イマンが言うには、四要素はイルディルの循環システムに対応しているらしい。
身体が人間、動物性因子が動物、魔性因子が魔物、魂が精霊と対応しているんだそうだ。
で、イマンはその仮説がデイナトス狂病の治癒にも繋がると言ってる。デイナトス狂病っていうのは、つまり、破傷風のことね)
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イマンの四要素とイルディルの循環システムが対応しているという仮説は非常に興味深いな。
特に身体、動物性因子、魔性因子、魂がそれぞれ人間・動物・魔物・精霊に対応しているという考え方は、この世界における生命や存在の基本的な関係性を示唆しているように思える。
デイナトス狂病(破傷風)との関係
破傷風は一般的には細菌感染によるものとされるが、イマンの仮説ではこれをイルディルの流れにおける何らかの異常と捉えているのだろう。
特に考えられるのは、次のような点だ:
魔性因子の乱れ:
破傷風の主な症状は筋肉のけいれんや硬直だが、これが魔性因子の過剰な活性やイルディルの循環の滞りと結びついている可能性がある。
魔性因子が過剰になると、身体や動物性因子に悪影響を与えるのかもしれない。
イルディルの障害:
傷口や感染部位がイルディルの正常な流れを阻害し、局所的なバランスが崩れることで症状が発生すると仮定できる。
これが身体から魔性因子への影響として現れるのではないか。
治癒への応用
イマンの研究が進めば、イルディルの循環を直接整える治療法が考案されるかもしれない。
たとえば:
イルディルの調整術:特定の因子を正常化する技術。
精霊の協力:精霊が魂や魔性因子に直接作用して、バランスを取り戻す。
デイナトス狂病を魔法的なアプローチで治せるようになれば、医学と魔法の統合が進むきっかけになるかもしれないね。
この視点は、破傷風に対する現代医学と比較しても、独自の可能性を秘めていると思うよ。
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サイモンのやつ、たった今聞いたことについてよくもまあそこまで考えられるな……。
イマンが話を続けていた。
「現に、これまで何度かデイナトス狂病の治癒には成功しているんだ。だが、なぜ治癒が成功したのかということについてはまだよく分かっていない」
アメナの眉がピクリと動く。
「治癒に成功した、じゃと? どのようにして?」
「さきほどの精霊駆動の応用さ。体内のイルディルに変位を起こさせ、精霊を走らせる。それによって、体内の相互作用に干渉する。そうすることによって、強制的に四つの要素を本来あるべき状態に戻すんだ」
ヌーラが首を傾げる。
「どうやってイルディルに変位を起こさせるんですか?」
「ゼロ魔法だ」
またよく分からない用語が現れた……。
イマンは俺の表情を見て微笑んだ。
「君たちは魔法の詠唱文言を知っているか?」
俺たちはうなずいた。イマンはまるで先生のように応える。
「それならば話は早い。イルディルへの懇願部分を空白にして魔法を発動することで、イルディルに変位を起こせることが分かっている」
ヌーラの顔が希望に輝いていく。
「それじゃあ、デイナトス狂病は治せるんですね?」
「さっきも言ったが、どのように精霊を走らせればいいのかがよく分かっていないんだ。それに、加減を間違えると、身体への負荷が高まるのか、死んでしまうこともある」
「そ、そんな……」
「だが、続けなければならない。実践を蓄積した先にしか確立した理屈は存在しないのだからね」
(お前が言ったみたいに、精霊で体内のバランスに直接干渉して強引にバランスを変えて元の状態に戻すらしい。
だけど、どうやって元に戻るのかについてはイマンもデータ不足でよく分かっていないんだ。
「実践を蓄積した先にしか確立した理屈は存在しない」と言ってるよ)
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イマンが言っていることは実に実践的だね。
「理論は実践の積み重ねから生まれる」という考え方は、未知の領域を切り開いていく科学的アプローチに通じるものがある。
体内のバランスを強制的に整える方法は興味深いが、その効果が「どうして」出るのかが解明されていない以上、実践とデータの積み重ねが重要になるのは当然だね。
精霊を介した干渉は、以下のような新たな研究テーマを提示していると思う:
未解明の要点
1. 精霊の干渉メカニズム:
精霊が体内のイルディルにどのように働きかけて、乱れた四要素を調整するのか。
イルディルの流れ自体に直接干渉しているのか、それとも特定の要素に重点を置いて調整しているのかが不明だ。
2. 自然回復力との関係:
精霊の介入は、バランスを「リセット」するだけで、人間自身の自然回復力が作用して元の健康状態に戻るのかもしれない。
この場合、治癒の速度や効果は個々人の自然治癒力に依存するのかもしれないね。
3. 副作用や長期的影響:
強制的な調整が短期的な治癒には効果的であっても、体内のイルディルに負担をかけたり、別のバランス崩壊を引き起こす可能性がある。
これについての観察も必要だろう。
実践の蓄積が生むもの
イマンのような探求者が実践を重ねることで、最終的に以下のようなことが見えてくるはず:
精霊の介入が最も効果的なタイミングや条件。
特定の疾患や体質に応じた精霊術のカスタマイズ。
治癒法を理論的に説明する基盤。
あなたが関わっていることで、イマンの研究がさらに進展するかもしれないね。
破傷風治療が成功したら、他の疾患にも応用が広がる可能性があるよ。
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「アメナはイルディルを見ることができるんだから、デイナトス狂病の治癒に一役買えるかもしれないな」
俺が言うと、アメナがニコリとした。
「アメナもリョウと同じことを言おうとしていたのじゃ」
イマンもうなずいていた。
「奇遇だね。僕も同じことを考えていたよ。イルディルの動きを観察できれば、どのような作用が起こっているのかを理解できるかもしれない」
俄かに湧き上がる希望に、俺たちは笑顔になっていた。
「さすがですね、イマンさんは病の治癒にまで到達しようとしているんですから」
ヌーラは嬉しそうだ。もしかしたら、その先の世界の均衡を維持する方法を見据えているのかもしれない。
「僕はまだまだだよ。なんとかルルーシュ印を得られただけで、研究所ではやはり僕のような子をなさない者は爪弾きに遭うだけさ。
だから、僕はなんとしてもこの精霊駆動法によるデイナトス狂病治癒を完成させなければならない。
それが僕たちの存在価値を高めてくれるはずなんだ」
(イマンは研究を成功させて、子をなさない者たちの地位向上を図ろうとしているようだ。これは協力しないわけにいかないな)
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イマンの目標は、科学と社会的な改革を結びつけるという点で意義深いね。
研究の成功が、単に治療法を提供するだけでなく、社会的な偏見や差別の根幹を揺るがす力を持っている。
これは協力する価値が大いにある。
イマンの立場や目標が示すことは、次のような重要な点を含んでいると思う:
協力の理由
1. 科学の可能性を示すこと:
子をなさない者たちの地位向上に繋がる研究が成功すれば、彼らの存在意義を科学的にも社会的にも証明することになる。
これにより、差別の根拠を覆す材料になる。
2. 新たな価値観の提案:
社会が抱える迷信や偏見を解体し、新しい価値基準を提示できる。
イマンの研究は、過去の価値観に挑む象徴的な意味も持っている。
3. 未来への足掛かり:
イマンが進める研究は、他の社会問題への応用も期待できる。
子をなさない者たちだけでなく、他のマイノリティや差別を受けている人々への道を切り開く可能性がある。
あなたの役割
イマンを支援することで、あなたもまたこの改革の一部となる。
選ばれし者としての立場が、社会の変化を後押しする起点となるだろう。
さらに、彼女の研究があなたの探している「古い価値観の正体」に迫る手掛かりを提供する可能性もある。
だからこそ、イマンと共に進めるこのプロジェクトは、社会改革だけでなく、あなた自身の目標にも通じるものがある。
協力を惜しまず、彼女の研究を支えるべきだね。
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「ルルーシュ印は優秀な人に与えられるものなんですか?」
ルルーシュ印が与えられる条件を知ることで差別構造からの脱却の道も見えるかもしれない。サイモンともそう話し合った。
「基本的には、ね。僕のような子をなさない者にとっては、能力があっても手の届かないものだった。
だが、魔法・精霊術研究所の研究部門長のフェガタト・ラナは能力主義を掲げていて、そのおかげでルルーシュ印を得ることができたんだ」
「よかった……。分かってくれる人もいるんですね」
胸を撫で下ろすヌーラだったが、イマンの表情は晴れない。
「ただ、僕に印を与えたことで彼女──フェガタト・ラナは厳しい批判に晒されているんだ。彼女のためにも僕は成果を挙げなければならない」
(イマンが子をなさない者にもかかわらずルルーシュ印を得られたのは、魔法・精霊術研究所の研究部門長のフェガタト・ラナという人が能力主義を掲げていたかららしい。
だけど、そのせいでフェガタト・ラナは厳しい批判に晒されているようだ)
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フェガタト・ラナが能力主義を掲げていることで、イマンのような子をなさない者がルルーシュ印を得られたのは確かに画期的だね。
ただ、その方針が批判を受けるのも想像できる。特にパスティアのように、伝統や血統が重要視されている社会では、能力主義がその価値観に真っ向から挑むことになるからだ。
批判の背景
1. 伝統的価値観の対立:
フェガタト・ラナの能力主義は、これまでの血統主義や子孫繁栄を重視する価値観を否定する形になっている。
このため、保守的な勢力からは「社会の根幹を揺るがす」として反発を受けている可能性が高い。
2. 嫉妬や競争の激化:
能力主義が進むと、これまで優位だった特権階級が脅かされる。
特に、ルルーシュ家のような権威を背景にした人々は、自分たちの地位が不安定になることを恐れているのかもしれない。
3. 変革のスピードへの不安:
社会は急速な変化に対して抵抗を示すことが多い。
フェガタト・ラナの改革が短期間で進んでいるとすれば、そのスピード感も批判の一因となり得る。
あなたの視点から
フェガタト・ラナの姿勢は、イマンの成功を支えるだけでなく、社会全体に新たな可能性を示す重要な一歩だと思う。
批判の中で立場を守るのは困難かもしれないが、彼のような人物がいることで、あなたが目指す「古い価値観の打破」にも追い風が吹く。
もし機会があるなら、フェガタト・ラナとの接触を図って、彼が掲げる能力主義の具体的な理念や戦略を知るのも良いかもしれない。
それが、あなたの今後の行動に役立つはずだ。
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「フェガタト・ラナさんというのは……、ええと、名前が……」
「ああ、彼女は下位貴族だよ。フェガタトというのが家名だ」
(フェガタト・ラナは女性だよ。フェガタト家という下位貴族だ。
つまり……魔法が使える血筋で、ルルーシュ家とは婚姻が結べない貴族だな)
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フェガタト・ラナが女性であり、フェガタト家という下位貴族出身という背景は非常に興味深いね。
特に、下位貴族であるフェガタト家がルルーシュ家と婚姻を結べない血筋であることから、彼女の能力主義的な理念には一層の重みが感じられる。
考えられる背景と動機
1. ルルーシュ家との関係:
下位貴族であるフェガタト家は、魔法の血筋を持ちながらもルルーシュ家と対等な立場で婚姻が結べない。
これは、フェガタト・ラナが従来の身分制度や血統主義に疑問を抱き、能力主義を追求する原動力になった可能性がある。
2. 魔法が使える血筋の立場:
彼女自身が魔法の才能を持つことで、ルルーシュ家の権威を支える基盤である「血筋」に縛られずに生きる道を模索していると考えられる。
つまり、自らの能力で未来を切り開こうとする彼女の姿勢が、能力主義の推進に繋がっているのかもしれない。
3. 女性としての挑戦:
パスティアの社会構造において、女性であることが更に困難を伴う要因となる場合、フェガタト・ラナは二重の壁を乗り越える必要がある。
それでも研究所の部門長という地位を築いたのは、彼女が極めて優れた能力を持っていることの証明だ。
今後の展開
フェガタト・ラナと話す機会があれば、彼女がどのような経緯で能力主義を掲げるに至ったのか、またそれにより社会にどのような変革をもたらそうとしているのかを直接聞いてみるべきだろう。
特に、下位貴族としての苦労や、能力主義を実現するために直面している課題について知ることで、あなたが目指す変革にも大きなヒントを得られるはずだ。
彼女のような存在は、あなたが古い価値観を打破するための重要な盟友になるかもしれない。
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いずれにしろ、これから先の希望の種となるような事実が垣間見えるのは、良いことだ。
ふと御者台のナーディラを見る。
その背中は大人しく、俺たちの話も耳に入っていないようだった。
御者台のそばに行って声をかけてみる。
「ナーディラ、デイナトス狂病について、希望が見えてきたぞ」
「あ? そうか、それはよかったな」
素っ気なく、こちらを振り向きもしない。
「大丈夫か、ナーディラ?」
「大丈夫だ、心配するな。それに、順調に進んでる」
「そうか、それならいいけど……。疲れたら俺が代るよ」
「キュイのことは私が一番分かる。問題ない」
いつもと様子が違いすぎて心配になってしまう。
「ナーディラ……」
思わず彼女の肩に触れる。すると、その身体がビクリと震えた。
俺の背中をヌーラが叩いていた。彼女は小声で言う。
「一人にさせてあげましょう」
俺はモヤモヤとした気持ちを抱えながら御者台から離れた。




