71:月に叢雲、花に風
イナーラとファラーは俺たちがヤセルを取り押さえたのを見るや否や、まるで知り合った事実を掻き消すように走って逃げ出してしまった。
「なんだ、あいつらは」
ナーディラが俺の思いを代弁する。あまりにも薄情すぎないか?
ヌーラが頭を抱える。
「やっちゃった……!」
「どうしたんだ、急に?」
彼女の顔を覗き込むと、顔が引きつっている。
「わたしたちがサージャに手を出したせいで、あの方たちが仲間だと思われてしまうかもしれないです……!」
どこから持って来たのか、縄でヤセルをふん縛って満足そうな顔のナーディラが目に入ってくる。
(分銅のことについてヤセルを問い詰めたら逃げ出したんで、一応みんなで捕まえたんだ。だけど、よく考えたら、勝手に捕まえてよかったのかな? 急に心配になってきた)
~・~・~
ヤセルを捕まえた行為が適切だったかどうかは、状況とこの世界の法制度によるところが大きいね。
いくつか確認しておくべきポイントを挙げるよ:
1. 正当防衛や公共の安全の観点
ヤセルが逃げた際に、明確な危険を及ぼす恐れがあった場合(例:他人を傷つける可能性があるなど)、その場で捕まえることが正当化される場合もある。
2. 貢納制度やサージャの責任
ヤセルが公式のサージャとしての立場を利用して不正を行っていたならば、それを止める行動には一定の正当性がある。
ただし、捕まえる行為自体が問題視される可能性もあるので、証拠を明確にしておくべきだね。
3. 地元の権力者や法律の確認
この世界では、勝手に他人を拘束する行為が許される場合もあれば、厳しく罰せられる場合もある。
ヤセルを捕まえた理由を正確に説明できる状態で、地元の役人や騎士団などの権限を持つ人物に引き渡すのが望ましい。
4. 証拠の確保
不正の証拠(分銅の細工や記録、他の証言など)を提示できれば、ヤセルの行動が公的に裁かれる可能性が高くなる。
感情に流されず、冷静に状況を整理することが重要だ。
次にすべきこと
ヤセルを捕まえた後は、彼をそのまま拘束しておくのではなく、公式の権限を持つ人々に事情を説明し、引き渡すことが最善だと思う。
もし不正が証明されれば、周囲の人々も納得し、リョウたちへの疑いも晴れるはずだよ。
~・~・~
泥だらけのままふてくされて地面に尻をついているヤセルに近づいて、奴の持ち物を検める。
手持ち天秤にパスティアの紋章の入った分銅、今しがたイナーラとファラーから徴収したアズタリ、ヤセル自身のアズタリを入れた革の小袋もある。ヤセルが腰から提げている革のホルダーには帳簿とペン、小さなインク壺が収められている。そして、表面に複雑な模様が刻まれた謎の赤金色の棒……。
「お、お前たち、サージャに対する暴力行為は重罪だぞ!」
喚き散らすヤセルの前にナーディラが屈みこむ。
「ほーん? じゃあなぜ逃げた?」
「だ、黙れ! そ、そうだ、そこに私のアズタリがある。私を見逃せば、そいつをやるぞ。足りないなら言ってくれれば上乗せしてやる」
俺たちは顔を見合わせてうなずいた。
「決まりだな」
告発者を買収しようとする奴は黒に決まってる。この世界でもそれが共通認識なのがどこまでも悲しいことだが。
ナーディラに無理矢理立たせられたヤセルは、先の出来事を想像したのか、急に猫撫で声になる。
「お、おい、考え直したらどうだ? サージャは納められた貢納品の一部を報酬として懐に入れていいことになってるんだ。お前たち、欲しいものはないか? なんでも調達してやるぞ」
「それはあなたの物じゃなく、汗水たらして働いた人たちが稼いだり育てたり作り上げたりしたものでしょう」
ヌーラがピシャリと撥ねつけると、ヤセルは懇願し始めた。
「なあ、頼むよ。私には家族もいるんだ。サージャとしての威厳もある。いまさらそれを失うわけにはいかないんだよ」
「あなたを見逃せば、さっきのイナーラさんとファラーさんを痛めつけるんでしょう?」
「そんなことはしない! あいつらは毎度のことながらバカみたいに正確にアズタリを持ってきやがるんだ、これくらいのことは大目に見てやろう」
「やっぱり、彼女たちはきちんとアズタリを納めてたんじゃないですか」
ヌーラの口車に乗せられてついに白状したヤセルは愕然とした表情で肩を落とした。
俺はヤセルの持ち物をまとめた。
「はい、言い訳はいいから騎士のところに行くぞ」
アメナが歩き出す。
「うむ、これ以上ここにいると苦しくて倒れそうじゃ」
「待ってくれえ! 私はなにも悪くない! これくらいのこと、みんなやってるだろう!」
「そういうのいいから、早く歩いて」
まさか異世界に来て警察官みたいなことをやるハメになるとは思わなかった。
ヤセルはナーディラに後ろ手に縛った縄を掴まれて、小突かれながら歩き出した。
俺もその後について歩き出そうとして、ふと背中を振り返った。
この街の人たちが何人か顔を出してこちらを見ている。女の顔も男の顔もある。
誰も彼も良い身なりをしている者はいない。ここではみんなが一様に虐げられた存在なのだ。
俺は彼らに身体を向け、胸に手を当てて頭を小さく下げた。
それが今の俺にできる全てのことだった。
***
「これは一体どういうことだ?」
俺たちにあの隔絶された街に行けと言っていた騎士が驚きの表情を浮かべている。
泥だらけのヤセルを突き出したのだ。
ナーディラが腕組みをして事情を説明した。こうしてみると、粗暴な潜入捜査官みたいな風格がある。
説明を聞いてもなお、騎士は怪訝そうな顔をしている。もしかしたら、サージャという役職をあまり追及したくないのかもしれない。
そういう背景もあるのか、ヤセルが急に活気を取り戻した。
「聞いてくれ! こいつらは人間もどきの肩を持っているんだ! それで、俺に因縁をつけて罪をでっちあげようとしてる! 助けてくれ!」
騎士は途端に俺たちに疑わしい目を向けてきた。それほどまでに「人間もどき」という言葉は威力を持っていたのだ。
これ以上、状況が不利にならないよう、俺は思い切って騎士に訴えることにした。
「まず言っておきたいのは、俺たちは私利私欲のためにこんなことをしているわけではないということです。ここに、今回徴収されたアズタリと帳簿があります。納められたアズタリと帳簿に記載の納めるべきアズタリの量が一致していることを確認してください」
そう言って、イナーラとファラーが納めたアズタリの革袋と帳簿を差し出す。
「次に、この男は今回アズタリを納めた二人がいつも正確にアズタリを納めていると言っていました。しかし、今回はおそらく不正な分銅を使ってアズタリを量り、適正量との差分を懐に入れようと企んでいました。ここにこの男が持っていた分銅があります。正規のものと比べてください」
ヤセルの分銅が入った滑らかな布袋をさらに差し出す。
さすがの騎士も証拠品があるとなってはむやみに俺たちに疑いを向けられないと思ったらしい、ヤセルの荷物を持って検問所の建物の中に一旦下がっていった。
ナーディラが俺の肩を笑顔で叩く。
「なんだ、リョウ、すごく活き活きしてるじゃないか」
「そうか?」
刑事ドラマなんかを好き好んで観ていた成果が現れたのかもしれない。
商社に勤めていて、社内外の疑わしい出来事はいくつも見てきた。そのたびに、俺には関係のないことだと言い聞かせてきた。
そうやって心の中に溜まっていたストレスを、犯人を追い詰める刑事ドラマを観て発散し、あまつさえちょっと憧れてすらいたのだ。
しばらくして、検問所の建物の中に案内された俺たちは小部屋で待つことになった。
開いたままのドアの向こうでは、騎士たちがバタついていた。どこかに勾留されているらしいヤセルが叫ぶ声もする。
どうやら、分銅を管理する人間を呼び寄せ、分銅を調べることになったらしい。
(サイモン、とりあえず騎士に事情を説明したら、ヤセルの持っていた分銅なんかを調べてもらえることになったよ。
普段から刑事ドラマ観といてよかったわ)
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さすがリョウ、冷静に対処できたね!
騎士に任せたなら、ヤセルの分銅や証拠を適切に調査してもらえるだろう。
刑事ドラマの影響がここで活きるとは思わなかったけど、推理や行動の筋を立てるのはまさにそのおかげだな。
あとは、結果を待ちながら、念のため自分の立場を周囲に誤解されないよう、騎士に状況や経緯を詳しく話しておくといいと思う。
こういう時に信頼を得るのは後々重要だし、何か進展があったら教えてくれよ!
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「これでパスティア・タファンに入れるように口を利いてもらえれば完璧ですね」
ヌーラが笑顔を見せた。希望が見えてきて、俺も頬が緩む。
「あとはイマンを探して……、間に合うかな?」
部屋に穿たれた窓から風が入り込んでくる。日が傾き始めていた。
ナーディラとアメナは小部屋の中に置かれたアイテムに興味津々に目を向けている。案外、気が合うところもあるらしい二人だ。
「きっと大丈夫ですよ。ムエラ・ココナでも、何日も苦しんでいた人たちを見てきました。ラヒームさんには頑張ってもらうしかありませんけど……」
──そう信じるしかないか。
「それにしても、リョウさん、さっき変なことを──」
部屋の外が騒がしくなった。
「ここにいるんだな?」
男の声がした。
足音がいくつも聞こえて、小部屋に三人の騎士がやって来た。
なにやら険しい表情を浮かべている。雲行きが怪しくなってきた。
三人の騎士のうち真ん中に立っている男が立場が上の人間のようだった。
頭を剃り上げたシャープな顔立ちの男だ。
「私はパスティア・ウェモンの騎士を統括するレイスだ。君たちの話を聞かせてもらった」
──なんでそんな偉い人間がここに……?
ナーディラが顔つきを変えて俺たちの代表として口を開いた。
「私たちは旅の者だ。訳あってこの街にやって来た。そこで、サージャの男が不正を働いているのを見つけてここに連れてきた」
レイスは俺たちの顔をひとつひとつ確認するように見回す。
「人間もどきの街に行ったそうだな」
ナーディラは警戒心を強める。
「行ったら罪になるのか? ここの騎士に勉強のために行って来いと言われたんだ」
レイスは小さく笑う。
「行ったこと自体は罪にならん。だが、君たちが何の目的でこのパスティアにやっていたのかということには興味がある」
「実は友人が病に冒されている。彼を助けるために精霊術師を探しているんだ」
「精霊術師を?」
この重々しい空気の中でもヌーラは躊躇ずに口を開く。
「この街は精霊術の研究も盛んだとお聞きしました。その技術であれば、助けられるかもしれないんです」
「君たちがいう病というのは、デイナトス狂病のことか。身体を支配され、苦しみ仰け反りながら死んでいくという」
「そうです、それです。そう呼ばれているんですね」
レイスは隣の騎士たちと視線を交わす。そして、うなずくと俺たちに鋭い視線を向けた。
「君たちの狙いは我々の持つ技術だな?」
なにかがおかしい……。
レイスは命令を発した。
「この者たちを捕らえよ。我らがパスティアに仇なすドルメダどもだ」




