66:持たざる者の君臨
とはいえ、第一大公公子の婚姻の儀などは、今の俺たちの目的にはあまり関係がない。
カリムの友人ラヒームを助けるためには、油を売っている暇などないのだから。早く精霊術師のイマンを見つけ出し、破傷風を治癒してもらわなければならない。
ナーディラがすぐにファマータを走らせ、パスティア・ウェモンとパスティア・タファンの境へと急いだ。
「それにしても、気になりますね」
ヌーラが不安げに口を開く。
「婚姻の儀か?」
「それも気になりますけど、イマンさんの話です。あまりいい印象を持たれていないのでしょうか……」
御者台のナーディラがヌーラの不安を笑い飛ばす。
「フン、そこにいる精霊術師を見れば分かることだろう」
俺たちの視線は自然とアメナに注がれる。彼女はオレンジ色の瞳で荷台の隅を見つめていた。
「ん? なんじゃ? アメナは今、風の精霊と戯れておるから忙しいぞ」
アメナはイルディルを見ることができる。それは選ばれし者に与えられたスキルといってもいい特殊な魔法──ゼグノによるものだ。
もしかしたら、イマンという精霊術師もなんらかの特殊な魔法が備わっているのかもしれない。
田畑が目立つ街道を駆けていくと、次第に人家や厩舎なども増え始め、やがて人の数も多く見られるようになっていった。
その頃になると、遥か遠くに山のような影が見え始める。人工のシルエットだ。塔のようなものが天を衝いている。
「わあ、大きな街ですね……!」
ヌーラが目を輝かせる。
「あれが、パスティア・タファンか……」
広大な領域を持つパスティア公国の中心地だ。防壁の外側なのにもかかわらず、建物の密集度は低いが、それなりに栄えた街が広がっている。
「騎士の数が多いな」
ナーディラが辺りを観察している。
確かに、時折、単騎のファマータに跨った騎士が俺たちをすれ違って行ったり、パトロールなのか、数人でグループを作った甲冑姿が街道沿いを歩いていたりするのが目に入ってきていた。
「こんなところでムエラ・ココナみたいに急に暴れ出したりするなよ、ナーディラ」
「うるさいな! その話をするの何回目だ、リョウ」
──こうやって釘を刺しておかないと、すぐに何かやらかすからな……。
街道の少し先が石畳に変わっていく。その辺りに、検問所のような騎士たちの姿が目立つ建物がある。
その先は、かなり栄えたエリアになってるが、そのさらに奥には高い防壁がそびえている。いよいよパスティア・タファンが目前というわけだ。
「おそらく、ここらがパスティア・ウェモンとパスティア・タファンの境だな」
ナーディラはファマータをゆっくりと歩かせ、ファマータの車を停め置けそうな場所を探す。
少しして、建物の脇に厩舎が併設されている宿屋に、俺たちは降り立つことにした。
「ここを拠点にしよう」
ナーディラがそう言って、宿屋の入口をくぐる。宿屋の一階は大広間になっていて、そこに丸いテーブルがたくさん並べられている、食堂のようになっているのだ。
(サイモン、イマンがいるという目的地に着いたよ。
パスティア・ウェモンとパスティア・タファンの境……要は防壁で囲まれたパスティ公国の中心部とその縁辺都市の境目だな。
イマンはこのエリアに別荘を構えているらしい)
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イマンの別荘があるのがその境界エリアというのは、かなり興味深いね。
縁辺都市と中心部の境目にいるということは、イマンがその地理的な位置を活かして活動している可能性がある。
具体的には、中心部に近いことで情報や人々とアクセスしやすく、同時に縁辺都市のような比較的静かで目立たない環境で療養や隠遁的な生活を送りやすいんだろう。
イマンのような存在が「別荘」を構えているということは、資金的な余裕もあり、ある程度の名声や信頼を持っている人物と考えられる。
この境界エリアに住むことで、パスティア公国内の両方の層に対応しやすい位置にいるのかもしれないね。
これから会う予定なら、イマンの背景や評判、そしてこのエリアの人々が彼にどんな期待を寄せているのかも少し確認するといいかもしれない。
人々の反応次第では、イマンの人物像や彼の能力に対するヒントが得られるかもしれないよ。
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(さっき騎士が言ってたんだけど、薄気味悪いとか、守銭奴だとか、あまり良い印象じゃなかったよ)
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それは少し厄介かもな。
イマンに関する評判が悪いというのは、特に交渉を考えている場合には注意すべきポイントだ。
騎士たちが「薄気味悪い」と言った理由が、彼の精霊術に対する偏見なのか、それとも彼自身の行動や態度によるものなのかを見極める必要がある。
また、「守銭奴」という評価も気になるな。
それが本当に彼が利益至上主義であることを意味するなら、治療や協力を得るために多額の支払いを要求される可能性もある。
逆に、その評価が誤解や噂に基づいているだけなら、実際に会って話すことで状況が好転する可能性もある。
まずは、イマン自身の態度や言動を観察することが大事だ。
それと同時に、このエリアの住民や別の関係者から追加情報を収集して、イマンの真の姿を理解する手助けにするのがいいと思うよ。
どんな交渉でも、相手の価値観や動機を把握しておくのは有利だからな。
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宿屋の主人は気の良さそうなおっさんで、ナーディラがイマンの名前を出すと、色々と教えてくれた。
「悪いことは言わねえ、関わらん方が身のためだ。俺の知り合いも家族の病を治してもらおうとして多額のアズタリを渡したが、結局失敗したらしい。八十万アズタリだぜ」
「わたしたちが聞いたのとは額が違いますね」
ヌーラがそう言う。確か、カリムは七十万が必要だと言っていた。すると、宿屋の主人は大袈裟に手と首を振る。
「あいつは人を見てアズタリの量を決めてんだ。ふっかけられる奴にはとことんふっかけるのさ」
「そんな詐欺まがいのことを働くのなら、騎士に突き出せばいいだろう」
ナーディラがもっともな指摘をするが、宿屋の主人は背中を丸めて声を低めた。
「そこが厄介なところなんだ。あいつはパスティア・タファンの魔法・精霊術研究所の一員なんだ。つまり、ルルーシュ印なんだよ」
聞けば、パスティア公国の公的な機関に勤める者は“ルルーシュ印”と呼ばれているようだ。公務員のような存在というわけだ。ルルーシュ印は特権を持っているという。
「そのせいで、騎士どもも容易に手を出せねえって寸法だ。ルルーシュ印はパスティアの宝だからな」
「ということは、優秀な方なんですね」
ヌーラが目を輝かせる。精霊術の専門家なら、彼女が目指すこの世界の均衡維持方法の探求にも関係してくるからだろう。
宿屋の主人はここでも唸り声を漏らした。
「そもそも、あんな奴がルルーシュ印ってのがおかしな話だ」
「なぜだ?」
ナーディラが一歩踏み込むと、宿屋の主人は腫れ物に触るような顔になってしまう。
「あいつは汚らわしい。……ああ、これ以上は口にも出したくねえ」
それ以上は突っ込んで聞いてみてもはぐらかされるだけだった。
話題を逸らすために、別のことを尋ねてみる。
「その病って、身体を仰け反らせてしまうあれですか?」
「そうだ」
「たくさんの人がかかっているんですか?」
「パスティア・タファンの外じゃ、多いってわけでもねえが、無視できるほどでもねえな」
「パスティア・タファンの外? 内側は違うんですか?」
「パスティア・タファンの中では、誰かがあの病にかかったというのは聞いたことがねえな」
「何か環境が整備されているんですか?」
「イスマル大公のご加護じゃねえかな」
「イスマル大公というのは、パスティア公国の統治者ですか?」
「ああ、そこから説明しなきゃいけねえか。
パスティア・タファンにはイスマル大公をはじめ、ルルーシュ家の人々が住む公宮やイエジュ・メアーラとイエジュ・テガーラの住むアグネジェ、そして、人々の住む街があるんだよ」
訳の分からない単語の連続で混乱しそうになる。パルスのファルシのルシがコクーンでパージみたいなもんだ。
ナーディラに目をやると、俺の心中を察したのかニヤリとしていた。
「アグネジェは高貴な人々の住む街のことだ。だが、イエジュ・メアーラとイエジュ・テガーラは……」
首を捻るナーディラの横でじっと話を聞いていたアメナがここではじめて口を開いた。
「アメナは聞いたことがあるのじゃ。この世界には魔法の使える者と使えぬ者がおる。前者を持つ者、後者を持たざる者というのじゃと」
文頭に設置される属性を示す言葉の中に「肯定」と「否定」がある。それが語変化したものだろう。
宿屋の主人は知っているのかいないのか、首を捻って笑っていた。
「まあ、上位の貴族がメアーラ、下位の貴族がテガーラってわけだ」
──……ん?
「魔法が使えない方が位が高いんですか?」
宿屋の主人がうなずく。
「そりゃそうだ。それに、ルルーシュ家も代々魔法が使えないらしい。だから、下位貴族との婚姻は禁止されてるんだ」
(サイモン、興味深いことが分かった。パスティア公国を治めるルルーシュ家は魔法が使えない家系らしい。
同じように魔法が使えない貴族「イエジェ・メアーラ」もいて、ルルーシュ家はイエジェ・メアーラとしか婚姻を結べないようだ)
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それは非常に興味深い話だな。
ルルーシュ家が魔法を使えない家系であり、それが婚姻の条件にまで影響しているというのは、パスティア公国における社会的なルールや文化的背景がかなり独特であることを示している。
おそらく、魔法が使えないことが特権階級としての一種の「血統の証」として見なされているのかもしれない。
同じように魔法を使えないイエジェ・メアーラ家との婚姻が制限されているのも、それを守るための仕組みの一環だと考えられる。
もう一つの可能性として、魔法を使えないことが政治的に重要な意味を持っている場合がある。
たとえば、魔法を持つ家系が権力を握ると不均衡を生む恐れがあるとされ、意図的に魔法を排除しているのかもしれない。
この制約が公国内でどのような影響を持つのか、また、それがイマンのような精霊術師に対する評価や関係性にどの程度関係しているのかも気になるところだな。
この話を深掘りすれば、ルルーシュ家やパスティア公国の統治体制についてより多くのヒントが得られるかもしれない。
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(イエジェ・メアーラというのは、上位貴族のことで特定の家柄というわけじゃないみたいだよ。
それにしても、パスティア公国は魔法・精霊術研究所というのがあって、そこもルルーシュ家の管理下にあるんだよ。魔法が使えないのに、魔法の研究をさせてるんだ)
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なるほど、イエジェ・メアーラが上位貴族全般を指すというのは、パスティア公国の貴族社会が血統ではなく特定の階級や役割で区分けされている可能性を示しているな。
それに、魔法が使えない統治者が魔法研究を管理しているというのは非常に興味深いポイントだ。
この矛盾とも言える構造には、いくつかの理由が考えられる:
1. 政治的管理の目的
魔法を直接使えない支配者が研究所を管理することで、魔法技術が特定の家系や勢力に独占されるのを防ぐ狙いがあるかもしれない。
これにより、公国全体にとって魔法が中立的で均等に扱われる。
2. 魔法と統治の分離
魔法の実践と研究は重要だが、それが支配者の直接的な能力に結びつくと、権力の乱用が懸念される。
非魔法使いの支配者が研究を管理することで、魔法の使用が制約されるのかもしれない。
3. 象徴的な意味
ルルーシュ家が魔法を使えないこと自体が「純粋な支配者」という象徴になっている可能性がある。
彼らが魔法を直接使わなくても、その知識や研究を管理することで、公正な統治者としての立場を強調しているのかも。
魔法や精霊術研究所がどのような活動をしているのか、またその成果が公国にどのように影響を与えているのかを知ることで、この構造の本当の意図が見えてくるかもしれない。
パスティアでの探索がさらに興味深い展開を見せそうだな!
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「とにかく、あの精霊術師に会うんなら気をつけることだ。なんなら騎士を連れて行ってもいいくらいだぞ。いないよりはマシだろうからな。
ともあれ、俺の宿に泊まるんだ。もてなしは期待しておくといいさ」
そう言って宿屋の主人はキッチンの奥に消えていった。
「ナーディラ、確か以前、魔法が使えない人もいると言っていたよな? 魔法を使える人と使えない人の割合はどれくらいなんだ?」
「割合は知らないが、魔法が使えない人間がいることは知っている。見たことはないがな。だから、魔法が使えない人間はかなり珍しいといえるだろう」
「魔法が使えないってことは、イルディルに懇願しても現象が再現されないってことだよな?」
「ああ。だから、魔法が使えない人間は差別されると本で読んだことはあったが、まさかパスティア公国の君主の家系だとはな。本の記述が常に正しいとは限らないな」
「場所によってはそういう考えが広まっていることもあるんだろう。必ずしも本が間違ったことを書いてるとは限らないよ」
「確かにそうだな」
(魔法が使えないってことは、イルディルに懇願してもリターンがないってことだ。イルディルは声に発せられた魔法の詠唱だけで力を発現させているわけじゃないってことだ。何か別の要因も関わってるはず)
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確かに、ルルーシュ家がイルディルの力を借りることができない=魔法が使えないという事実は、イルディルの力の発現に必要な要素が単に「詠唱」や「言葉」に限定されないことを示唆しているな。
他の要因が関わっている可能性について考えてみると、以下のような仮説が立てられる:
1. 身体的・遺伝的な適性
魔法の使用には、魔法を引き出すための特定の遺伝的素質や身体的な器官が関与している可能性がある。
ルルーシュ家にはその素質が欠けているため、どれだけ学びや懇願を繰り返してもイルディルの力を発動できないのかもしれない。
2. 精神的・感情的な共鳴
イルディルは単に「力の源泉」というだけでなく、人間の精神や感情と共鳴する存在である可能性がある。
例えば、強い信仰心、感情の純粋性、あるいはイルディルへの深い理解がなければ、その力を引き出すことができないのかもしれない。
3. 契約や資格の有無
魔法を使うにはイルディルとの「契約」や「資格」が必要であり、これが単なる訓練や知識では手に入らない特別なものなのかもしれない。
例えば、選ばれし者や特定の儀式を通じてのみアクセス可能な力だとすれば、ルルーシュ家が魔法を使えない理由も説明がつく。
4. イルディルの意志
イルディル自体が、どの人間に力を貸すかを選んでいる可能性がある。
この場合、ルルーシュ家は意図的に選ばれないか、あるいはイルディルと特定の約束が結ばれているのかもしれない。
5. 文化的・社会的な制約
ルルーシュ家が魔法を使えない理由が、実は遺伝や能力ではなく、パスティア公国の文化や社会的な掟に基づいている可能性もある。
例えば、支配者は魔法を使わないという掟がある場合、魔法の使用そのものを禁じられているだけなのかもしれない。
もし魔法がイルディルとの「共鳴」や「関係性」に依存しているなら、イルディルがどのように人々に力を与え、またそのプロセスにどのような条件が必要なのかを探ることで、この謎に近づけるかもしれない。
ルルーシュ家の歴史やパスティア公国の魔法研究所の目的も手掛かりになるかもしれないな。
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ルルーシュ家が上位貴族としか婚姻を許されないということは、血統を守っているということだ。
つまり、魔法が使えないという素質は遺伝的な要素を多分に含んでいると考えられる。
「リョウ、サイモンと話していないで、さっさとイマンを探しに行くぞ」
ナーディラたちが宿屋の入口に向かっていた。




