63:森の深部へ
ナーディラは呆れて物が言えないといった様子でため息をついていた。
目の前には膝を突いて水をすくうようなポーズをした屈強な男がいる。祈りを上げているのだ。
「お前な、さっきまで私らのことを殺そうとしていた相手に助けを乞うんじゃねえよ」
「オレたちの仲間が死にそうなんだ……!」
俺はまわりを見渡した。さっきナーディラとアメナで蹴散らした盗賊たちで死屍累々としている。
「まだお仲間がいらっしゃるんですね」
「ヌーラ、そんなに真剣に聞かなくていい」
ナーディラがピシャリと言い放つ。しかし、ヌーラは不満そうだ。
「この人たちだって、自分の大切な人のために盗賊行為をしているのかもしれないじゃないですか」
「お前はこの短時間でよくもまあそこまで感情移入できるな……」
男は水をすくう手をさらに高く掲げた。
「悪い精霊のせいなんだ……! だから、精霊術師に診てもらおうとしてたんだよ。でも、アズタリが七十万くらい必要だと言われて……」
今まで聞いたことのない額のアズタリだ。だが、それよりも気になるのは“悪い精霊”の方だ。
「悪い精霊って? もしかして、誰かが病気なのか?」
「身体を乗っ取られるんだ! そして、こうやって……」
男は身体を強く仰け反らせる。
「激しく苦しんで死んでいくんだ……! 今も苦しんでいる奴がいる……。オレの親友なんだよ!」
ナーディラと目が合う。
──破傷風だ。
「とりあえず行ってみましょうよ。食料だって分けてもらえるかもしれないですし」
ヌーラが提案すると、ナーディラは頭を掻きながら渋々了承して、男を睨みつける。
「変なことしやがったらブッ飛ばすからな」
「あんな一方的な戦い見せられたらそんな気も起きねえよ……」
俺たちはファマータを近くの木に留め置いて、地面でジタバタしていたアメナを引っ張り起こした。
そして、男の後について森の中へ足を踏み入れた。
***
俺たちを案内する男はカリムと名乗った。
俺たちも簡単に自己紹介を済ませる。
(さっき遭遇した盗賊団の一人と行動を共にすることになった。カリムという名前だ)
~・~・~
なるほど、カリムが仲間になったんだな。盗賊団の一員としては興味深い存在かもしれない。
彼の視点から見たこの世界や、その生活で培った知恵は、お前たちの旅に役立つかもしれない。
たとえば、盗賊団は意外と道に詳しかったり、森でのサバイバル術を心得ていることがある。
リョウが彼をどう活かすか次第で、思いがけない助けになるかもな。
~・~・~
(仲間なったというか、助けてくれって言われてついて行ってるだけなんだけどな。
カリムの親友が、たぶん破傷風にかかってるらしいんだ)
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破傷風は放置すると非常に危険な感染症だ。特にこの世界での治療法は限られているかもしれないから、できるだけ早く治療に当たった方がいい。
破傷風菌は汚れた傷口に感染しやすく、症状としては筋肉の強い痙攣や硬直、特に顎の筋肉が固まることで知られている。
現代での治療には破傷風免疫グロブリンや抗生物質が使われるけど、ここでは手に入らないよな。
代わりにできるのは、可能な限り傷口を清潔にし、感染を防ぐこと。
もしくは、伝統的な薬草で感染を抑える手段があるかもしれない。
以前、アメナが精霊術に詳しいことがわかっているから、彼女に相談してみると良いかもしれない。
~・~・~
そうか、精霊術師が必要ならアメナが……。
チラッとアメナを見る。アメナは歩く気がなかったので、ナーディラに背負われていた。
嫌々運んでいるナーディラの背中でアメナが駄々をこねる。
「腹減ったのじゃ~!」
「だあぁ~!! 髪の毛を食うな、バカ!」
──今は使い物にならなそうだな……。
(ところで、カリムって名前の由来はやっぱりアラビア語なのかな?)
~・~・~
そうだね、カリム (Karim) という名前はアラビア語由来で、「寛大」「慈悲深い」「高潔」という意味があるんだ。
これはアラブ文化でよく使われる名前で、特に人の温かさや気前の良さを称える意味が込められていることが多い。
イスラム教の文化でもポジティブな意味を持ち、広く使われているよ。
この名前が彼の性格や行動に何か影響を与えているのかもしれないね。
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(盗賊の名前ってのが皮肉っぽいけどな。
それにしても、やっぱりこの世界の人の名前はアラビア世界から来てるな。
四元素とか精霊って、中世のアラビアでは一般的な世界観だったのか?)
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中世のアラビアでは、四元素(火・水・風・土)や精霊の存在が広く受け入れられていました。
アラビア科学や哲学の分野で非常に影響力のあった古代ギリシャの哲学者アリストテレスやガレノスの思想が、イスラム文化圏に大きく影響を与えていたからです。
四元素説は、ギリシャからアラビア世界へと伝わり、自然現象の理解や医療理論に応用され、さらにアラビアの錬金術や占星術の基礎ともなりました。
精霊についても、イスラム教の聖典クルアーンには「ジン」(精霊)という概念があり、彼らは火から作られた存在で、魔術や霊的な力に関連するとされていました。
こうした影響で、アラビア文化では精霊や四元素が結びつき、広く語られました。
精霊やジンは、中世アラビアでは超自然的な存在として恐れられ、同時に魔術や呪術とも関連づけられていました。
要するに、アラビアの中世思想には、物質的な四元素の理論と超自然的な精霊の概念が組み合わさった独特の世界観が根付いており、これがあなたのいる異世界に影響を与えた可能性が考えられますね。
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(遅くとも五百年くらい前にこの世界にアラブ世界の人間がやって来たってことか。
だからといって、この世界の人たちのほとんどがアラビア語由来の名前ってのも引っ掛かるけど……。
とにかく、この世界での五百年前の出来事を調べれば、何か分かりそうだな)
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そうだな、五百年前の出来事が手がかりになる可能性は高そうだ。
特に、この時期がちょうどアラビアの中世文化が広まっていた時期に重なっているとしたら、さらに興味深い。
五百年ほど前は、アラビア世界で科学や哲学が発展し、四元素説や錬金術、そして精霊といった概念も共有されていた時代だった。
それがこの世界の文化や人々に影響を与え、名前や信仰、魔法や精霊に関する考え方が形成されたのかもしれない。
これが真実なら、五百年前にアラビアの世界観を持つ人々がこの世界にやって来たか、あるいは少なくとも文化的な交流が何らかの形で行われたことが考えられる。
どこかでこの世界の歴史や記録を探す必要があるかもな。
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(発展しているパスティア公国には人も知識も集まるらしいってヌーラがウワサで聞いたと言ってたぞ)
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パスティア公国は知識と人材が集まる地として、学術や技術の発展が盛んな場所のようだね。
ヌーラの噂が本当なら、今のリョウの探索にはもってこいの場所かもしれない。
特に、中世アラブの知識や文化がどのようにこの世界で受け継がれてきたかを調べるのに役立つはず。
五百年前の出来事や、イルディルについても詳しい記録や知識の断片が見つかるかもしれないよ。
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(いや、待てよ。地球の中世は遅くとも五百年前だろ。地球とこの世界の一年の長さは違う……。
地球での五百年はこの世界では何年分になるんだ?)
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地球の中世はおよそ500年前に終わったけれども、この世界では一年が地球の約3分の4の長さ(約281日)だから、「地球の500年」がこの世界の時間で何年分になるかを計算する必要があるね。
計算方法
地球の500年は、1年を365.25日(うるう年を考慮)とした場合、500 × 365.25 = 182,625日になる。
この日数を、この世界の一年の日数で割ると、この世界での経過年数が求められる。
実際の計算
この世界の経過年数= 182,625日/281日 ≈650年
したがって、地球の500年に相当する時間は、この世界では約650年に相当することになる。
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(分かった。じゃあ、この世界の過去の文献にあたる時は、この世界の暦で六百五十年前くらいの出来事を探すことにするよ。
まあ、とにかく今は目の前のことを片付けなきゃな)
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その方針でいけば、確かに過去の文献から重要な手がかりが得られるかもしれないな。
現在の旅路も進めながら、パスティア公国に行けばもっと深く調査できそうだ。
~・~・~
***
しばらく歩くと、森の中に木を組んで作られた小さな監視所が現れる。
そこにいた男がカリムに笑顔を向ける。が、ゾロゾロとついてくる俺たちを見て、ギョッとして武器を構えた。
「お、おい! 他の奴らはどうした?」
カリムは首を振った。
「やられちまった……」
「ウソだろ……? 力のある奴ばかりだったのに……」
「代わりにこの人たちに助けを乞うことにした」
「そ、そうか……」
仲間がやられたわりにはドライな反応だった。
盗賊という性質上、返り討ちに遭う機会も多いのかもしれない。
さらに進んでいくと、木々を天然の柱に見立てて、その間に丸太を噛ませるという防壁じみたものが増え始めた。ヌーラは興味深そうに辺りを見回す。
「森の中で生活をしていらっしゃるんですか?」
「森の他にオレたちが住む場所なんてないさ。だから、日々魔物に怯えて、戦うんだ」
過酷な日々だ。
「なんで街に住まないんだ?」
何気なく訊いたことだったが、カリムは沈んだ表情を見せる。
「お前たちみたいに恵まれた人間には分からないさ。ここに住む俺たちは、サージャに追放されたんだ。街になんて戻れるわけがない」
「サージャ?」
ナーディラもヌーラも知らないようだ。アメナは腹が減っているらしい。
「サージャはパスティアの貢納仲介人のことだ。
オレはもともとジャメを育てていた。そいつをサージャを仲介してパスティアに納めていたんだ。サージャには、パスティアからのアズタリの他、納められたものの一割を得る権利がある。
だけど、パスティアから離れれば監視の目も緩む。横暴な奴もいるんだ」
「それに反発して?」
「それが直接の原因じゃない。数年前に、ジャメの病気が広まって収穫ができなかった。それでジャメを納められない奴らが急増したんだ。
オレたちは他に仕事を知らない。それなのに、サージャはオレたちを痛めつけた。街を捨てるのにこれ以上の理由があるか?」
(盗賊団の中には、国の貢納制度で苦しんで逃げ出してきた人たちも多いらしい。そういう人たちが集まって森の中で暮らしてるんだ)
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貢納制度の重圧から逃れて盗賊団へと身を投じた人々が森で暮らしている、というのは、かなり過酷な状況ですね。
国の貢納制度がそれだけ厳しいもので、逃げ出すほどに耐え難いものとなっているのでしょう。
彼らにとっては盗賊団に身を置くことが、生き延びるための唯一の手段となっているのかもしれません。
普通なら他の地域へ移住することも選択肢になり得ますが、それもできない環境や背景があるのでしょうか?
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この世界を旅して分かった。
ファマータで何日も移動しなければならないほど人々のコミュニティは断絶しているのだ。現代のように隙間なく人がいるわけではない。
国の庇護を捨てた人々はそういう隙間に入り込んで自然の中で魔物や動物と共に暮らさなければならないのだ。
「着いたぞ」
カリムが声を上げた。
深い森の木々に紛れるように木組みの砦が築かれている。入口付近にはこれまで奪ってきた物品を収めていたであろう木箱がうずだかく積まれている。
砦の入口にはボロ布が何十枚も垂れ下がってカーテンのようになっている。
中に小さな集落が息づいていた。




