61:エピローグ3 別れ
この世界の一日は短い。
いつの間にか陽は落ちていた。
奉奠の樹の周囲には、街の人々が集まっていた。
ザラが、目を腫らして泣きじゃくっていた。彼女を強く抱きしめるヤーヤとハーフィズは絶望の淵に立たされたような表情だった。
掴んだと思った希望が指の間をすり抜けてこぼれ落ちていくのだ。その苦しみは想像を絶する。
「リョウ、今まで何をしていた……!」
自分の服に着替えていたナーディラが俺の胸倉を掴む。
「俺だって、止めようとした……。止めようとしたんだ。こんな悲しいことはやめろって。だけど、ヌーラの意志は固かった」
「だからって、ここまでやって来たことを無駄にするのか!」
俺は突き飛ばされた。
ナーディラがズンズンと歩いて行って、群衆を留める祭礼騎士たちのもとに迫る。
群衆は儀式を始めろと囃し立てている。反対に、今すぐにやめろと叫ぶ者たちも少なくない。混迷を極めていた。
「儀式の邪魔は許されない」
怪我が治りたてのナーディラは容赦なく弾き飛ばされた。万全の状態でさえナーディラは苦戦していたのだ。
群衆から声が上がった。
祭礼用の純白の衣装に身を包んだアメナが姿を現したのだ。
彼女が軽く手を挙げると、群衆は水を打ったように静まり返る。
忌むべき存在であるはずのアメナを中心に憎悪と信奉が渦巻いていた。
誰もがここでは正常な精神を保てないだろう。
「これより、最後の儀式を始める」
「最後の」……その言葉に人々がざわめく。
「お前たちも知っておろう。この街を巡る負の連鎖を。そして、今日この日に、お前たちは選び取った我らガラーラからの解放を。見よ、雄大なるココナ山の姿を」
カバデマリの森の向こう、天空を突くような噴煙が立ちのぼっている。今も時折、地鳴りが聞こえてくる。
「あれこそは穢れの示すもの。お前たちはこの先をこの世界の困難と共に歩むことになる。じゃが、それが大いなる未来の礎となろう。我らガラーラはこの地を離れる」
群衆の中から悲鳴にも似た声が漏れる。
「案ずるな。お前たちの想いの強さは必ず善き未来を導き出すじゃろう。そのための餞別じゃ。今宵の儀式は、かつてないものとなる」
しずしずとヌーラが姿を現す。彼女もまた純白の衣装に身を包んでいた。
「おねえちゃん! どうして!」
ザラが叫び声を上げる。
「此度の戦い、多くの者が命を落とした。それゆえに、イルディルへ還すための大いなる魂のほぼ全てはすでにここにある。最後に、ここにいる生贄の命をもって、大いなる魂は完成される」
剣を携えたハムザがやって来た。彼もまた純白の衣装だ。
ザラが膝を突いている。夢にまで見ていた姉との時間が終わりを迎えようとしているのだ。
厳かな時間が訪れる。
アメナが呪文を唱えると、ゼルツダが現れる。
煌めく炎の中、ハムザは祈りを捧げた。
そして──、彼の手にした剣の切っ先がヌーラの胸に突き立てられる。
ここに多くの人々が集っているとは思えないほどの静寂。
ヌーラの純白の衣装が真っ赤に染まっていく。
ハムザは胸に手を当てて深く頭を下げた。
ザラがグシャグシャの顔から地面に倒れ込むようにして、嗚咽を漏らす。
俺は居たたまれなくなって、顔を背けるしかなかった。
ハムザがヌーラの身体を抱き上げて、奉奠の樹の方へ向かう。
巨大な神木の脇に木でできた梯子が立てかけられている。その先に尖った太い枝が突き出ていた。高硬度の鉱石でできたそれは、鋭利な刃物ののように研ぎ澄まされている。
ハムザはヌーラを抱きながら梯子を昇り、その枝の先にヌーラの身体を突き刺すようにして掲げた。
アメナが口を開いた。
「この地を覆い、守り、与えるものよ、今こそそなたへこの祈りと共に、我らの願いの結晶を捧げよう。その大いなる慈悲よ、再び我らを覆い、守り、与えたまえ」
ゼルツダが生み出した炎が奉奠の樹を包み込んでいく。
神々しいその炎は人々の心を溶かすようにして、新月の夜に天まで昇る光を捧げた。
***
夜が明けた。
朝日を受けるココナ山の巨大な噴煙の柱はいくぶん輪郭がぼやけ始めていたが、それでもまだ大きな存在感を示していた。
二重防壁の広場には、早朝だというのに、イクラスやハムザ、そして、ヤーヤとハーフィズ、ザラが集まっていた。
みんな一様に表情は重苦しい。
「君たちはこれからどうするんだ?」
アレムのファマータの車に乗り込んだ俺たちに、イクラスが穏やかな口調で尋ねてきた。穏やかというには、あまりにも疲れ切っていた。
俺はナーディラと顔を見合わせた。
「本当はココナ山を越えてウドゲに戻りたかったんですけど、今の状況では難しくて……。とりあえず、パスティア公国を目指そうかと考えています」
「なるほど、パスティア公国なら、落ち着いて状況を立て直せるかもしれないな……」
イクラスは静かにそう言って俺やナーディラと手を合わせた。
「イクラスさんは?」
「俺は防衛団を再構成して、この街の内外の守備を固める。幸い、こっちには元防衛団長もいる」
イクラスが指さすと、ハムザは表情乏しく軽く手を挙げた。
「俺にこんなことを言える資格はないですけど、頑張ってください」
「ああ、俺たちは俺たちの選んだ未来を勝ち取るさ」
ザラに目を向ける。両親と手を繋いで、まだ枯れない涙を堪えている。
「ザラ……」
彼女はヤーヤのお腹に顔を埋めて肩を震わせた。
ヌーラを助けるという約束を反故にした俺を怒っているに違いない。
俺は車を降りて、ザラの前に立った。膝を突いて目線を合わせる。ザラが顔を向けると、その目が苦しいほど泣き腫らして真っ赤なのがよく見える。
俺はポケットからカバデマリの葉を取り出した。
「ヌーラに頼まれたんだ。君に渡してほしいって」
「おねえちゃん……」
ザラはカバデマリの葉を抱きしめるようにして受け取ると、泣きじゃくった。
そんな姿を見るのは辛かった。
「それをお姉ちゃんだと思って」とは、言い出せなかった。それはあまりにもひどい言い草だ。
黙ってザラの頭を撫でると、彼女が俺の腰に抱きついた。
言葉はひとつもなかった。小さな女の子だ。胸の中に溢れる思いを言葉にするには、幼すぎるのだろう。
俺は目一杯の愛を込めて、その小さな身体を抱き止めた。
ナーディラと二人で見送りに来てくれた人たちに向かって手をかざす。俺たちの世界で別れに手を振るのと同じ意味がある。
門が開いて、ファマータがゆっくりと歩き出す。
もうこれでお別れなのだ。
胸がざわつく。
実家を出て東京に向かう日のことを思い出した。
あの時も今も、言葉にならない想いが胸を痛めるほどに膨らんで、小さなため息をつくことしかできなかった。
門を出ると、ナーディラの合図でファマータが駆け出す。
ゆっくりと閉じていく門の隙間から、ザラたちがこちらに手をかざしていた。
ナーディラが短く言う。
「急ぐぞ」
「ああ、分かってる」
車は森の中の道を外れ、近くの高台へと登っていく。
森の木々を見下ろせるところには切り立った崖がある。
そこに人影がある。
真っ赤なローブ、燃えるような赤い髪、オレンジ色の瞳……アメナだ。
「別れは済んだか?」
俺たちは車から降りて彼女を迎える。
「ああ、待たせたな」
そして──、アメナの隣、小さな少女の影がある。
華奢な身体、理知的な瞳……髪はすっかり短くなってしまった。
「ヌーラ……!」
ナーディラが駆け寄る。そして、俺を振り向いた。
「どういうことだ?!」
「黙っててごめん」
ヌーラがボブの髪を揺らせる。光沢のある柔らかな栗色の髪が煌めいた。
「わたしがお願いしたんです」
***
ヌーラの瞳は真っ直ぐと俺を捉えていた。
「力を貸してください」
俺はその瞳に引き込まれそうだった。それほどまでに魔力を秘めた眼だった。
「なんだ?」
「この街の儀式の歴史に終止符を打ちたいのです」
ヌーラの提案はおぞましさすら感じるものだった。
最後の儀式を行い、そこでヌーラ自身が生贄となる。そのために、この戦いで死んでいった者たちをも利用するというものだった。
「大いなる魂」が、より大きな恩恵を賜るために必要なものだと思わせることができれば、人々の意識は自律への道に向けられるだろうとヌーラは考えたのだ。
***
「じゃあ、ハムザも?」
「ああ、彼やガラーラにも協力を仰いだ」
ナーディラは力が抜けたように背中を丸めた。
「お前らなぁ、そんなこと相談もなしに決めるな……」
「お前に知れると、露見する危険性があったのじゃ」
アメナが悪戯っぽい顔で笑う。
「なんだと?! 私をバカにするなよ! 知らない振りなんていくらでもできる!」
これには俺も一言ある。
「いや、だって、お前、街の中で魔法ぶっ放した前科があるじゃん。あれのせいで色々大変だったんだってこと、忘れたわけじゃないよな?」
「うっ! あ、あれは、ザラを助けるためにだな……!」
「とにかく、お前とかイクラスさんには知らせないようにって決めたんだ、ヌーラと。このことを知っているのは、あの街にはもうハムザさんしかいない」
ナーディラは歯軋りをする。再会を喜んでいたのに、今ではヌーラを恨めしそうに睨んでいた。
「なんだと、ヌーラ……」
「ご、ごめんなさい! でも、絶対に失敗できなかったんです。あの街の未来のために……」
崖からは防壁に囲まれたムエラ・ココナがよく見えた。
未だに噴煙の消えない雄大なココナ山とそれを囲むようなカバデマリの森……それらを背景に木々を切り拓いた広大な街。それがココナ山と共にだ。
「この世界の均衡を維持するための方策は必ずあるはずです。それを見つけ出すまで、わたしは死ねません」
「いいのか? きっと君はあの街に戻ることはできないだろう。ある意味で、街の人々も、そして家族も裏切ってしまったんだから」
ヌーラが口をグッと結んでうなずいた。それは固い決心のようだ。
「街を守るためなら、わたしはその道を選びます」
強い人だ。そんな辛い選択を迷わずにとることができるなんて。
風が吹く。
新たな旅立ちの合図だ。
「さあ、そろそろ行くぞ」
ナーディラが御者台に駆け上がる。
俺たちも幌付きの荷台に乗り込む。
アメナが俺の隣にそっと腰を下ろす。甘い香りが鼻をくすぐる。
俺の向かい側には生まれ変わったヌーラがそっと座る。
「ちょっと待て」
御者台のナーディラが首を傾げた。
「儀式の時にヌーラは剣で突き刺されたはずそれにあの大量の血は一体……?」
「ああ、それは服の中にカバデマリの葉を仕込んで、それから……」
ヌーラが立ち上がってナーディラに口を開けさせると、そこへ小さな赤い実を投げ込んだ。
「うげっ! 酸っぱ!! なにしやがる!」
ヌーラはケラケラと笑った。
「それはベナという木の実です。お願いしてたくさん集めてもらったんですよ」
「死ぬほど酸っぱいぞ……。また都合よくそんなものがあったな……」
「なんじゃ、知らんのか? アメナのこの赤いローブはベナの実で染めたものじゃ」
「え、そうだったのか?」
ヌーラにベナの実のことを聞いた時はアメナのローブは結びついていなかった。
「なんじゃ、アメナが血で染め上げたとでも思うたか?」
「いや、そこまでは言ってねーよ……」
「じゃが、このローブとももうお別れじゃな。これはあまりにも目立ちすぎる。アメナはちょっとばかし恥ずかしかったんじゃ」
意外な告白をして、アメナはローブを脱ぎ捨てて荷台からポイと捨ててしまった。
「おい、いいのかよ?!」
ローブの中から現れたのは、海の色をした長いワンピースのような服だった。それはまるで彼女を苦しめ、そして、その苦しみから彼女を解放した水が揺蕩うような色だった。
「ふふん、アメナに見惚れておるな?」
「おい、リョウ」
ナーディラが御者台からこちらを睨みつけていた。
「は、はい」
「変な気を起こしやがったら殺すぞ」
「分かってます……」
これだから女キャラばかりの物語は好かんのだ。
ヌーラが笑っていた。本当に生まれ変わったみたいによく笑うようになった。背負っていたものを下したからなのかもしれない。
「みんなで仲良く行きましょう」
ヌーラがパチンと手を叩くと、ファマータがキュイッと鳴き声を上げた。




