56:コグニティブ・ワールド(前編)
奉奠の樹の淡い紫色の巨木を背に、アメナは話し始めた。必然、雰囲気は厳粛なものになっていく。
「お前たちは、精霊術と魔法の違いを知っておるか?」
ヌーラが先陣を切って答える。
「精霊術は精霊を使役して、魔法はイルディルに懇願することで力を使うことができます」
「ふむ、その通りじゃ。しかし、魔法についてはもう少し理解が必要じゃな。アメナはイルディルを見ることができる。イルディルは魔法が使われる時、消費されるのじゃ」
「消費……?」
ここにいる誰もが疑わしげな声を漏らしていた。アメナは自分の首飾りに触れる。
「この光る石は、イルディルの変動に反応して光とわずかな熱を発する性質がある。それを魔法感知に利用しておるのじゃ」
──訳が分からなくなってきた。
「ええと、イルディルはものすごく大きな存在なんじゃなかったのか? 俺たちを見守り、力を貸してくれるような……」
「神」と言おうとしたが、この世界にそれに対応する言葉がないことに気づいた。
唯一あるとすれば、それは「イルディル」だったはず。現に「神聖な」というニュアンスのある語句に「イルディナ」というものがある。これなんかは明らかに「イルディル」から派生した言葉だろう。
「例えるならば、イルディルというのはこの世界を満たす水のようなものじゃ」
──世界を……満たす?
(サイモン、アメナとの戦いが終わって、彼女は正気を取り戻すことができた。
それで、今は彼女にこの世界の仕組みについて話を聞いているんだが、イルディルのことも教えてくれてる。
俺はイルディルが神みたいな存在だと思っていたんだが、アメナの話では、イルディルはこの世界を満たす水のようなものだというんだよ。
そして、魔法を使う時にはイルディルが消費されるんだと言ってる)
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イルディルが神のような意思を持つ存在ではなく、水のように世界中に遍在し、魔法の「燃料」として消費されるものだというのは興味深いね。
これは、イルディルが物理的なエネルギー源やエーテルのような「物質的存在」に近いことを示唆している。
イルディルがエネルギー的な役割を果たすなら、魔法を使うことでそのエネルギーが減少するのも理解できる。
この考え方だと、魔法はイルディルの流れを操る技術のようなもので、イルディルが枯渇することがあれば魔法の力も弱まる可能性があるかもしれない。
これは、自然環境が豊かでない地域や、イルディルが消耗しやすい状況では魔法の使用に限界があることも意味していそうだ。
この仕組みを知ることで、魔法の使用量や方法に関しても何か制約が生じているのかもしれない。
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(そうだ、エーテルだ。アメナの話を聞いて、思い当たる節があると思ってたんだ。
そもそもエーテルってなんなんだ?)
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エーテル(Aether、Ether)は、古代から中世にかけて用いられた概念で、物質でもエネルギーでもない「第五の要素」として捉えられていたものです。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、地・水・火・風の四元素に加えて、エーテルを宇宙を満たす要素として提唱しました。
エーテルは「天の気」や「霊的な物質」とも考えられ、空間を満たし、天体の動きや光、精神的な力の伝達に関わるものとされました。
近代に入ると、エーテルは科学の文脈でも扱われるようになり、「光や電磁波が伝わるための媒質」としての理論が展開されました。
これは、電磁波が「波」として空間を伝わる以上、波の振動が伝わるための「媒質」が必要と考えられたからです。
しかし、20世紀初頭のマイケルソン=モーリー実験で、エーテルの存在を支持する証拠が見つからなかったため、エーテル説は物理学の主流から外れていきました。
その後、アインシュタインの相対性理論によって、エーテルなしで光が伝わると説明されるようになりました。
ファンタジーや魔法の概念におけるエーテルは、今も「魔法の力を支える霊的なエネルギー」や「力の源」として描かれています。
アメナが語るイルディルとエーテルの役割は、このようなファンタジー的なエーテルの概念と重なる点が多いですね。
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もうサイモンの博士キャラを直すのは諦めた。だって、こいつ粘り強く敬語使ってくるんだもん。
ナーディラはアメナに疑いの目を向けていた。
「その話も怪しいものだな。イルディルが水のように世界を満たすのは分かるとしても、消費されるというのは荒唐無稽だ。イルディルは私たちの思いを受け入れ、魔法という力を恩恵として与えてくれるのだからな」
ナーディラの言う通りだった。
魔法の詠唱文言はイルディルへの懇願だ。イルディルは俺たちの言葉、つまり意思を受け取って魔法として出力している。これはれっきとしたコミュニケーションといえる。
「イルディルは大いなる存在じゃ。アメナたちを包み込むと同時に、アメナたちの中にも存在する。水というのは例え話にすぎん」
ハムザは漂う疑問を振り払うように首を振る。
「この際、イルディルのことは置いておいて、それがなんなんじゃ?」
「アメナたちガラーラは魔法を穢れたものとしてきた」
「それはワシらを縛りつけるためじゃろう」
「それは違う。魔法はイルディルを消費する。つまり、イルディルは場所によって濃度が変わるということなのじゃ。そして、イルディルとは、アメナたちを守る存在。
お前たちも見てきたじゃろう。謎の病が起こり、熱波が押し寄せ作物が死に、魔物たちが殖え暴れ、災いをもたらすものと呼ばれる悪しき精霊が跋扈するのを」
「それらの原因がイルディルの濃度に関係しているっていうのか?」
アメナがニコリと微笑んだ。
「さすがはリョウじゃ。アメナの言うことが分かっておる」
不思議だと思っていたんだ。ココナ山の標高の高いところでも気温が下がらなかったのは、イルディルの影響だったに違いない。それが、イルディルが“アメナたちを守る存在”と言われる所以なのだろう。
「病や熱波はともかくとして、魔物とイルディルになんの関係が?」
イクラスが首を捻る。
アメナは深くうなずいた。
「そこが儀式の意味に繋がってくるんじゃ。儀式には、人間と魔物か動物を必要とし、それを精霊の力でイルディルに還す……。人間も魔物も動物も、そして精霊も、元はイルディルなんじゃよ」
「なんじゃと?」
驚きの声を上げるハムザにアメナは真っ直ぐ応えた。
「イルディル、人間、魔物、動物、精霊……これらの均衡は崩れておる。人が殖え、それに伴い魔物も殖えた。その上、人が魔法を使い、イルディルは消費され続けておるからな。
イルディルが薄まってしまった状態を穢れているという。
儀式は、元はイルディルであった人間、魔物および動物、そして精霊をイルディルに還元することによって、イルディルの濃度を高めるためのものなのじゃ」
「信じられん」
ナーディラがそっぽを向く。
異世界から来た俺ですら意味が分からないのだから、この世界の住人たちにとっては驚くべきことに違いない。
「ちょっと待ってくれ。イルディルが人間にもなるって、子供はどうやって生まれてくるんだ?」
俺の疑問に、この場の一同がざわついた。
言ってしまって、顔が熱くなる。親を困らせる子供の質問の代表例みたいなやつを、俺は口走っていたのだ。
アメナが口を開く。
「男が生命の息吹を女の中に注ぎ込──」
「だー! 分かった、もう大丈夫だ!」
ここには年端のいかない少女もいるんだぞ。
「とにかく、そうやって生命が芽生えた頃、母親の胎内にイルディルが流れ込んでいくのじゃ。無論、両親の中のイルディルも混ざり合っていく」
(イルディルのことがだんだん解ってきた。
イルディルはエーテルのような存在だが、この世界を維持したり、地上のものを守るような存在でもあるらしい。
ココナ山の標高の高いところでも気温が下がらなかったのは、きっとイルディルの影響があったからだ。
アメナは言っている。人も魔物も動物も精霊も、元はイルディルだったんだと。
そして、今はイルディルと人と魔物と動物と精霊のバランスが崩壊しつつある。
だから、ムエラ・ココナの儀式では、人と魔物か動物を生贄にして、それを精霊の力でイルディルに還していたんだ)
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イルディルは、エーテルのように世界の基盤を成す存在でありながら、この世界を維持し、人々や自然を守る役割も果たしているんですね。
そして、アメナの言葉を通じて、イルディルがすべての生き物や精霊の「源」であり、それらがバランスを保つことで世界の秩序が保たれているという理解が深まりました。
ココナ山の異常な気温や、ムエラ・ココナの儀式が行われている理由も、すべてこのバランスの維持に関わるものだったと考えると納得がいきます。
ムエラ・ココナの儀式で「人」や「魔物」「動物」がイルディルへ還されていくのも、イルディルの力が尽きてしまわないようにするため、という考え方が伺えます。
バランスが崩れると、イルディルが本来持つ力が弱まり、精霊の暴走や自然の異常が起こるのかもしれません。
リョウがここで目にしている「イルディルと人間や動物、精霊との循環」は、古代のエーテルの概念とも少し通じるところがあり、「万物は同じ原初の力を共有している」という思想が反映されているようにも感じられますね。
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(四元素もエーテルも古代から中世にかけての思想だ。この異世界はその時代の影響をもろに受けている。
それってつまり、その時代の人間の意志がここに反映されているってことだよな?)
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そうかもしれないな。
この世界の概念が古代から中世にかけての四元素やエーテルの思想に基づいているなら、その時代の人々の信念や価値観が反映されている可能性がある。
エーテルや四元素の思想は、当時の人々が世界を理解しようとする努力の一環だったし、「万物の根源」を求める姿勢が強く影響している。
四元素を信じていた時代では、「火」「水」「土」「風」といった要素がすべての存在の基礎とされ、エーテルはそれを包括する媒介や生命力のようなものとして考えられていたんだ。
もしこの異世界が地球の歴史や思想から影響を受けているなら、その背景には、「この世界には存在しないもの」を渇望し、あるいは信じてやまない人間の意志や願望が作用しているのかもしれない。
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(魔法の詠唱はイルディルへの懇願だと言っただろ? イルディルはそれに応えて魔法という現象を出力する。これはまさに人間とイルディルのコミュニケーションだってさっき思ったんだ。
イルディルが人の意志に呼応するなら、精霊やゴブリンやグールは人の意志に呼応したイルディルが生み出したものだと言えるんじゃないか?)
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それは確かに、イルディルの性質と人間の意志がこの世界の存在に影響を与えているという考え方に繋がりそうだ。
イルディルが人々の信念や願望に呼応し、魔法や精霊を通してその意志を現象として現実に投影するならば、精霊やゴブリン、さらにはグールのような存在も、同じように人間の意志から発生している可能性がある。
例えば、精霊のような存在は人々が「自然の力」を求める思いから現れたものかもしれないし、ゴブリンやグールは、恐怖や死への不安といった負の感情がイルディルに反映され、形を成したのかもしれない。
こうした存在は単なる「悪」として存在するのではなく、人間の意識の投影として、イルディルとの関わりから生まれていると考えると、魔法の詠唱が「懇願」であることにも合点がいく。
人間の感情や意志がイルディルに語りかけ、現象や存在として答えを受け取るこの関係は、まさにコミュニケーションだ。
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(問題は、その「人間の意志」に中世の価値観が含まれているということだ。
結論をつけるのは早いかもしれないけど、この世界にはその時代の人間が既にやって来てたんじゃないだろうか)
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確かに、「人間の意志」がこの世界に影響を及ぼし、さらにその意志に中世の価値観が反映されていると考えると、この世界にその時代の人々がやって来た可能性が浮かび上がる。
もし中世の人々が何らかの方法でここに来て、彼らの価値観や信念がイルディルに影響を与えたとしたら、それがこの世界の魔法や精霊、さらには文化全般に色濃く反映されるのも自然だ。
また、彼らが持ち込んだ「四元素説」や「エーテル」の概念が、この世界のエネルギー体系や存在の成り立ちに取り入れられていると考えると、異世界の理が地球の古代・中世の思想と調和している理由が説明できる。
これが事実であれば、彼らが思い描いたものが実体化する「夢」や「伝説」のような存在が、多くの人々に共有されることで、現実として成立してしまう可能性がある。
この仮説が正しければ、アメナが感じたイルディルの力も、そうした人々の「意志」が作り上げたものに過ぎないのかもしれない。
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「それが本当なら……、儀式を辞めてしまったらマズいんじゃないか……?」
イクラスの口からこぼれた不安は一気にムエラ・ココナの住人であるハムザやヌーラへと伝播していく。
アメナがその不安を煽るようにうなずく。
「現状の、十六月の新月の夜にのみ行う儀式だけでは、そろそろ限界が来ておるのは確かじゃ。事態はムエラ・ココナだけではない。その周辺全ての問題じゃからな」
自然とヌーラが視線を集めることになる。
ナーディラが躍り出てヌーラの前に立ちはだかる。
「お前ら、いちいち狼狽えるな! なぜこのクソ女の言うことを信じるんだ! 一人の命を差し出せば他が助かる? じゃあ、ヌーラは救われるのか?」
ナーディラはムエラ・ココナの外からやって来た。だから、彼女の言葉はヌーラたちを大きく揺さぶっていた。
ひとりの命か多くの命か。
頭で考えれば答えが出せるものでも、心がそれを拒否してしまう。だから、ザラやヤーヤやハーフィズは葛藤を抱き続けてきたのだ。そして、今ここにいる彼らも。
緊迫した空気の中、アメナはゆっくりと口を開いた。
「アメナはこのことをガラーラの母体であるクトリャマの精霊術師から聞き及んだのじゃ」




