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55:訣別の雨

 見開かれたアメナの瞳は驚くほど澄んでいた。澄んだ炎の色。


 彼女の心を解放させるためにまだすべきことがあったんじゃないかと思っていた矢先のことで、俺はその瞳に魅入られるように見つめていた。


「アメナのそばに居続けようとしてくれていたのは、お前じゃったか……」


 アメナの手が伸びて俺の頬に触れる。彼女の手はとても冷たかった。あれほどの業火を宿していたとは思えないほど。


「俺は何もできなかった……」


「そんなことはないぞ。お前がアメナを呼ぶ声がずっと聞こえてきた。お前も孤独だったのじゃな」


 息を飲んだ。


 彼女の声が流れ込んできたということは、逆に、俺の声が彼女の中に流れ込むこともあり得るわけだ。


 孤独……。


 俺が異世界から来たということ。


 もし俺の心の中や無意識を彼女が受け取ったのなら、誰にも言えない秘密を彼女に知られたことになる。


「お前もアメナも独りじゃ。じゃから、お前から孤独を奪ったりはせんぞ」


 心が……読まれている。いや、俺の意識が彼女に流れ込んでいるのか。


 アメナがスッと体を起こす。


 その横顔は、俺が初めて見た時よりもずいぶん幼く見えた。顔つきや雰囲気が明らかに変貌を遂げているのだ。なにか憑き物でも落ちたような、そんな印象だ。


 彼女は立ち上がって暴走するゼルツダを見上げた。


「おとうさん……」


 あの時に父親を助けてくれなかった水の精霊(ゼルクビーナ)……もしかしたら、彼女にとってそれと対をなす火の精霊(ゼルツダ)は父親の象徴になったのかもしれない。


 ゼルツダから放たれた炎の波がまた多くの人を飲み込んで燃やし尽くす。必死で応戦する者たちが心折れていくさまがありありと俺の目に焼きつく。


 グッと周囲の空気が湿り気を帯び始めた。アメナが中空を見上げる。


「ゼルクビーナ、貴様はあの時、おとうさんを見殺しにした。それがアメナの心に深い傷を穿ったのじゃ。じゃが、今ではその傷だけが、アメナとおとうさんのただひとつの繋がり……」


 ゼルツダが彼女の父親と同義なら、彼女はきっと父親とずっと一緒に居たかったのだ……。


 アメナが呪文を唱える。精霊術だ。


 凄まじい水量を伴って、ゼルクビーナが現れる。


「アメナはおとうさんに縛られすぎたのかもしれん。何度もの夢の中で別れを経験してきた。その度に、アメナは自分を許せなかった……。じゃが、それももう終わりじゃ」


 彼女は俺を振り返った。


「リョウ、お前がアメナを救い上げてくれたのじゃ。礼を言う。おとうさんと訣別をする勇気をくれて、ありがとう」


 ゼルクビーナから解き放たれる無数の水のビームがゼルツダを貫く。


 耳をつんざく大音声と共に、ゼルツダが身体をくねらせて炎をところかまわずに飛び散らせる。落ちた炎の塊は地面を焼き、溶かした。粘性の炎……それはまるでマグマだ。


 ゼルツダが大きな口を開けてゼルクビーナに突進を仕掛ける。水の盾を呼び出して受け止めようとしたゼルクビーナの側面に回り込んだゼルツダが、その身体に噛みついた。


 心を揺さぶるようなゼルクビーナの悲鳴。


 ゼルツダと戦っていた者たちが圧倒的な力のぶつかり合いに茫然と口を開け放していた。それほどまでに、それは人間が割り込めるようなものではなかった。


 アメナが進み出る。


「おとうさん、さようなら」


 アメナはゆっくりと目を閉じて、水をすくうような仕草を取った。降りしきる水を受け止めて、実際に手のひらの中の水かさが増していく。


「メギア・ヘルマーヘス──」


 ──魔法……?!


 ガラーラたちもざわめいていた。


「おやめください、アメナ様!」


 生き残った祭礼騎士の一人が叫んだ。


 しかし、アメナの表情は水のように穏やかだった。


「──(クバナ)。カクネラーメ・イルディル。メギア・ゼルトナーラ・パモ・タガーテ……!」


 純粋な水の魔法だった。


 巨大な水の塊が槍のように形を変えて高速で撃ち出される。それが二つの精霊を一瞬で貫いて空の彼方に飛び去って行った。


 炎との化身たちはその場で動きを停め、その表面が砂のように変質していった。身体がボロボロと崩れ落ち、赤金色の粉となって地面に還っていった。


「お……終わった……」


 そう思ったら、足から力が抜け出してその場に立っていられなくなった。


 歓声が上がる。


 ガラーラの中には膝を突いて俯く者、今しがた目の前で起こった信じがたいことに茫然とする者、怒号を発する者と様々だった。


「リョウ!」


 ナーディラが駆け寄って来る。ヌーラも無事だ。


 へたり込んだ俺を彼女たちが腰のところで抱き寄せてくれる。俺だけなんだか情けないな……。


「無事だったか!」


 ボロボロのイクラスが満面の笑みでやってきた。その後ろからは肩で息をしながらも達成感で晴れやかな表情を見せるハムザの姿も見える。


 俺は座ったままで失礼しつつ、イクラスを見上げて尋ねた。


「ザラたちは?」


「街のみんなと防壁の中に避難しているぞ」


「ワシがこいつの尻を引っ叩いてやったんじゃ。過ちを正すなら今しかない、とな」


 イクラスは膝を突いて胸に手を当てた。


「みんな、本当にすまない……! 俺は自分や家族を守るために……」


「いや、もう大丈夫ですよ。イクラスさんは守りたい人のためを思っていたんですから」


 イクラスは申し訳なさそうな顔をしながらも、口を開いた。


「それもこれも、アメナの──……あっ」


 その目が向こうで一人佇むアメナに向けられた。


 アメナがこちらを振り向いて、微笑んだ。


 歓喜の渦が辺りを巡っていた。


 その渦の中から一人の男が飛び出してくる。手には剣が握られていた。


「死ね! 弟の仇!!」


 ハムザが短く合図を飛ばすと、彼が結成した精鋭集団の何人かが素早く男を取り押さえた。地面に押さえつけられた男は激情を飛ばしながら声を上げる。


「お前ら、こいつを許すのか! 何人も殺したんだぞ、こいつは!」


「連れて行け」


 ハムザが命じると、男は喚きながら連行されていった。


 アメナが俯いてポツリと漏らす。


「あのような怒りを向けられるのは当然のことじゃな」


「お前さんが街の人間を恐怖で支配してきた結果じゃ」


 ハムザが憤りを押さえつけるような声色でアメナに近づいていく。イクラスが狼狽えていた。


「じ、じいさん、変な気は起こすなよ……」


「ワシはお前のように短絡的な人間ではないぞ、未熟者め」


「そりゃないよ、じいさん……」


 ハムザは真剣な表情を取り戻してアメナに対峙した。


「お前さんがそのためにガラーラという祭司集団や儀式を利用していたことはもう分かっておる。ワシとしては、お前さんを屠ってやりたい」


 アメナは微笑んだ。


「そのために長年準備をしておったものな」


「なんと、気づいておったのか?!」


「アメナを舐めるでない。悪意や姦計など、幼い頃からいくらでも見てきたんじゃぞ」


「なぜワシらを放っておいた……?」


 周囲では歓喜と怒りが綯い交ぜになって狂喜乱舞が巻き起こっていた。


「話したいことがある。場所を変えようではないか」



***



 俺たちは混乱を極める場所から奉奠の樹(オズロ・ウベラ)のそばまでやって来た。


 淡い紫のカバデマリがまるで山のように鎮座する。奉奠の樹(オズロ・ウベラ)は、日本でいえば屋久杉みたいな荘厳さを伴っていた。


 その向こう、空は白み始めている。いつの間にか、夜が明けようとしているのだ。


「この辺りまで来るのは去年の儀式以来だな……」


 イクラスが畏まった様子で声を潜めた。だが、ハムザは気を引き締め続けていた。


「それで、お前さんの話とは? 言っておくが、下手のことをすれば首を刎ねる用意はあるぞ」


 アメナは弱々しく口元を緩ませる。


「そんなことはせん。アメナはそこにいるリョウに心を救われ、そして、これから先、共にあることを誓い合ったのじゃからな」


 ──……ん?


「なんと、いつの間に!」


 ハムザが驚きの声を上げて俺を見つめる。


「ちょっと待って、そんな話聞いてない──」


「勝手なことを言うな!」


 ナーディラが大きく一歩踏み出して大声を発した。


「そ、そうだ、ナーディラ、言ってやれ……」


「リョウは私と共にいると誓ったのだぞ!」


 ──誓ってない! ……とは言い切れない!!


 頭が痛くなってきた。そこへ、ヌーラもおずおずと割り込んでくる。


「お、お二人とも、リョウさんが困っています。困らせるのはやめてください……!」


 なんなんだ、こいつら……変に生き生きしやがって。さっきまで死に物狂いで戦ってたはずだろ……。


 ハムザが駅払いをした。


「とにかく、今は話を聞こうではないか」


「アメナとリョウの固い絆についてか?」


 アメナがニコリとするので、これはもう俺が止めに入るしかなかった。


「違う、違う! さっき君は話したいことがあると言っていただろ。そのことについてだ」


「ああ、そのことじゃな」


 ──そのことしかねーだろ。


 アメナは奉奠の樹(オズロ・ウベラ)を見上げた。


「ハムザよ、アメナが儀式を利用していると言っておったな?」


「その通りじゃろう」


 アメナが俺たちの方を振り向いた。


「儀式には大きな意味があるのじゃ。この地を守るためのな」

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