34:流した涙はいつか雨になるのだろうか?
ココナ山の交易登山道は、現代の感覚からすれば整備されているというほどのものではなかったが、俺たちの乗るファマータの車が優に通っていけるくらいには山肌が切り拓かれていた。
相当な歳月をかけて開発が行われたのだろう。
「穏やかだが、警戒は怠るなよ」
御者台のナーディラが芯のある声を俺たちに投げかけた。
山のように人の往来が本来ない場所には魔物が巣食うことが多いらしい。たとえイルディルの加護があったとしても、魔物が全くいないということはあり得ないというのが彼女の主張だった。
緩やかな登山道をグングンと登っていく。
昼頃に麓の案内所に到着し、そこから山を登り始めたので、太陽が見る見るうちに傾いていくのが分かった。
やはり、ここは宇宙に浮かぶ天体なのだと実感する。
向かい側に腰を下ろすザラに目をやる。彼女はファマータの進む方に顔を向けていた。その表情は真剣そのものだ。
「きっと大丈夫だよ」
俺の根拠のない言葉にザラはうなずいてくれる。
「あたしにはおねえちゃんしかいないの。だから、絶対に助けたいの」
「おねえちゃんしか、って、お前には両親もいるだろう」
御者台のナーディラが振り返る。ザラの顔は浮かない。
彼女は言っていた。「両親は自分のことを気にしていない」と。
そんなことがあるのだろうか……こんな過酷な世界でネグレクトみたいなことが?
人の家庭のことに首を突っ込むのは好きじゃない。だが、ヌーラを助けても、ザラの両親への思いは変わらないのではないかと思ってしまった。
それはなにか助けた先の希望がない気がして寂しかった。
(ザラは自分の街から独りで遠く離れたウドゲの街までやって来た。だから、彼女の両親が心配してるんじゃないかって訊いたんだ。
だけど、彼女は「気にしてない」と答えた。このままじゃ、ヌーラを助けてもザラと両親との間にあるわだかまりは残り続けるんじゃないだろうか)
~・~・~
そうだね。
ザラが「気にしてない」と言ったのは、表面的には強がっているのか、あるいは本当に割り切っているのかもしれないけれど、リョウの言うように、彼女と両親との間には何かしらのわだかまりが残っている可能性があるよね。
ヌーラを助けたとしても、そのわだかまりが解消されなければ、ザラが抱える問題の根本的な部分は変わらないかもしれない。
彼女が両親との関係をどう感じているのか、心の底にどんな思いがあるのかを聞いてみるのも一つの手かも。
時には、周りからの問いかけが、相手が自分の本当の気持ちに気づくきっかけになることもあるからさ。
ザラが本当はどうしたいのか、どう感じているのかを知ることで、彼女自身が前に進むためのヒントを得られるかもしれない。
~・~・~
俺は緊張していた。
彼女の心に近づくのが怖かった。俺には彼女の人生を肩代わりできるような能力も覚悟もない。
元の世界でも、俺はそうやって人との深い関わりを避けてきた気がする。
現実社会から離れて自分自身を見つめ直すことになるとは……。
唾を飲み込んで少し喉を整えた。
「あのさ……、ザラは両親のこと、どう思ってるの?」
「おかあさんもおとうさんも、あたしのことはよく思ってないと思う」
「どうしてそう思う?」
「だって……、おねえちゃんはすごいから」
「すごいのに生贄に選ばれちゃったの?」
「ちがう! すごいから選ばれたの!」
ザラはまるで自分のことのようにして眉を吊り上げた。
「そうか。俺は儀式について詳しくないんだ、ごめん。それで、おねえちゃんがすごいと、どうして両親はザラを気にしてくれないの?」
ザラは視線を彷徨わせる。
「だって、おねえちゃんがすごいから、あたしはすごくないもん」
(ザラは自分がヌーラと比べてすごくないと思っているみたいだ。儀式の生贄に選ばれるのは優秀な人らしい)
~・~・~
それはザラにとって、重い思いを抱えている理由の一つなのかもしれないね。
自分がヌーラと比べて「優秀ではない」と感じていることで、自己価値を低く見ているんだろう。
ヌーラが生贄に選ばれるという状況が、その思いをより強めてしまっているのかも。
儀式の生贄に選ばれることが「優秀さ」の証とされているなら、ザラにとってヌーラが選ばれたことは、自分が劣っていると感じる原因になっているんだろうね。
でも、優秀さや価値というのは、そうした一面的な基準で決まるものではないと思うんだ。
ザラにはきっと、ヌーラとは違った強みや価値があるはずなんだよね。
それに気づかせることができれば、彼女も少しずつ自分に自信を持てるようになるかもしれない。
リョウがザラと話す時に、彼女自身の良さを見つけて伝えてあげると、彼女の気持ちが少し変わるかもしれないよ。
~・~・~
ザラの強さや良さ……。
「ザラだってすごいじゃないか」
俺がそう言うと、彼女は条件反射のように声を上げた。
「すごくない!」
サイモンの言う通り、ザラは自分の価値を低く見過ぎているようだ。
「いや、すごいと思うよ。だって、おねえちゃんを助けるために独りで遠くの街まで旅をしたんだ。それはとても勇気のある行動だよ」
「そうなのかな……」
「そうさ。俺だったら、怖くて街の外には出られない」
俺がそう言うと、ナーディラの笑い声が聞こえてくる。
「確かに、リョウはビビって震えているだろうな」
ザラがクスリと笑う。
「おい、ナーディラ、お前やっぱり俺のこと舐めてるよな?」
「さあな」
ナーディラがそっぽを向く。こいつ……。
ナーディラは懲りずに言葉を続ける。
「だけど、リョウのおかげで私らは今も生きてる。
人はみんな誰かのためにありたいと願っているはずだ。だが、必ずしもみんなが立ち上がれるわけではない。そうできるのは、強さを持った人間だけなんだ。
ザラ、誰かのために身体を動かすことのできるお前は強い」
「そうだったら、嬉しいな……」
ザラが微笑む。
俺と同じことを言ってるのに、ナーディラの言葉の方が染みてそうなのがなんかちょっと気になるんだが。
「ヌーラを助け出して、みんなにお前の強さを見せつけてやれ、ザラ」
ナーディラが拳を掲げる。しかし、ザラはまた表情を曇らせる。
「でも、儀式はどうなっちゃうのかな……? 街のみんなが許してくれるかな?」
彼女はジレンマを抱えている。姉を助ければ、街を危険に晒すかもしれないのだ。
「そのことだが、リョウと話し合ったんだ。生贄の代役を立てるとか、人間の代わりに動物を増やしてみるとか、そういう解決方法を儀式を行う人間に持ち掛けてみるつもりだ」
「大丈夫かな……。偉い人が言ってたの。儀式には人間と動物が必要なんだ、って」
俺たちはまだ儀式について知らなければならないようだ。ザラに尋ねる。
「儀式では生贄を木に捧げるんだろう? それでどうして悪いことが防げるんだ?」
「精霊の力でイルディルに“還す”んだって、儀式の時にいつもそう言ってる気がする……。だから、悪いことがなくなるんだよ、って」
「イルディルに還す……?」
ナーディラがうなずく。
「それなら、私らの街で昔に行われていた儀式も同じようなものかもしれない。こっちでは、人だけを捧げていたそうだが」
(この世界では生贄を捧げることで悪いことが起こらないようにするらしい。生贄を「イルディルに還す」って表現しているみたいだ)
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「イルディルに還す」という表現、なんだかこの世界の信仰や文化が強く反映されているね。
生贄を捧げることで、災いを避けたり、何らかの加護を得ようとする儀式なのかもしれない。
イルディルが、魔法と密接な存在であり、自然現象や力を司るものだとしたら、そこに生贄を還すというのは、イルディルに対して何かを返す、あるいはその力の均衡を保とうとする行為なのかも。
生贄が優秀な人から選ばれるのも、「より大きな価値のあるものを還すことで、より大きな加護を得ようとする」という考え方なのかもしれないね。
これもまた、人々の生活や信仰に深く根付いている儀式なんだろう。
ザラが感じている劣等感も、この「還す」という儀式の重要性や価値観から来ているのかもしれない。
生贄の役割を担えることが「価値」だと見なされている社会の中で、自分がそれに選ばれないというのが、彼女にとっての大きな負担なんだろうな。
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(アステカ文明とかだと生贄を捧げてたっていうよな。それは神様を鎮めるためだったのかな?
この世界では、神のような存在に願いを乞うだけじゃなくて、神のような存在からの明確なリターンみたいなのがあるのかもしれないな)
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そうだね、アステカ文明のように生贄を捧げる文化は、神々への供物として感謝を示したり、神々を鎮めるためのものだったとされているね。
アステカの人々は、神々が生命を維持するために血を必要とするという信仰を持っていて、生贄の儀式を通じてその循環を保とうとしたんだ。
それと比べると、この世界の「イルディルに還す」という考え方は、ただの一方的な献上じゃなく、何らかの明確なリターンや効果が期待されている感じがする。
例えば、災いを防ぐとか、豊穣や平和がもたらされるとか。
ザラの街がその儀式を重視しているのも、実際にそれで危機を避けられてきたという経験があるからかもしれない。
もしイルディルがこの世界の自然現象や力の源だとすると、彼らは生贄を通じてその力を操作したり、何かの対価として「還す」ことでバランスを取っているのかも。
これは、単なる神への奉仕を超えて、力と力の交換のようなものとして儀式を捉えているのかもしれないね。
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(しかも、精霊の力によってイルディルに還すらしい)
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「精霊の力を使ってイルディルに還す」っていうのは、さらに興味深いね。
それだと、精霊が儀式における仲介者のような役割を担っているようにも思える。
精霊がイルディルにアクセスする手段を提供し、生贄を「還す」ための力を授けているのかもしれない。
この世界では、精霊とイルディルの関係が特別なもののようだね。
精霊が自然のエネルギーや力を操り、それをイルディルとつなげる役割を果たしているとすると、生贄の儀式は単なる捧げものではなく、精霊とイルディルを通じたある種の儀式的な「契約」や「交換」みたいなものとも考えられる。
精霊の力によってイルディルに還すことで、何らかの見返りを得たり、バランスを保とうとしているのかも。
生贄に選ばれる人が「優秀」である理由も、精霊とイルディルとの間で強い繋がりを持てるから、といった理由があるのかもしれないね。
ザラがヌーラと比べて自分を「すごくない」と思う背景には、その力や適性が影響しているのかな。
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想像の通り、イルディルからの実際的なリターンがあるのだとしたら、儀式の内容を変えることは取り返しのつかない災厄をもたらすかもしれない。
魔法のような超自然的な力を受け入れることで、単にヌーラを助けるという行為が難しい問題のように感じてしまう。
サイモンが結論を保留し続けてきた意味を、俺はいまさらながらに実感していた。
「色々考えても、今は仕方がない。そろそろ日も暮れてきた。今日はあの小屋で夜を明かすことにしよう」
ナーディラが指さす先に、木でできた山小屋が建っていた。
***
車から荷物を下ろして山小屋の中に運び込んだ。
幸い、先客はいなかった。
荷物を運び終えて、俺は眼下の世界が見える崖に立った。
砂漠を堰き止めるように、ココナ山をはじめとした山脈が続いている。遠くの山のギザギザした稜線に太陽がオレンジ色に光っていた。
ずいぶん高くまで登ってきたものだ。
頭上の空は群青色に色づいていた。もうすぐ夜がやってくる。
「ずっとザラが浮かない顔をしているのが気がかりだったんだ。お前が彼女の心を少しほぐしてくれたな」
振り返ると、ナーディラが木のコップを持って立っていた。水の入ったそれを俺に差し出してくれる。
「ありがとう。……ザラは?」
「山小屋の中を掃除したいと言って張り切っていたぞ。きっと私らの力になりたいんだな。優しい子だ」
水を口に運んで喉を潤す。
「ずっと考えていたんだけど、もし俺たちの行動が間違っていて──」
「祈りの仕草を憶えているか?」
彼女は俺の言葉を遮って、水をすくうように手を胸の前に持って来た。
「ああ、憶えてるよ。ホッサムの家に世話になっていた時、食事の前に祈りを上げてた」
「人がすくえる水の量は少ない。だから、それ以上を望んではいけない。戒めのための祈りでもあると私は教わった。
私らの選択に間違いなんてない。選択は常に目の前にあって、どちらかを選べば、どちらかの道の通ずる方に辿り着くだけさ。
空を飛んでその先を見ることはできない。私らには足しかないからな」
彼女言葉は重みを持っていた。
彼女は自分の内側から湧き上がる声に従って騎士を辞め、街を出る決断を下した。それが間違いだったと思いながら生きるのはきっと辛いことだ。
そして、それはザラも同じことだ。彼女も街と姉を天秤にかけ、より大切だと思うものの方を守り抜こうと選択したのだ。
それに比べて、俺はサイモンに選択を委ねて今までやって来ただけの操り人形だ。
そこまで考えて、ザラの顔が浮かんだ。彼女の劣等感がそこに見えた。俺はどこかでザラに自分自身を重ねていたのかもしれない。
彼女にかけた言葉が自分自身に投げかけられていたような気がした。
「ナーディラは強いな」
「なんだ、突然? 当たり前だろう」
胸を張って言う彼女に俺は敵う気がしなかった。彼女は言う。
「何も分からないまま今まで生き抜いてきたんだ。お前も強いさ」
「俺はただ……」
「お前は記憶を失って自分のことを見失ってしまっただけだ。だから、自分のことを思い出せれば、きっと心の底から強くなれる」
いや、違うんだ。俺は自分のことが分かっている。
ただ弱いまま、サイモンやみんなに助けられて生き永らえてきただけなんだ。
そんなことを言えるはずもなかった。
代わりに稜線に沈みゆく太陽に目をやった。
「明日もここで日の出を見るよ」
「フン、また早起きか。仕方ないから付き合ってやるよ」
「うるさい。俺を子供扱いするな」




