31:オブレト・ケカカ・モロ
テテマを出てしばらく走ると、周辺の景色は様変わりする。
それまでごつごつした岩が目立っていたのが、今度は砂が目立つ。本格的な砂漠だ。
「思ったほど暑くはないんだな」
御者台から幌のついた車の中を抜ける風が涼しいせいだろうか。ファマータを駆るナーディラが大きな声で答えてくれる。
「今は水の時期だからな! 火の時期はとても危険らしいぞ!」
「それも本で読んだのか?」
ちょっとだけからかってみたが、ナーディラはごく普通に声を返してきた。
「ああ! 街を出ることなんて頻繁にあることじゃない! だから、外の世界のことは教養として学ぶのが騎士としての務めでもあったんだ!」
そうか、この世界の人たちにとって、街を囲む防壁の外に出て遠くに行くことは珍しい出来事だったんだ。
「ナーディラおねえちゃんって、騎士なの?!」
俺の向かい側でザラが目を輝かせた。ナーディラがうなずく。
「まだ話していなかったか! 正確には、もう騎士ではないがな!」
「そうなんだ! どうりであんなに強いんだ……。すごいね!」
「強いことはすごいことではない! その強さで何をなしたかですごいかどうか決まる!」
ザラは首を振る。
「ナーディラおねえちゃんはすごいよ! だって、あたしを助けてくれたもん!」
「そうか……、そうだな」
ナーディラの手綱を握る手にグッと力が籠められるのを俺は見逃さなかった。
彼女に詳しく訊いたわけではない。だが、彼女は誰かを守りたくて、それでも守れなかった。そして、ホッサムのことも。
きっと彼女はずっと後悔を抱えてきた。だから、ザラの街の儀式に首を突っ込むことを了承したのだろう。
──こういう時に、気の利いた言葉をかけられないのが俺のダメなところだよな……。
独り落ち込んでいると、ファマータの車を通して何かズゥンという震動が伝わってきた。
「今、なんか揺れた?」
ザラが首を傾げた。
「さっきからずっと揺れてるよ、車に乗ってるから」
「リョウ、この砂漠に恐れをなしたのか!?」
ナーディラが御者台で笑う。こいつ、さっき俺がからかったの伝わってたのかよ。
だが、地面の遥か下から突き上げるような震動を確かに俺は感じていた。元の世界に居た時だって、地震は初期微動から感じるタイプだったんだ、俺は。
「ナーディラ、気をつけろ!」
「ハハハ、何を焦って──」
地鳴りがした。それと同時に、車が少しバウンドする。車を牽引するファマータがキュインキュインと鳴き出す。
「こいつらが鳴くなんて……!」
ザラが外を見上げて、悲鳴を上げた。
「なに、あれ……!」
彼女が指さす先、遠く離れた砂の海の中、巨大な何かが空へ向かって伸びていた。太陽の光を背に、百メートル以上はありそうな巨体が砂を巻き上げる。
身体を芯から震わせるような轟音。今度は車に乗っていても分かるほど地面が大きく揺れた。
それでもナーディラがファマータを全速力で駆り続けるのは──、
「こっちに向かってきてる……?!」
巨大なそれは砂のベールを纏ってこちらの方へその頭を見せていた。
おぞましい姿だった。
無数の節を持った殻が連なる蛇のような虫……。顔と呼べるのか分からないが、巨体の先頭には牙の乱立する洞窟のような穴が開いている。それが気味悪く蠢いているのだ。
きっと砂の中から飛び出したのだ。それが今も宙を舞って、グングンと高度を上げている。この世の終わりみたいな光景だった。
「オブレト・ケカカ・モロ!」
ナーディラが叫んだ。
「なんだ、それ!!」
「“砂漠の支配者”という意味だ! 本で読んだことがある! 砂の海を泳ぐ生物だと! だが、あんなに飛ぶなんて知らなかった! 二人とも、気をつけろ!」
砂漠の支配者の頭が砂の海に突き立つ。爆発するような音と波を打つ砂が俺たちの乗る車を襲う。
「きゃー!」
叫ぶザラをしっかりと掴んで車の床にへばりついた。積んでいた荷物が所狭しと弾む。車の後ろの幕は閉じているから、荷物が外にばら撒かれることはなかった。
「奴が砂に潜った! また上がってくるぞ!」
「上がって来たらどうなるんだよ?!」
「私らの進路に出てきたら粉々にされる!」
「じゃあ、停まったら?!」
「停まっても同じ! 奴は巨大なんだ! 駆け抜けるしかない!」
そう叫んで、ナーディラはさらにファマータを早く走らせた。ファマータも身の危険を感じているのか、必死に地面を蹴っている。
「あいつ、俺たちを狙ってるのか?!」
「知らん! 奴に訊け! だが、この数十年、魔物は増加の一途を辿り、凶暴性も増している! 何があっても驚かんぞ!」
「俺は初耳なんだが?!」
砂漠の中を突っ切る交易路脇には所々に岩が突き出ている。ナーディラは斜めにそびえる岩に鋭い視線を送った。
「……あの、ナーディラさん、あなたが何を考えてるのか分かっちゃった気がするんですけど……!」
ナーディラが振り返ってギラついた笑いを向けてきた。
「さすが、私の相棒だなっ!」
ファマータがさらに加速する。車は揺れるというよりも引きずられてガタガタと音を立てていた。
俺の腕の中でザラが震えている。
「何が起こるの……?!」
説明すべきか迷った。
ナーディラはファマータを全速力で走らせて、あの斜めにそびえる岩を使って跳躍しようと考えているのだ。
道から少し離れた砂の海が盛り上がる。砂漠の支配者の頭がまた飛び出そうとしているのだ。それでも、奴の長い巨体の後ろの方はまだ砂に潜っている途中だ。
あまりにもデカすぎる……!
「二人とも、舌を噛むなよ!」
ああ、まさかそんなドラマとかでしか聞かないセリフをこの身に浴びることになるとは……しかも異世界で。
ファマータが岩肌に爪を立て、勢いよく上り始めた。車が大きく傾く。ザラも俺も御者台の背中に掴まって耐えるしかなかった。荷物が車の後方にゴロゴロと転がっていく。
「もう少しで飛ぶぞ!」
ナーディラがそう言った時、地面が大きく揺れた。
岩が丸ごと動いているようだった。空に向かう助走路が角度を下げていく。
「マズい。今飛んでも奴を避けられない……!」
助走が足りないのだ。今のままでは砂漠の支配者の巻き添えを食らう。もう少しだけ道があれば……!
俺の脳裏にナーディラの声が蘇る。
──大丈夫、文言自体は定型部分を覚えられれば問題ない。お前にもできるさ──
俺は手を伸ばした。
ナーディラの背中越しの行く手に。
「メギア・ヘルマーヘス──」
「リョウ?!」
「──氷の道! カクネラーメ・イルディル! メギア・ゼルトナーラ・パモ・タガーテ!」
前方から吹き込んでくる風が一気に冷たくなる。
岩肌から空へ向かってグングンと白い氷の道が伸びていく。
「行けええーーー!!」
ファマータが氷の断崖を強く蹴った。空高く飛ぶ俺たちの車のすぐ後ろをすさまじい砂の奔流が怒涛のように駆け抜けていった。
重力が薄れていく。
俺たちは、落ちていた。
初めてジェットコースターに乗った時のことを思い出した。落ちる前の頂点から見た景色に圧倒され、次に恐怖がやって来る。抗うことのできない力によって、俺は終わるんだと戦慄した。
「ぎゃああああああ!!」
とんでもないスピードで、俺たちは柔らかい砂の山に突っ込んでいた。
逆さになった視界の中で、俺は唖然としていた。
「あれ、助かった……?」
***
砂漠の支配者が撒き散らした砂が俺たちを受け止めるクッションになったようだった。
そのおかげでファマータも車も無事だったのは奇跡というしかない。
「フン、私らを散々振り回しやがって、砂漠の支配者め」
当の本人──というか、砂漠の支配者は交易路を横切った勢いのまま砂の海を遠ざかっていた。震動も次第に弱まっていく。どうやら、俺たちに敵意があったわけじゃないらしい。
それにしても……。
(俺たちは今、砂漠の交易路を進んでる。砂の海の中から全長何百メートルもある蛇みたいな虫に出くわしたぞ。巻き込まれて死ぬところだったけど、間一髪でなんとかなったよ)
~・~・~
それは命がけの状況だったな……。
砂漠の交易路自体が過酷な場所なのに、そんな巨大な生物まで出現するとは。
全長何百メートルもあるような存在と対峙するなんて、想像を超える大変さだよ。
ナーディラやザラは大丈夫だったか?
~・~・~
(みんな無事だよ。あの化物はオブレト・ケカカ・モロというらしい。「砂漠の支配者」って意味だそうだ)
~・~・~
無事で何よりだよ。
そのオブレト・ケカカ・モロって名前からして、まさに砂漠の頂点に君臨する存在って感じがするな……。
まるで砂漠の中で自然そのものが牙をむいているような存在だ。
あんな化物が徘徊している砂漠を越えるのは、本当に命がけの冒険だな。
ナーディラやザラも、きっと緊張感がすごかっただろうな。
~・~・~
(でもさ、あんなデカい生物って存在できるのか? 昔聞いたことあるんだけど、生物は巨大化しすぎると自分の重さで潰れちゃうんじゃなかったっけ?)
~・~・~
そうだね、地球の科学では、巨大な生物が存在するには色々と物理的な制約があるんだ。
例えば、重力の影響で、骨や筋肉の強度がある限界を超えると、自分の体重を支えきれなくなってしまう。
さらに、酸素やエネルギーの供給も体が大きくなるほど難しくなる。
でも、この世界は地球と違う法則が働いているのかもしれない。
重力が地球より弱かったり、魔法が生物の構造を強化しているとか。
オブレト・ケカカ・モロのような存在が自然の一部として存在していることからすると、この世界独自のルールやエネルギー源があって、そういう生物が成立するのかもな。
~・~・~
──酸素やエネルギー……。
(あのさ、この世界でも金属は錆びるんだけど、金属が錆びる理由って酸化だけ?)
~・~・~
金属が錆びる主な理由は酸化だけど、それだけではないんだ。
他にもいくつかの要因が関わっている。
1. 酸化:
これは、金属が酸素と反応して酸化物を形成すること。
鉄が酸素と反応して鉄酸化物(いわゆる錆)になるのが典型的な例だ。
2. 水分:
水分は金属の酸化を加速させる。特に水が鉄と酸素の間に入ることで、電気化学的な反応が起こり、錆が進行する。
湿気の多い環境だと錆びやすい。
3. 塩分:
海水や塩分が多い環境では、金属がさらに錆びやすくなる。
塩分は電解質として働き、金属の表面で電気化学反応を促進するからだ。
4. 酸性環境:
酸性の雨や酸性の環境では、金属が速く腐食する。
酸が金属と反応して錆を引き起こすからだ。
この世界でも金属が錆びるなら、これらの要因が同様に関わっているのかもしれないね。
ただ、魔法や異なる物理法則が存在するなら、錆び方やその進行の仕方も違うかもしれないな。
~・~・~
(俺が気にしてたのは、俺の身体も酸素を取り込んでエネルギーにしてるのかなってことなんだよ。よく考えると、俺も他の人間もゴブリンも赤い血を流してたんだ)
~・~・~
その観察は鋭いね。
赤い血を持っているなら、この世界の生物も酸素を取り込んでエネルギーを作っている可能性が高そうだ。
地球の生物が赤い血を持つ理由は、血液中の「ヘモグロビン」が酸素と結びついて全身に運ぶからなんだ。
ヘモグロビンは鉄を含んでいて、それが酸素と結びつくと赤くなる。
もしこの世界でも同じく赤い血が流れているなら、似たような酸素運搬システムがあるかもしれないね。
ただ、この世界の物理や魔法がどれだけ地球の法則に近いかによるから、異なる仕組みで同じような見た目になっている可能性もある。
でも酸素が関与しているなら、酸化による錆びのような反応や、酸素を利用したエネルギー代謝が起こっていても不思議じゃないね。
~・~・~
俺の身体は地球に適応できるのかもしれないな。
それでも、砂漠の支配者のような巨大生物が存在しているのは、明らかに地球環境と異なる。
やはり、この世界を良く調べる必要があるな。
あれこれ考えていると、ザラの声がした。
「はあぁ……、よかったぁ……!」
ザラが砂の上にへたり込んでいる。
「よく頑張ったな」
ナーディラがザラの頭を撫でると、彼女は大きく首を振った。
「リョウおにいちゃんが助けてくれたんだよ!」
「え、俺?」
ナーディラが大きくうなずいた。
「ああ、お前、あの土壇場であんな魔法を放つとは……。さすが、私の見込んだ男だ」
「いや、あれは咄嗟のことで……」
交易路という意味の言葉、“トナオ・メラサノ”をウドゲの街を出る時に知っていたから、道という言葉が口を突いて出たのだ。
「お前は水の魔法と相性がいいのかもしれないな」
「相性なんてあるのか」
「自分の体質に合った魔法は扱いやすいんだ。私はそれが火なんだ」
「だから炎の魔法をよく使ってるのか」
ザラがフフッと笑う。
「なんだよ、ザラ?」
「ううん、反対の元素は強い結びつきがあるんだって教えてもらったことがあるから。ナーディラおねえちゃんとリョウおにいちゃんみたいだなって」
屈託のない笑顔に当てられて、ナーディラが顔を赤らめる。
「つまらないことを言ってないで、出発の準備を進めるぞ! 車だってきちんと走るか点検しなければならないからな!」
「はぁ~い」




