160:緩和
ベッドに横たわるジャザラのまわりに人々が集まっていた。
イスマル大公をはじめ、ルルーシュ家の面々、侍従たち、そして、執法院からダイナ執法官とザドク、ジャザラ治療班のイマンたち……みんなが強張った表情を浮かべている。
イスマル大公が暗く沈んだ顔をジャザラに向けていた。その肩が小さく震えている。
来たばかりの俺には息の詰まる空間だ。
「ジャ……ジャザラちゃん……」
イスマル大公がそっとジャザラの顔に手を伸ばす。
ジャザラの目がパッと開く。
「大公、わたくしは死んでおりませんわ……」
「あっ、そうか、つい……」
カビールがイスマル大公の頭を引っ叩く。
「『つい』じゃねーよ、親父! ノリでジャザラを殺すな!」
悪態をついてから、カビールはベッドの上のジャザラを抱きしめた。
「よかった……! 本当によかった!」
弱々しい手でカビールを抱きとめるジャザラが微笑む。
「落ち着いて……カビール」
「カビール様、ジャザラ様は目覚めたばかりでございます。まだしばらく安静に……」
カビールがギロッとイマンを睨みつける。
「イマン……、お前、よくやった!」
勢いで抱きしめると、イマンは魂が抜けたように固まってしまった。
ふと見ると、部屋の隅でアメナが大の字になって盛大に寝息を立てている。イルディル視で体力を使い果たしたのだろう。
ジャザラは開ききらない目で部屋の中の顔を見回した。
「みなさん、わたくしのためにご尽力くださり、心より感謝を述べます。ありがとう……」
イマンたち治療チームだけでなく、俺たちも揃って胸に手を当て深く頭を下げた。
ジャザラは相当疲弊していたのだろう、ベッドに横になり、目を閉じた。すぐに安らかな吐息が漏れ始める。
ようやく我に返ったらしいイマンが口を開く。
「ジャザラ様は体力が衰えてしまっている状態です。少なくとも、二日は経過観察を行いながら、徐々に体力を回復させていきましょう」
イスマル大公がダイナ執法官に目を向ける。
「ってことは、ダイナちゃん、ジャザラちゃんへの聞き取りは少なくとも彼女の回復を待ってからって感じだね」
──そうだ、ジャザラさんは「フォノア」で何者かと顔を合わせたはず……。
ナーディラがあくびを噛み殺す。普通なら白い目で見られそうなものだが、この時ばかりは疲れを見せる一同から口々に言葉が漏れた。
「ジャザラ様が無事だったことだし、今日はこの辺りで……」
***
翌朝には、貴族街の封鎖は解除され、心なしか街に活気が出たように感じる。
火の刻二の鐘が鳴って、俺はようやく目が覚めた。
目の前に俺の腕を枕にいたナーディラの顔があって、頬が緩んでしまう。寝ている時の彼女は無防備で無邪気な、年相応の女の子という感じがする。
彼女の瞼が開いて、漆黒の瞳が俺を映し出す。
「なんだ、もう起きたのか、リョウ……」
彼女の鼻の頭にキスをして起き上がる。
大きな窓から外に目をやる。城壁の向こうに、明るい日差しに照らされた広大な庭園が見える。
あれから俺たちは公宮内に泊まることを許された。イマンの功績が認められたこともあるのだろうが、単にイスマル大公がさっさと寝たかったらしく、俺たちも客間を自由に使ってよしとお達しが出たのだ。
部屋の壁には、豪奢な彫刻が施されたこの世界の整然としたカレンダーがかけられている。今日は一月四日だ。ジャザラの事件が起こってから四日が経つ。
ナーディラに手を握られる。振り返ると、まだ寝ぼけ眼の顔がそこにある。
「まだ寝ようよ」
相変わらず起き抜けには子供っぽくなる。彼女のくすんだベージュの柔らかな髪を流れに沿って撫でてやると、気持ちよさそうに目をつぶる。動物だった頃に舌で毛づくろいされた記憶が息づいていると何かで見た気がするが、本当なんだろうか?
(サイモン、頭を撫でられると気持ち良いのは動物だった時代に舌で毛づくろいされていた記憶があるからって説は本当なの?)
~・~・~
その説はあくまで仮説のひとつだけど、完全に否定はできない。
頭を撫でられると気持ちいいのは、「親密なスキンシップによる安心感」 や 「触覚の快感」 が関係していると考えられている。
動物だった頃の記憶というより、哺乳類全般に共通する「親が子をなめたり、毛づくろいすることで愛情や安心を伝える習性」に由来している可能性が高い。
人間の場合、頭や髪を撫でられるとオキシトシン(愛情ホルモン)が分泌されてリラックスしやすくなる。
だから「動物の毛づくろいの記憶」と直結しているとは言い切れないけど、根本的な本能としては似たようなものかもしれないね。
~・~・~
ナーディラが目を閉じたまま笑いを漏らす。
「サイモンと話してるだろ」
「よく分かったね。えらいえらい」
頭をポンポンしてやると、ナーディラの頬が緩む。
「お前のことはよく分かるぞ」
「そういえば、光る石は持ってないのか?」
「イマンの家に荷物を置いてあるままだからな。だけど、ムエラ・ココナとかこのパスティアを見て、私の持っていたものがかなり質の低い石ころ同然のものだって分かったから、恥ずかしくて持っていられないかもな」
「お前にも恥ずかしいと思う気持ちがあるのか」
ナーディラの鋭い上目遣いが俺の顎を捉える。
「ふざけるなよ」
「ごめんなさい」
「なあ、ジャザラは無事だったんだ。事件を追う意味ってあるのか?」
急に事件に引き戻されて驚いてしまった。正義を愛するナーディラがそんなことを言うなんて、心身ともに疲れてしまったのかもしれない。
だが、ナーディラはすぐに首を振った。
「いや、ラナが犯人だって疑われたままなんだ。その疑いを解消してやらないとな」
ナーディラの隣に腰かけると、彼女の体重が肩にかかってきた。甘い香りがする。彼女の手を取って優しく握ると、彼女の方からもグッと握り返される。
「まだ元の世界に帰りたい?」
いつになく甘い彼女の声色に、何も言えなくなってしまう。だけど、素直な気持ちだけは伝えようと思った。
「今はお前と居たいな」
「ふふ、ちょっと変わったな、リョウ」
ナーディラの身体が離れる。彼女の横顔は真剣だ。
「あの空の天布の向こうにお前の住む世界があるんだよな?」
「地球からこの世界に人がやって来たのなら、俺たちは同類ってことになるけどな。で、この考えは今のところだいたいにおいて正しい」
これまでに判明したことについて話した。特に、リンパ節のことはナーディラも難しい顔をしながらも興味深そうに聞き入っていた。
「ルルーシュ年代記では、初代イスマルは方舟に乗ってやって来た。それが672年前。地球には魔法を使える人はいないから、ルルーシュ家の人たちというか、上位貴族は現在の地球人とほとんど同じ構造をしてるはず」
「じゃあ、ドルメダはそれが許せないんだな。魔法が使えないってのを嫌ってるんだ、きっと」
「正反対の思想を持った連中から敵視されるって、相当やばいだろ、パスティアは」
「やばいところはもう充分と言っていいくらい見てきただろ。この国は異常だ。ただ、豊かってだけだ」
なんだかその言葉が妙に胸に刺さってしまった。こうして考えると、地球もただ豊かなだけなのかもしれないと思ってしまう。それでも捨てたものじゃないと感じてしまうのは、俺が感傷に浸っているせいなのか?
「イマンさんはきっともう大丈夫だろう」
「どうだか。イマン以外の子をなさない者たちに対しても同じかどうか分からないぞ。むしろ、この数日だけでわだかまりが解けるなんて、そんな都合のいいはずがない。もともとジャザラのまわりにいた治療班の奴らの顔見たか?」
「ああ、そっか。お前もあれを見たんだな。俺もあれは新しい亀裂のもとになると思ったよ。……そうやって歴史を繰り返していくんだろうな」
「フォノアが巡るからな」
ナーディラの言葉は皮肉に違いない。
「俺は中央書庫で地球への手掛かりを探したかったんだけど、イスマル大公なら簡単に許可くれそうなんだよな……」
「あのおっさん、私は好きだぞ! なんか憎めない感じがする」
「そんなこと言うなんて珍しいね」
ナーディラがイタズラっぽく笑う。
「嫉妬してるのか?」
彼女の顔をじっと見つめる。
「お、おい……、冗談だぞ?」
「お前ってやっぱりかわいいな」
急に顔を真っ赤にして顔を背けたナーディラはベッドサイドのテーブルに置かれた水差しを慌てて持ち上げようとして盛大に倒してしまった。
「なにしてんだよ……」
「う、うるっさいな! お前が変なこと言うからだろ!」
「何か拭くものもらってくるよ」
立ち上がって客間のドアを開くと、そこにアメナとライラがしゃがみ込んでいた。
「あっ……」
二人の凍りついた視線をぶつかる。こいつら、ずっと部屋の中を探ってやがったのか。
「なにしてるんだ?」
アメナが慌てて立ち上がる。
「事件の調査のことで話があるからという話が出ておったんじゃ……」
「で、なんでライラさんまでいるんですか?」
「我はリョウ殿とナーディラ殿のまぐわり──様子が気になったものでな」
「キリッとした顔で言うことじゃないでしょ」
ナーディラが笑い声を上げる。
「リョウ、私らの愛の営みをこいつらに見せつけてやろう!」
なぜこいつは乗り気なんだ。
「やめてくれ、ナーディラ……!」
廊下を遠くからパタパタと駆け寄ってくる足音がする。見ると、ヌーラが困った顔をしている。
「アメナさんにライラさん、どれだけ時間をかけてるんですか! もうザミールさんがいらっしゃいましたよ!」
ライラが冷静に顎に手をやる。
「ふむ、我らが盗み聞きしている間に、それほどの時間が経過したというのか」
ずっこけそうになる。
「やっぱり盗み聞きしてたんじゃないですか」




