155:パスティアを統べる者
夜空に浮かぶ丸々と肥った月を背に、白亜の公宮がそびえる。
庭園を突っ切る公宮への道を、ダイナ執法官を乗せたファマータの車を先頭に向かっていく。
土の刻を告げる鐘の音が遠くから響き渡る。
公宮の正門が開いている。照明が設置され明るく照らされたその周囲には多くの騎士が並び、物々しい雰囲気だ。
車に乗ったまま門を通り、公宮の前庭に入る。
貴族街の路面に敷き詰められていたものよりも精緻な石畳の上は車で走ってもあまり振動を感じない。それでも、高い城壁に囲まれたこの場所は緊張感が否応なしに高まる。
間近で見る公宮の白亜の外壁は滑らかで曲線的で、どこか生物めいている。それが照明で明かりで夜の闇に浮かび上がっている。そのさまはどこか艶めかしい。
豪奢な扉の前の車寄せに何台もの車が停まり、公宮内で行われる確認調査に臨むメンバーたちが続々と降り立つ。
執法院からはダイナ執法官、ザドク執法院調査官、その他に二名の調査官、騎士団側としてレイス、イマン、俺が選ばれた。
どうやら公宮内への立ち入りは必要最低限の人数が認められたようで、ナーディラはあからさまに不満を漏らしていたが、我慢してもらうことにした。
それにしても、このメンバーに混じって俺って……なんだか場違いな感じがする。
制服を持っていなかった俺はイマンから研究所の純白の制服を借り、なんとか動向を許されたのだ。
大勢の騎士たちに見守られ、扉の中から公宮内に進む。
高く広い空間が俺たちを出迎えた。がらんどうの空間だ。
──なんのための空間だよ?
そう思いながら、人の流れに乗って右手に伸びる広い通路に向かう。長い通路の先に大広間がある。
長椅子やテーブルなどが置かれた講堂のような雰囲気のある大広間だ。
俺たちはザドク側とレイス側に分かれて長椅子に腰かけた。
ダイナ執法官が隣に立つのは、黒服に身を包んだ老人だ。白髪が眩しい、シャープな見た目の男性で、年齢以上に滲み出る力強さを感じる。それほどまでに凛とした佇まいなのだ。
「あれは侍従長のアジーム、イスマル大公の侍従さ」
アジームが俺たちを見渡して厳かに口を開いた。
「これより、イスマル大公、ハラ大公妃ご臨席のもと、執法判断の調査およびホロヴィッツ・ジャザラの治療に関する諮問会を行います。全員、起立してください」
空気が張り詰める中、大広間の扉が開く。黒服にシルバーの長髪をなびかせる老齢の女性が一組の男女を先導して室内に進み入ってきた。
深い藍色のローブに身を包んだ長身の男──イスマル大公は浅黒い肌が精悍な人物だった。明るいヘーゼル色の瞳はカビールと同じだが、より壮絶な光をまとっているように感じる。歩く時に手にした金色の杖が床を叩く音が空気を張り詰めさせる。
隣り合う深紫のドレス姿はハラ大公妃だ。物憂げな表情が儚げな人で、大きな目とスッと通った鼻筋、細い顎に長い首がシルエットにも美しい。アップにしてまとめた髪からは髪飾りが下がって、さらさらと微かな音を漂わせる。
大広間の奥に置かれた大きなテーブルの向こうにイスマル大公とハラ大公妃が腰を下ろすと、ダイナ執法官が胸に手を当てて頭を下げた。
「では、これより、執法判断の──」
「ああ、例のアレね」
イスマル大公が低く響き渡る声で快活に笑いを上げた。
「アレは厳しく見るようにって言われてたからちゃんと確認してるぞ。わざわざ研究所まで行ったんだからな。それでもまだおじさんは疑われてんのかい?」
──ダンディなのにフランクなおじさんだ……。
イスマル大公に目を向けられて、ダイナ執法官だけでなく、ザドクも慌てふためいて首を振った。
「と、とんでもないことでございます……!」
イスマル大公は金の杖で床を突く。コツン、という音が鳴り響いた。
「じゃあ、それで解決だな!」
「は、はあ……、そうでございますね……」
ダイナ執法官が苦笑する。
死鉄鉱の管理帳簿の問題が一瞬で終わってしまった……。
ザドクを見ると、特に異議を発するでもなく悔しそうに奥歯を噛んでいる。
「え? こんなんでいいの……?」
思わず小声でツッコミを入れてしまったが、次の瞬間にイスマル大公の目つきが変わるのが分かって口を噤んだ。
「それよりも気になるのは、ジャザラちゃんのことなんだよ。なんでも、治療の手立てがあるって話じゃないか」
俺の隣でイマンが立ち上がる。
「僭越ながら、このイマンがご説明申し上げます」
「おお、イマンか。元気そうだな」
イマンは目を丸くして立ち尽くした。
「わ、わたくしのことをご存じなのですか……?」
「良くも悪くも目立ってるからなぁ、君は」
「お、お騒がせしてしまい、申し訳ございません……」
イスマル大公が歯を見せて笑う。
「デイナトス狂病の件で噂は聞いてるぞ」
イスマル大公が笑顔から真剣な表情に切り替えると、同時に空気もガラリと変わる。
「デイナトス狂病の治療とジャザラちゃんの件が繋がってるって感じ?」
イマンがピンと背筋を正す。
「そのご慧眼、おみそれいたしました」
イマンは精霊駆動治療法についての基本理論について説明を始めた。
ひと通り説明を聞いたイスマル大公は、率直な質問を一発目にぶつけてきた。
「それって、失敗する確率の方が高いよな?」
イマンは一瞬だけ逡巡したが、すぐに答える。
「それは……おっしゃる通りです」
イスマル大公は隣のハラ大公妃と言葉を交わす。その隙を狙って、ザドクが声を上げる。
「このような者が主張する危険性のある手法をホロヴィッツ・ジャザラ様に適用すべきではありません! この者はパスティアに迫害されたことをこの場で──」
「でもなぁ、他にジャザラちゃんを救う手立てがないんよ」
イスマル大公の一言でザドクは言葉を詰まらせてしまう。
土の刻二の鐘が遠くで聞こえる。
つまり、あと一刻でジャザラの事件が発生してから丸二日が経過しようとしている。
もうジャザラには時間が残されていない……。
思わず手を挙げていた。
「お、新人の意見も聞こうじゃないか」
イスマル大公に促されて、どう説明すればいいのか分からないまま立ち上がった。
「死鉄鉱の毒がジャザラさんを蝕んでもう二日です。ジャザラさんの身体はもう限界に近いはず。ここで話し合いをするよりも、わずかにでも希望があるのなら、それにすがるべきじゃないでしょうか? 最悪の事態を迎えた後にイマンさんの治療法を試さなかったことを悔やんでもただ空しいだけです」
ハラ大公妃が俺の顔を見て、ハッと息を飲んだ気がした。
彼女は隣のイスマル大公に耳打ちをした。
ハラ大公妃の言葉にふむふむとうなずいていたイスマル大公は聞き終えると、パンと手を叩いて俺たちの方をビシッと指さした。
「ジャザラちゃん治療しちゃおう」
「いや、そこを考え直して──……えっ?」
イスマル大公がコクリとうなずいている。
「ジャザラちゃん治そう」
「そんな軽いノリで決めちゃっていいんですか……?」
「その方がいいってハラちゃんが言うからさ」
ヘラヘラした顔で隣のハラ大公妃を両手で指し示す。
さすがのザドクも立ち上がってツッコミ──もとい、異議を唱えた。
「お待ちください! 結論を出されるのは熟慮を重ねて……」
「いや、ハラちゃんがさぁ」
一国の主がパートナーの肩に手を置いて情に訴えかけようとしている。なんだこのおじさんは?
それを見かねたのか、ハラ大公妃が咳払いをする。
「わたくし、ただ単にもう夜も遅いから早めに切り上げたくてこう申しているわけではありませんわ」
──よく分からないけど、夜遅いと思ってそう。
「ジャザラさんはずっと苦しんでいますのよ。先日、腕を切り落としたドルメダの手先の者のように。身体が冷たいのに汗を流して、死の淵を彷徨っているのです」
途中、とてつもなく物騒なエピソードが挟まってたけど大丈夫か、この人も?
ハラ大公妃はさめざめと涙を流し始める。
「そんなジャザラさんのことを思うと、是が非でも苦痛から救い出したい……そう願わずにはいられないのです」
「なんというお慈悲……!」
シルバーの長髪をなびかせた老齢の女性がまるで示し合わせたかのように声を上げる。
「彼女がハラ大公妃の侍従、ティフェレトだ」
イマンが小声で解説してくれる。大公まわりには変な奴しかいなのかもしれない……。
イスマル大公が立ち上がる。
「ってことで、ジャザラちゃんの治療よろしく。そこの新人の話だと、時間がないんでしょ? じゃあ、もう早速やっちゃってもらおうか」
「えっ?!」
あまりの展開の早さにイマンが狼狽えている。
「い、イスマル大公、しばし準備の時間を頂けないでしょうか?」
イスマル大公の鋭い眼光。
「土の刻三までに整えよ」
蛇に睨まれた蛙のようにイマンが背筋をピンと伸ばす。
「かしこまりました」
***
諮問会が終わって、ザドクたちの異論が差し挟まれる余地もなく、ジャザラ治療班が組織された。
魔法・精霊術研究所からは研究者一団が公宮に続々と集結。それらをまとめるのがイマンとなった。その中には、研究所で待機していたナーディラたちも含まれる。
さらに、イスマル大公の鶴の一声で執法院に拘束されていたアルミラが釈放。イマンのチームに加わった。これは実質的にザドクの主張が無力されたことを示していた。
ジャザラは公宮内の客室に複数の公宮お抱えの魔法使いや精霊術師、鉱物研究者などと共に厳重な警備のもと隔離されていた。
イスマル大公とハラ大公妃を先頭に客室に向かうと、入口を警備する騎士がドアを叩いた。
レイスの話では、この客室を警備しているのも特務騎士だという。ジャザラを守るという強い意志が感じられる。
中からドアが開き、げっそりとした様子のカビールが現れた。髪も乱れていて、白いシャツの襟ぐりは汚れている。……残業続きで生活がままならない社員みたいだ。
「おい、息子よ、まともに寝てないんじゃないか? 寝ろと言っただろ」
イスマル大公が父親の顔をする。
「うるせえな。ジャザラがあんな目に遭ってんだ。オレだけ楽にしてられっかよ」
ハラ大公妃は心配そうに声を上げる。
「だからといって、一週間くらい牢獄に閉じ込めたドルメダみたいな姿になってもなににもならないのよ」
──この人、いちいち物騒なんだよな……。
「ん? なんだよ、この大所帯は?」
カビールの怪訝そうな目が俺たちを舐め回すようにする。
イスマル大公がおざっぱな説明をした後、場が荒れそうになったのでイマンが丁寧にこれまでの経緯を伝えた。
カビールは隈が目立つ落ち窪んだ相貌をイマンへと向ける。
「本当にうまくいくんだろうな? うちの治療班だって、事件から何もできてないんだぞ」
「それは……」
イマンは口ごもる。公宮お抱えの治療班とやらが古い考えで死鉄鉱の毒に対処しようとしている以上、何もできないのは当然だが、そのことを言えずにいるのだろう。
すると、イスマル大公が咳払いをする。
「少なくとも、イマンは治療のための道筋を提示したんだよ。それに引き換え、うちの連中は、あたふたしてばかりだったじゃないか」
辛辣な指摘に、室内の治療班はサッと顔を青ざめさせた。
「だけどよ、ここでもし失敗したら……」
カビールは弱々しく声を落とした。
初めて会った時とはまるで別人だ。今では威風堂々とした雰囲気も掻き消え、背中を丸めている。それほどまでにジャザラを大切に思っていたのだろう。
「カビールが犯人って線は消えたかもな」
突然ナーディラに耳打ちされて、びっくりしてしまった。カビール犯人説は俺の心の中に留めておいたはずだ。
「なんでそのことを?」
「お前の考えることくらい分かる。もしジャザラが別の男と会っていたのなら、それを知ったカビールが逆上した可能性だってある。カビールは感情的になったら暴走するって話だったからな」
「ああ、だけど、あの様子を見ると、とても犯人とは思えないよな」
「それに、ずっとそばにいたのなら、容態が悪化したように見せかけてトドメを刺すことだってできたはずだ。公宮お抱えの奴らは無能ぞろいみたいだからな」
ナーディラの言う通りだ。
(サイモン、カビールは犯人候補から外せるかもしれない。
あれから公宮に入るチャンスを得て、イマンの治療を試す機会が与えられた。で、ジャザラが隔離されている部屋に来たんだけど、どうやらカビールはずっとジャザラのそばにいたみたいだ。
もし彼が犯人なら、死鉄鉱の毒の影響が悪化したと見せかけてジャザラを殺すこともできたはずだからな)
~・~・~
なるほどな。
カビールが本当にずっとジャザラのそばにいたなら、少なくとも「ジャザラを殺したい」という動機は薄そうだ。
それに、もしカビールが死鉄鉱の盗難に関与していたなら、ジャザラの事件でわざわざ毒を使う必要もない。盗んだ死鉄鉱を直接利用してもっと確実に殺せたはずだからな。
となると、カビールは犯人の可能性が低いと考えていいかもしれない。
ただし、完全に除外するにはまだ慎重になったほうがいい。たとえば、
・カビールがジャザラのそばにいたとされる時間帯に矛盾はないか?
・ジャザラを殺すことにメリットがないか?(たとえば、別の誰かを庇うためとか)
こういう点も整理しつつ、他の容疑者をより重点的に調べたほうがいいな。
~・~・~
「全ての責任はこの俺が取る。最悪の事態になった時は、俺を恨めばいいさ。そんなことより、時間がない。ってことで、君らは全員クビね。今すぐここを出てって頂戴ね~」
突然の解雇通告で旧治療班は残らず公宮から追い出されてしまった。
追い出させたのは迷い人のイマンが率いるチーム……また新たな火種になりそうだ。
このイスマルとかいうおじさん、ちゃんと考えてるのか?




