138:無限後退
この世界では、天は空に覆い被さる布だと考えられている。
夜空に瞬く星は、その布に散りばめられたスパンコールのようなものだ。
空を覆う布を天布という。
天布が動くことによって、空も動く。つまり、天布は時の流れを司っている。
ラナが魔法・精霊術研究所で取り組んでいたのは、その天布を思いのままに動かすことによって過去を書き換えるという天布逆転魔法だった。
今回のジャザラ暗殺未遂事件でラナはそれを使用したのだと、ザドクは主張したのだ。
「天布逆転魔法、お聞きしたことはございます」
ダイナ執法官の目の色が変わった。
ラナは椅子に腰を下ろしたままじっとしている。
「ザドク調査官はフェガタト・ラナがその天布逆転魔法を利用して、誰にも見られないように自宅へ戻ったというのですか?」
「厳密に言えば、“誰にも目撃されなかった過去を選んだ”と言うべきでしょう」
なぜかザドクの仮説が受け入れられようとしている。俺はすかさず叫んだ。
「ちょっと待ってください! 天布逆転魔法のことは俺も聞いたことがあります。ですが、実現には程遠いと……」
「あなたは魔法の専門家なのですか?」
ダイナ執法官に問われて、言葉が詰まってしまった。俺はこの世界に来て数か月の新参者だ。魔法について語れるレベルにない。
困っていると、ナーディラが助け舟を出してくれる。
「天布逆転魔法は実現が難しいと聞いたぞ。使うイルディルの量を確保するのが不可能に近いとかで」
「それはあなたの見解ですか?」
ダイナ執法官の厳しい眼差し。
「違う! あれは、確かアルミラが……」
ナーディラがそこまで言うと、ザドクが白い歯を剥き出しにした。
「アルミラ……? ああ、あのクトリャマと内通していたという女か」
わざとらしく、そして芝居がかった動きで歩み出て、ザドクはダイナ執法官と向き合う。
「ダイナ執法官、話に出てきたアルミラというのは、魔法・精霊術研究所の研究員です。クトリャマと繋がっていた疑いで我々のもとで拘束しております」
「そのことと天布逆転魔法の関連性はなんですか?」
ザドクは胸を張って答える。彼がもともと想定していた流れに乗ってしまっている……。
「今、そこの女が説明したように、アルミラは天布逆転魔法が実現できないと主張しておりました。なにやら、ゴチャゴチャと理屈を並べ立てておりましたが……」
「しっかりとした理屈があるぞ」
ナーディラが口を挟むが、ダイナ執法官が軽く手を挙げて制されてしまう。ウナが荒れて、ザドクが先を続ける。
「アルミラはクトリャマと通じています。フェガタト・ラナはアルミラが所属する魔法・精霊術研究所の研究部門の長です。彼女もアルミラと同じようにクトリャマと繋がっていてもおかしくはない。現に、研究所内で孤立していたアルミラを彼女は野放しにし続けています」
「それこそ言いがかりだ」
レイスが訴えるが、ザドクは人差し指を振って彼に迫る。
「人の主張は最後まで聴くものだろう、レイス統括騎士。それとも、ワタシの主張を潰そうと考えているのか?」
「レイス統括騎士、今はザドク調査官の話を聞きましょう」
ダイナ執法官にも諭されて、レイスは言葉を引っ込めるしかなかった。意地の悪いザドクの笑みが脳裏に焼きつくようだ。
「アルミラが天布逆転魔法を実現不可能だと主張する理由はただ一つ……実現できると分かれば、過去を書き替えたことが露見してしまうからです。
彼女が天布逆転魔法が実現不可能だと主張する以前より、ジャザラ様暗殺にくだんの魔法が使われる予定だったのです。
つまりフェガタト・ラナはクトリャマの手先となってパスティアを転覆させるために今回の事件を引き起こしたのです!」
まくし立てるように言い放ったザドクの仮説はダイナ執法官にかなりの衝撃を与えたようだった。
「まさか、そんなことが……」
彼女のラナを見つめる視線に恐れが混じり始める。
──まずい……。
(ザドクが反論をしてきた。さっきのポイントとは違う方向からだ。
天布逆転魔法のことは憶えてるか? 過去を書き換えるという魔法だ。ラナがその魔法の研究をしていた。
ザドクは、ラナがその魔法を使って事件当夜、街の誰にも見られないように自宅に戻ったという過去に書き換えたんだと主張してきたんだ。
天布逆転魔法については、アルミラがその実現が難しいことを説明してくれていたけど、アルミラは今、クトリャマと内通していることを疑われている。
ザドクの主張は、ラナもアルミラと同じくクトリャマと繋がっていて、アルミラが天布逆転魔法を実現不可能と説明しているのは、実際にそれが使われてアリバイ作りに利用されることを見越していたからだという内容だ。
つまり、初めから天布逆転魔法を使って今回の事件を引き起こす計画だったと言いたいんだ)
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ザドクの主張はかなり強引だな。
ポイントを整理すると、
1. 天布逆転魔法が本当に使えたのか?
→ 実現が極めて困難であることはアルミラが説明していた。
これはアルミラ個人の意見ではなく、研究者としての見解であり、クトリャマとの繋がりとは無関係に議論されるべき。
2. そもそも天布逆転魔法が成立した場合、証拠は?
→ 過去を書き換えたなら、書き換えられたという痕跡が何かしら残るはずだ。
しかし、ザドクはそれを提示していない。
3. ラナがクトリャマと繋がっている証拠は?
→ アルミラが疑われているからラナも、というのは論理が飛躍している。
個別の証拠がない限り、ラナまで同じ枠に入れるのは無理がある。
結論として、ザドクの主張は「仮定の上に仮定を積み上げている」状態で、客観的な証拠がない。
「天布逆転魔法を本当に使った証拠を示せ」と突けば、ザドクの論理は崩せるはずだ。
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「それはおかしい」
レイスが一歩前に出て強く声を発した。
「なにか反論がありますか?」
ダイナ執法官が尋ねる。
「無論です。ザドク調査官の主張には証拠がありません。事件当夜、貴族街ではそのような大規模なイルディル変位は観測されていません。ザドク調査官は己の妄想を足掛かりに論を展開しているにすぎません」
ザドクが首を振ってレイスの言葉を一蹴する。
「天布逆転魔法を使ったという過去自体を天布逆転魔法で書き換えたとしたら?」
「めちゃくちゃな暴論じゃないか!」
ナーディラの声が飛ぶが、ダイナ執法官は難しい顔をしている。
「ザドク調査官、天布逆転魔法を使えば、天布逆転魔法を使ったという過去自体もなかったことに書き換えられるというのですか?」
「過去を書き換えるという前代未聞の魔法です。不可能を可能にするでしょう」
(ザドクが最悪の論理を展開してきた。
天布逆転魔法を使えば、天布逆転魔法を使ったにもかかわらず、「天布逆転魔法を使わなかった過去」に書き換えられると言い出した。つまり、天布逆転魔法を使ったという証拠は必要ないと言い出したんだ。
これじゃ、肯定も否定もできない……)
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ザドクの論理は完全に循環論法だな。「証拠がないことが証拠」という詭弁だ。
ここで反論すべきは 「立証責任は誰にあるか」 という点だ。
法の原則として、 「有罪を証明する責任は告発者にある」。
ザドクの言い分では、「天布逆転魔法を使った証拠はないが、魔法の特性上、証拠がないことこそが魔法を使った証拠だ」と言っているが、これは 「悪魔の証明」 になってしまう。
「ラナが魔法を使っていないことを証明しろ」と言われても、それは不可能に等しい。
逆に、「ラナが魔法を使ったことを証明しろ」と迫れば、ザドクは何も提示できない。
『証拠がないなら有罪にできない』
これがダイナ執法官の判断基準である以上、ザドクの主張は論理として成り立たない。
だから、「証拠なしで有罪にできるなら、誰でも犯罪者にできる」 という危険性を指摘し、ダイナ執法官に冷静な判断を促せば、ザドクの論理を崩せるはずだ。
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サイモンのアドバイスをそのままぶつけてみることにする。
「ダイナ執法官、天布逆転魔法を使った証拠を提出できないのであれば、それは立証できないもの……採用すべき意見だとは思えません」
「天布逆転魔法が存在するのならば、それはこの世界の構造を覆してしまうものです。そこには、従来の論理は通用しないと考えます。
もしフェガタト・ラナが天布逆転魔法を利用して事件を引き起こしたのであれば、彼女はその存在をひた隠しにするでしょう。それこそ、天布逆転魔法を使って」
──ダメだ、こりゃ……。
(ダイナ執法官が、天布逆転魔法は世界を覆す存在だから従来の考えを適用できないと言い始めた。
その上で、天布逆転魔法を事件に利用したのなら、その存在を隠蔽するために天布逆転魔法を使って天布逆転魔法が存在した過去をなかったことに書き換えるだろうと言ったんだ。
変な理解が進みすぎてやばい……)
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これはまずいな。
ダイナ執法官が「天布逆転魔法が存在した過去を消すために、さらに天布逆転魔法を使った」と考えているなら、ザドクの論理に引きずられている可能性が高い。
つまり、「証拠がないことが証拠になる」 という思考に陥っている。
ここで切り込むべきポイントは 「無限後退の論理」 だ。
「天布逆転魔法を使った証拠がない」
→「魔法で過去を書き換えたからだ」
→「その書き換えた証拠もない」
→「さらに天布逆転魔法を使って隠したからだ」
この理屈を認めると、無限に「書き換えたから証拠がない」という話になり、何も証明できなくなる。
だから、「この考えを認めると、何でも天布逆転魔法のせいにできる」という点を指摘するべきだ。
「この論理を認めるなら、過去のすべての事件も天布逆転魔法で改ざんされた可能性があることになり、何の証拠も信用できなくなる」
「この理屈がまかり通るなら、ダイナ執法官自身も本当はこの場で判断を下していないのに、天布逆転魔法で『判断を下した過去』を書き換えられている可能性もある」
これを冷静に指摘すれば、ダイナ執法官の思考を現実に引き戻せるかもしれない。
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俺は急いでダイナ執法官に視線を投げた。
「ダイナ執法官、天布逆転魔法を使って天布逆転魔法の存在を抹消するという考えを認めると、何でも天布逆転魔法のせいにできてしまいます」
「ですが、天布逆転魔法の存在はそれほどまでに大きな──」
「ダイナ執法官自身も本当はこの場で判断を下していないのに、天布逆転魔法で『判断を下した過去』を書き換えられているのかもしれませんよ」
サイモンの受け売りを口にした途端、ダイナ執法官は目を見開いて考え込んでしまった。
「ダイナ執法官、よく考えて下さい。ザドク調査官は天布逆転魔法を“なんでもできる万能の装置”として考えています。
魔法がイルディルを消費し、この世界の均衡は崩壊に向かっています。そのことは、イスマル大公も懸念されていると聞きました。
魔法は万能なものではないんです。ダイナ執法官、今一度考え直してください」
柄にもなく前のめりになって訴えかけてしまった。
眼鏡の奥のダイナ執法官の目に光が点った気がした。
「リョウさんの主張にも一理ありますね」
「ダイナ執法官!」
ザドクの声が室内に響く。ダイナ執法官が静かに言葉を紡いでいく。
「私たち執法官はパスティア法の守護者として執法院に坐しています。その信条はこのパスティアの骨子となって自立する助けを担うことにあります。リョウさんの言葉はその初心を思い出させてくれました。
私は──、私たちは、長い歳月受け継がれ続けられてきたパスティア法を簡単に手放してはならないのです」
ダイナ執法官はそう言って、ほぅ、と深い息をついた。
「天布逆転魔法の存在の有無について、本執法判断では取り扱わないこととします。ザドク調査官は天布逆転魔法を証明に使用しないよう、お願い致します」
ザドクが悔しそうに歯軋りする。
さあ、どうする、と思っていると、部屋に赤い制服を着た男が入ってきた。執法院調査官だ。
男はザドクに何冊もの冊子を手渡す。
「フェガタト・ラナの自宅から見つかりました。彼女の手記です」
その言葉を聞いた途端、ラナが椅子を蹴倒して立ち上がった。
「それはダメ!」
ザドクの目が光る。やって来た調査官が静かに告げた。
「これこそがフェガタト・ラナの真の動機だと思われます」




