126:あの夜へ・痛哭
土の刻二にもなると、街は静けさの中に没していく。
手紙の山に向き合っていたライラは窓の外から差し込む月の光がどんどん薄れていくのを感じていた。
パスティア・タファンはパスティア山に築かれた巨大な街だ。そして、貴族街はその頂上に位置している。イルディルの効果によって多少和らぐものの、山頂の天気は比較的変わりやすい。
ライラは立ち上がって、邸内の窓が閉まっているか確認に向かう。
一階と二階、三階を一通り見て回り、四階への階段の下でライラはじっと考え込む。
──窓が心配だが、ジャザラ様はそっとしてほしいと言っていたな。
そう思って、ライラは階下に戻って行く。
後にこの選択を悔いることになるが、彼女はそんなことを露ほども知らなかった。
***
土の刻三の鐘が鳴る少し前には、雨が窓を叩いていた。
上位貴族からの長文の手紙を机の上に広げ、ライラは長剣を素振りしながらその文面に目を通していた。
侍従がこうして主人宛ての手紙を先に検閲するのは、主人の危険を回避するためだ。
ルルーシュ家の継承権争いの相手を暗殺のために呼び出した手紙などは数百年前のものも教訓として残されており、その辺りの時代から親しい者や側近が手紙の中を検めるようになったようだ。
中には、密約を暗号に隠した手紙を出し、警手権争いや貴族間の争いの中で大義名分を掲げるために裏切り者を作り出したりする手紙も存在していた。
つまり、手紙というのは主人の手に渡った時点で何かが起こり得る代物なのだ。そのために、現在では侍従が一言一句を逃さぬように詳細に精査するのが慣習となっている。
長い手紙を確認し終え、封筒に戻し、次の封筒に手を伸ばす。
ちょうどその時に遠くで鐘の音が三つ鳴った。土の刻三だ。
土の刻三は一般的には寝入り時だ。ライラはやや眠気を感じながらも、残った手紙を一刻以内で片づけられるだろうと踏んでいた。ライラは気合を入れて確認作業のペースを上げていった。
侍従たるもの、睡眠も大切だというのがジャザラの言葉だ、水の刻まで起きていて怒られたこともある。
──これは……。
目を通していた手紙は執法院の要職を務める上位貴族・グレムゾ・タニーシャからのものだった。内容は貴族街のとある談話室での社交会の誘いだった。
社交界は一月の四日の予定となっている。先方の侍従の検閲を鑑みると返事を出すには急ぐ必要がある。遅くとも明日の朝一番に運び屋に渡さなければならない。
だが、ライラには不安な点があった。
差出人のグレムゾ家は歴史上、ホロヴィッツ家と対立した過去を持っている。現在は互いに友好な関係を結んでいるものの、この街ではそうした過去の因縁が世代を越えて実を結んでしまうということがある。
──これは、ジャザラ様に確認をとらねば。
彼女の言葉が頭をよぎるものの、こればかりは彼女の命のために必要なことだった。
ライラは階段を昇り、四階に向かった。
折れ曲がる細い廊下を進んで、一番奥にジャザラの寝室がある。寝室といっても、ジャザラはそこに色々と物を持ち込んで夜の間、その時々に夢中になったものに打ち込んでいるようなのだが。
「ジャザラ様、夜分に申し訳ございません。急ぎご確認いただきたいことがございます」
ドアの前でそう声をかけたものの、返事がない。
ノックをして再び声をかける。返事はない。
ジャザラは寝ているかと考えたものの、ライラはひとり首を振る。ジャザラが寝入るにはこの時間はまだ早い。
「ジャザラ様、扉を開けます」
起きているのなら、返事がないというのはおかしい。保安上の不安を抱えてライラは素早くドアを開いた。
法律関連の本があちこちに積み上げられた寝室。
だが、そこにジャザラの姿はなかった。
ドアの向かい側、壁際の窓の前に机がある。ジャザラがそこに向かって勉強に励んでいるのをライラは何度も見ていた。
窓のカーテンが空いたままになっており、しとしとと降る夜の貴族街を映し出す。
──ジャザラ様……!
ジャザラがライラの目を盗んで外に出たことは明白だった。
窓を勢いよく開けて外に素早く目を走らせるが、高い建物と雨の帳で見通しの利かない夜の街に何かを見つけることなどできなかった。
窓の下には梯子がかけられていた。ジャザラ邸の納戸にしまわれていたものだ。
──ジャザラ様は、ご自分で……?
予期しない出来事に気が動転しそうになりながらも、ライラは階段を駆け下りた。
屋内用の靴を履き替えることもせずにジャザラ邸を飛び出し、雨に打たれながら使用人のいる別邸へ向かう。
ライラの胸の鼓動は一歩踏みしめるたびに速まっていた。
──我の失態……!
ホロヴィッツ家の中庭を抜けて、濡れた別邸の玄関のドアを必死で叩く。
すぐにドアが開いて家政人の一人が驚いた表情で顔を出す。
「どうされたんですか、ライラ様?」
「ジャザラ様を見かけなかったか?」
夜の闇の中でも分かるライラの蒼白な顔を見たのだろう、家政人はハッと息を飲んだ。
「いらしゃらないんですか……?!」
「寝室から出て行かれたようだ」
「寝室? 四階ですよ?」
「それは些末なことだ。見ていないのか?」
「他の者にも訊いてきます……!」
家政人は別邸の中に駆け出すが、ライラもその後を追う。
家政人たちが書類仕事を片付けている部屋に入ると、ライラの緊張感が一瞬で伝播した。ライラと家政人が事情を説明すると、パニック寸前の空気が部屋を満たす。
「ホロヴィッツ邸に報告を……?」
ライラは首を振った。
「それは状況を把握してからだ」
心のどこかにこの異常事態を看過してしまった自分を隠そうという気持ちがなかったわけではない。
「そういえば……」
家政人の一人が記憶を手繰って天井を見上げる。
「さきほど部屋で休憩していたのですが、私の部屋はそばの路地の音が聞こえるのです。はっきりと誰の声か分からなかったのですが、二人の会話のようなものが聞こえてきたのを思い出しました」
「ジャザラ様に関することか? なんと言っていた?」
ライラが前のめりになって問い詰めると、その家政人は戸惑いながらうなずいた。
「カナ・イネール・ジャザラ・フォノア」
***
「なんとも解釈しづらい言葉だ」
話を聞いていたイマンが頭を悩ませる。
俺にもこの言葉を正確に訳せる自信がない。この世界の言葉のハイコンテクスト性が理解を難しくしているのだ。
「カナ」は文頭に置かれる語で、過去の時制を示している。
「イネール」は、三人称の主語を内包した動詞で、「(連れて)行く」とか「(連れて)来る」という意味がある。意味は文脈に依存する。
「ジャザラ」「フォノア」は、そのままジャザラと事件現場となった「フォノア」のことだろう。
問題は、これらの語を繋ぐ単語が存在しないせいでいくつかの解釈ができてしまうというところにある。
しかし、少なくとも「イネール」の主語はジャザラ以外の何者かであることは明白だ。つまり、
・何者かはジャザラと「フォノア」に行った。
・何者かはジャザラを「フォノア」に連れて行った。
・何者かはジャザラのために「フォノア」に行った。
などと解釈ができるのだ。
「誰かがジャザラを『フォノア』に行かせた、とも解釈できるな」
ナーディラも首を捻っている。
ライラはうなずく。
「我も瞬時に理解不能だった。だが、それは問題ではない。『フォノア』という場所が明白になったゆえ、我は急行することとした」
***
「いつのことだ?」
「つ、ついさきほどです……」
「ジャザラ様が戻って来たら、我は出ていると伝えてくれ」
ライラはそう言い残して雨の貴族街に飛び出して行った。
雨は強さを増していた。びしょ濡れになるのも厭わずに、ホロヴィッツ家を出たライラは公宮の裏手の路地をかけて「フォノア」へ向かった。
雨の街には人の姿もない。静けさの中を雨音が支配するようだった。
広い通りにぶつかった時、近くでベカラの吠える声がした。ふと目をやると、通り沿いの建物の角に佇むベカラがガウガウと吠えている。
ジャザラがいるのかもしれないと直感したライラは通りをベカラのいる方へ走っていったが、今度は自分が吠えられてしまった。焦燥感に駆られて周囲を見回すと、庭園の周囲の道をゆっくりと歩く騎士の姿があった。
──こいつ、あれに吠えていたのか。
ライラはすぐに頭を切り替えて通りを横切って「フォノア」へ走った。
雨の雫を拭う余裕などなく、「フォノア」に足を踏み入れたライラはホールから悪部屋のある廊下へ向かった。
普通ならば、その廊下に向かう扉は閉ざされ、利用契約者のみが持つ鍵でしか開けられなかったが、ライラがむかった時には扉は開かれたままだった。
廊下に面する各部屋へのドアはいずれも閉まったままだ。しかし、少し先のドアが一つだけ開いている。
藁にもすがるような思いでその部屋の戸口に立ったライラは息を飲んで絶句した。
暗い部屋の中、ジャザラが椅子から転げ落ちて倒れていたのだ。口からは吐瀉物が漏れ、部屋の中には排泄物のにおいが漂っている。
「ジャザラ様!!」
急いで駆け寄ってジャザラのそばに膝を突く。
反応はなかった。急いで首筋に指先を当てる。そこが脈動することは知っていたから。
ジャザラの脈動は早かった。
「ジャザラ様!!」
身体を揺するが、目を開ける気配はない。
外套賭けには水の滴る頭巾付きの白い雨外套がかかっている。テーブルの上には食事が、ジャザラのそばの床には銀の杯とそこからこぼれ出た酒が絨毯を濡らしている。
ライラの脳裏に、ジャザラと初めてであった日のことがパッと蘇る。
綺麗な灰色の瞳ね──。
まだ幼さの残るジャザラはホロヴィッツ家が連れてきたライラを柔らかい笑顔で出迎えてくれた。
正直なところ、ライラにはパスティアの貴族街で生きていける気がしていなかった。
辺境の街で、物心ついた頃から武器を持たされてきた。何人を剣の錆にしてきたか、数えるのは諦めていた。
辺境の街を治める領主が討たれ、その配下で動いていたライラは売られることになった。売られた先で侍従としての教えを叩き込まれた。
強そうな手ね──。
ジャザラは無邪気な表情でライラの手を取った。
その無垢な姿に、死ぬ理由を探していたライラは生きる意味を垣間見た気がしたのだ。
──この人のために命を使うのも悪くない。
目の前に横たわるジャザラの姿が信じられなかった。
ライラは大声を上げて悲しみと怒りを薄暗い部屋の中に吐き出した。




