125:あの夜へ・導入
叫ぶような、喘ぐような声を上げてライラが飛び起きる。
すぐに顔をしかめて膝を抱えるようにうずくまった。
「急に動かない方がいい。治癒魔法は君の身体の内側だけに留めておいたからね」
静かに言うイマンにライラの視線が飛んだ。
「治癒魔法、だと……?」
殺気にも似たような眼差しに気圧されて、イマンは諸手を挙げた。
「掟破りなのはわかっているつもりだよ。ただ、君の体内に達している傷だけは見過ごせなかった。外見で治癒魔法をかけたことが分からなければ問題ないだろう?」
ライラは苦しそうな、悲しそうな、そんな辛い表情を浮かべて膝に顔を埋めた。
「とにかく、今は休んでください」
俺は彼女にそう言った。ライラはすぐに顔を上げた。
「ここは?」
ちょうど部屋のドアを開けて入ってきたレイスがベッドの上で身を起こしているライラに目をやった。
「気が付いたのか」
ライラの顔が険しさを増す。
「騎士……? なぜここに?」
レイスは両手を広げる。
「ここは騎士の詰所……その休憩室だ」
そう、俺たちはあれから気を失ったライラを伴って通りに出たところ、レイスと出くわしたのだった。
貴族街には騎士の詰所が点在している。騎士団内で孤立しかけているレイスだったが、それでもまだ一部に残る味方の騎士が管理する詰所もあるようで、最寄りの詰所にライラを運ぶことにしたのだ。
「休息など、我には不要──」
ライラはベッドから抜け出そうとしたが、立ち上がろうとする足に力が入らずに床に転げてしまった。
レイスに続いて部屋に入ってきたナーディラがその様子を見て鼻で笑った。
「ふん、まだ自分の状況が分かってないようだな」
「おい、ナーディラ、いくらなんでも言い方がキツすぎるだろ……」
咎める俺の目の前で、ライラは一人うなずいた。
「我の立場──……貴様の言にも一理あるのかもしれん」
ナーディラがライラを起こしてベッドに座らせてやる。この二人、意外と気が合うのかもしれない。
右半分を包帯で覆った顔を俺たちに向け、彼女は胸に手を押し当てて深々と頭を下げた。
「ホロヴィッツ家へ戻さぬ配慮、傷み入る」
ナーディラが目を丸くする。
「お前にあんなに頼み込まれちゃな……」
「ん? 何の話だ?」
「憶えてないのか? あの時、お前は──」
***
「気絶しやがった」
腕の中のライラを見下ろして、ナーディラが小さく笑った。
「笑ってる場合じゃないだろ、ナーディラ。ジャザラさんの侍従なら、ホロヴィッツ家に帰してあげた方がいいだろ」
俺の提案にナーディラがうなずくが、イマンは難しそうに考え込んでいた。そんなイマンにナーディラが顔を向ける。
「ホロヴィッツ家に案内してくれ」
すると、彼女の腕の中で気を失っていたはずのライラがガバッと身体を起こした。
「ホロヴィッツ家は駄目だ! それだけは勘弁願う!!」
「うわ、びっくりした」
驚いているナーディラの目の前で、ライラは再び気を失った。
「なんだ、こいつ、忙しい奴だな……」
イマンが屈んでライラの様子を確かめる。
「この傷はホロヴィッツ家からの私刑によるものだ。彼女がホロヴィッツ家からどのような処遇を受けたのかは分からない。家に戻せば、彼女の命が危ないかもしれない」
「だから、必死に……?」
イマンが強くうなずくと、ナーディラは困り果てた顔でため息をついた。
「じゃあ、どうすればいいんだ。こいつをここに捨てて行く訳にもいかないだろう」
「とりあえず、どこか休める場所を……」
***
話を聞いたライラは顎に手をやる。
「うむ、我の無意識が命の危機を察したか」
「冷静に振り返ってる場合か」
ナーディラが堪らずにツッコミを入れる。
「貴様たちの察しの通り、我はホロヴィッツ家の侍従の任を解かれ、追放された。戻れば、我の命はないだろう」
「なんでそんなひどいことに……」
ライラが俺をじっと見つめた。
「主人の身をみすみす危険に晒す侍従に存在価値などない」
「その顔の傷もホロヴィッツ家に?」
「無論だ」
俺はナーディラたちと顔を見合わせる。レイスは腕組みをして、ごく当たり前のように口を開いた。
「ホロヴィッツ・ジャザラ様は次期大公妃だ。仮に今回の事件で命を失っていれば、その女はここにはいなかっただろう」
「この苦痛は生の享受というわけだ」
ライラは深く納得したように包帯越しの顔をそっと押さえた。
ナーディラと目を合わせる。俺たちには理解のできない考え方だ。
「ホロヴィッツ・ジャザラ様のご容体は?」
イマンはライラに詰め寄るようにして問いかけた。
「我が最後に見た時は、息も絶え絶えだった。それ以降は、我には与り知らぬところ」
目の前で意気消沈するイマンに怪訝そうに見つめるライラに、俺が説明をする。
「イマンさんはジャザラさんの治療ができるかもしれないと考えているんです」
「なんと」
希望に目を輝かせたライラだったが、レイスの動く音がした。
「ふざけるな。お前のような者をホロヴィッツ・ジャザラ様に近づけられるわけがないだろうが」
「貴殿は子をなさない者たちか」
ライラにじっと覗き込まれて、イマンは力なく笑った。
「ええ、残念ながら」
──またいつもみたいに笑ってる……。
「ジャザラ様を治癒できるのなら立場など無用。とはいうものの、ジャザラ様は現在、公宮で臥せっておられる。我が口添えできればどれほどよかったか」
レイスが小さく舌打ちをする。
「できないことを嘆いても意味がないだろう。今は、ホロヴィッツ・ジャザラ様が倒れた時のことをお前から聞き出さなければならない。なぜホロヴィッツ・ジャザラ様の侍従ともあろう者が彼女を危険に晒した?」
鋭い問いだった。
ライラはまるで自分の罪に向き合うかのように語り始めた。
「あれは、昨晩の土の刻二のこと。我は──」
***
ホロヴィッツ家はいくつもの建物が連なって構成されている。
ジャザラはその中のひとつの棟をジャザラ邸としてあてがわれ、基本的にそこを日々の生活の場としていた。
ジャザラ邸には、食事と掃除などの仕事を行う家政人が三名とジャザラの身の回りの一切を担う侍従としてのライラが日中は常駐していた。家政人たちは全員がライラの配下の人間で、三人はライラの指示に従いジャザラ邸を維持してきた。
日中の仕事が終わると、家政人たちはホロヴィッツ家の使用人たちが住まう別邸に帰っていく。
ただひとり、ライラだけはジャザラ邸に残る。
「ねえ、ライラ」
ゆったりとした寝間着に着替えたジャザラが、ジャザラ邸に届いていた手が見るに目を通していたライラのもとにやって来た。
ライラはスッと立ち上がった。
「夜食でもご用意しましょうか、ジャザラ様」
ジャザラは呆れたように笑う。
「ねえ、ライラ、私ってそんなにいつもお腹空いているように見えるかしら?」
「い、いえ、そのようなことは……」
「だって、あなたっていつも私に何かを食べさせようとしてくるんだもの。私のおばあさまみたい」
ずいぶん前に亡くなったジャザラの祖母のことを引き合いに出されて、ライラは戸惑ってしまう。どういう意図があったのかを深く勘ぐっているライラに、ジャザラは微笑みかけた。
「冗談よ。ライラ、働きづめじゃない。今日は早く休んでいいのよ」
「ですが、レグネタ・タマラ様のお子さまの件で各所からのお手紙を頂いておりまして……」
ジャザラは眉間にしわを寄せて細い息を吐き出した。
「そうね、タマラ様がお気の毒だわ。──ごめんなさい、ライラ。お仕事の邪魔しちゃったわね」
「いえ、問題ありません」
ジャザラは階上へ向かう階段の方へ歩き出そうとする。ジャザラ邸の最上階の四階、奥まったところに彼女の寝室はある。防犯のために、そのような間取りになっているのだ。
階段に向かいかけていたジャザラが振り返る。
「ねえ、ライラ」
机に向かっていたライラが再びスッと立ち上がる。
「いつも言っているけど、わざわざ立ち上がらなくていいのよ。悪いことしているみたい」
「いえ、心身に染みついているものですので、お気になさらぬよう」
「私、執法院での執務に備えて、これまで以上にパスティア法の勉学に励もうと思うの」
「それは、頭の上がらないことです」
「集中しようと思うから、寝る前の見回りは要らないわ」
「しかし……」
「ねえ、ライラ、あなたが仕事熱心なのは知ってる。だから、ちょっと怠けることも学んでほしいのよ」
「怠ける、ですか……」
「これからも私の侍従で居てくれるのよね?」
奇妙な問いにライラはハッとした。
「無論でございます。このライラ、命尽きるまでジャザラ様にお仕えする所存でございます」
「じゃあ、働きづめで潰れてしまわないように怠けることを憶えなさい。これはホロヴィッツ・ジャザラとしての命令よ」
「……かしこまりました」
ジャザラはニコリとした。
「いい? 今晩は四階に上って来ちゃダメ。わかった?」
「ジャザラ様が仰るのなら……」
ジャザラは満足そうにうなずいて、軽い足取りで階段を昇っていった。




