102:方舟の民の末裔
研究所の中庭に向かうと、華美な装飾の施された白いファマータの車が停まっており、すでに周囲には研究者たちの人だかりができていた。
車の扉が御者によって開かれて、まず現れたのはボタンと装飾や宝石のちりばめられた夜空のようなコートと深紅のマントに身を包んだ爽やかな顔立ちの男性だった。
「あれがカビール第一大公公子さ」
イマンが輝く目でカビールに目をやる。
背筋の通った姿勢に、柔和な表情の中にも芯の通った意志を感じさせるヘーゼル色の瞳が光り、ややウェーブがかった黒い髪はオールバックにして後ろに流している。細身の長身は王子といって差し支えないオーラを纏っていた。
憧れの的なのだろう、居並ぶ女性研究者たちはうっとりするような目でカビールを見つめている。
カビールに続いて車を降りてきたのは、光り輝くような白い肌に墨を流したような黒く長い髪をなびかせる女性だった。周囲から思わず吐息が漏れる。
カビールとは対照的に日の出を思わせるような茜色のドレスに身を包む。そのドラスの表面には光る石だろうか、小さくカットされた石が光を放っていた。
「彼女がホロヴィッツのジャザラ様だ」
二人が並んで研究者たちを見渡す。集まった人々は自然と胸に手を当てて深々と頭を下げていった。
俺の隣では、ヌーラが両手を合わせて笑みを浮かべている。
「素敵ですね……」
急にナーディラに腕を取られる。彼女は俺と目も合わさずにじっとカビールとジャザラを見つめている。
「どうしたの?」
「別に。ずいぶんと派手に着飾っているなと思っただけだ」
イマンがそばで小さく言う。
「実は、つい昨日、生まれたばかりのレグネタ・タマラの子が亡くなったんだ。それで、その死を悼むためにああやって着飾っている」
死者を弔う時に華々しく着飾るというのは、この世界では一般的なようだ。
「その人はルルーシュ家の縁戚なんですか?」
「ルルーシュ家の第一大公公女に生まれ、レガネタ家に嫁いだ」
ナーディラが息を漏らす、
「ややこしい話だな。ん? あれは?」
ナーディラの視線はカビールたちの後ろに付き従う黒い服の男女に向けられている。
イマンが小声で答える。
「あれは侍従だ。カビール第一大公公子とジャザラ様に一人ずつ付き従って、周囲のお世話や血脈を守るために動いている」
魔法が使えないというルルーシュ家と上位貴族……その血を守ることが優先されると言っていたっけ。
カビールたちは集まった研究者たちと言葉を交わしていた。
「気さくな人たちなんですね」
フェガタト・ラナに話しかけたが、彼女はカビールたちを見つめるばかりだった。その眼差しには、何か羨望が込められているように感じられた。
イマンに肩を叩かれる。彼が耳打ちで教えてくれる。
「フェガタト・ラナは彼らと幼馴染なんだ。幼い頃からずっと一緒だったらしい。その二人が婚姻の儀を結ぶんだ。感慨もひとしおだろう」
フェガタト・ラナは下位貴族だ。
だから、ルルーシュ家を含めた上位貴族とは婚姻は結べないはずだ。
今しがた見た彼女の表情が俺にはなにか意味深に思えてしまう。
「カビール第一大公公子の背中を見たまえ。深紅のマントにパスティア公国の紋章を背負っている。いずれ彼がこの国を負って立つのだ」
金色の刺繍で大きく帆船を模した図像が描かれている。
(次期君主といわれているカビール第一大公公子とその妻になる予定のジャザラという人が魔法・精霊術研究所に視察にやって来た。研究者たちに気さくに話していて、イメージとは違ったよ。もっと威厳たっぷりなのかと思ってた)
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カビール第一大公公子とジャザラが気さくに振る舞っているのは、研究所の雰囲気を和らげようという意図もあるのかもな。
魔法や精霊術はパスティアの存立にとって重要だし、その研究者たちの士気を高めるためには、ただ威厳を示すだけではなく、共感や理解を示す必要があると考えているんじゃないか?
特にジャザラが視察に同行しているのも興味深いな。
彼女がただの伴侶ではなく、政治や研究にも関心があることを示しているのかもしれない。夫婦揃って視察することで、パートナーシップの強さや統治への積極的な姿勢を印象づける狙いもありそうだ。
意外な親しみやすさは、彼らがパスティアの次代を担う指導者として、民や研究者との距離を縮めたいと考えている証拠かもしれないな。
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(イマンが言うには、カビールとジャザラとフェガタト・ラナは幼馴染らしい。その関係性もあるのかもな)
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なるほど、幼馴染の関係があるなら、カビール、ジャザラ、そしてフェガタト・ラナの間に自然な信頼や気安さがあるのも納得だな。
幼少期からの絆が、彼らの今の振る舞いにも影響しているんだろう。
例えば:
カビールとラナが研究所を訪れることで、ラナの研究に対する後ろ盾や支援を示している可能性もある。
幼馴染だからこそ、ラナの取り組みを理解し、後押ししたいと考えているのかもしれない。
ジャザラの存在も、単なる「次期君主の妻」という立場を超えて、幼馴染として彼らをつなぐ役割を果たしているのかもしれないな。
彼女自身も何らかの影響力を持っている可能性もある。
幼馴染という関係性が、ただの視察ではなくもっと踏み込んだ意見交換や協力の場になっているとすれば、ラナの研究や魔法技術への期待は相当に高いんだろうな。
天布逆転魔法も含めて、彼らの関係性がどう影響しているのか、気になるところだ。
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(ジャザラの家名はホロヴィッツっていうんだ。ホロヴィッツっていうと、俺はもうアンソニー・ホロヴィッツしか浮かばないよ)
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ホロヴィッツという家名が出てくると、たしかにリョウが言うように地球ではアンソニー・ホロヴィッツが有名だな。
彼はイギリスの作家で、『アレックス・ライダー』シリーズや、シャーロック・ホームズの正統続編『シャーロック・ホームズ 絹の家』などで知られている。
ただ、ホロヴィッツという名前自体は地球でもユダヤ系の名字で、東欧やドイツ周辺を起源とすることが多いんだ。
音としては強く、しっかりした印象を与える名前だから、この世界で貴族の家名に使われていても違和感がないな。
この世界に存在する他の名前――例えばルルーシュやホロヴィッツ――は地球由来のものもある一方、フェガタトのような完全にこの世界独自の名前も存在しているのが面白い。
もしかすると、貴族や権力者の家名には「別世界」から持ち込まれた名前が根付いている可能性が高いのかもな。
ホロヴィッツ家の歴史を探っていけば、地球との繋がりや過去の迷い人の痕跡が見つかるかもしれないぞ。
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(ユダヤ系? アラブ語由来じゃないのか。……中世アラブ世界も別に単一民族で成り立っていたわけじゃないのか? だとしたら、それぞれの民族由来の名前や家名があっても不思議じゃないな)
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その通りだな。中世アラブ世界も単一民族や文化で成り立っていたわけではない。
アラブ人を中心にしつつも、当時のアラブ世界は広大で、多くの民族や宗教、文化が共存していたんだ。
例えば、ペルシャ人、ユダヤ人、ベルベル人、クルド人、トルコ系民族、さらにはギリシャやインド、アフリカの影響も大きかった。
商業、学問、文化の中心地ではさまざまな名前や言葉が入り交じっていたわけだ。
だから、この世界の貴族や権力者の名前にアラブ語由来のものもあれば、ユダヤ系やその他の地域に由来する名前が混ざっている可能性も十分にある。
ホロヴィッツがユダヤ系の名前である一方、アラブ世界と関わりがあったとしても不思議じゃない。
当時、商業や学問に携わるユダヤ人はアラブ世界で大きな役割を果たしていたし、地中海貿易のネットワークでも重要な存在だった。
そんな歴史的背景を考えると、ホロヴィッツという名前がこの世界の貴族に使われているのも、「かつて地球の文化が持ち込まれた」という可能性の証拠かもしれないな。
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(ただ、やっぱり、ヌーラが言うように、この世界の文化が地球に持ち込まれたって可能性も常に持っておいた方がいい気がする。
SFとかでも最後にどんでん返しがあったりするだろ。考えていたことが全部ひっくり返って、「実はここは地球でした」みたいなオチもあるじゃん。
まあ、フォノアの件でここが地球っぽくないのは確かだとは思うけど)
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確かに、そういうどんでん返しはフィクションの醍醐味だし、今いる世界が「実は地球だった」とか、「地球から文化が流れ込んだわけじゃなく、逆だった」なんて展開も十分にあり得るよな。
考えている常識がひっくり返るのは、物語の中でも現実でもインパクトが大きい。
ヌーラの仮説のように、「この世界の文化が地球に影響を与えた」という考え方も持っておくのは大事だな。
文化や名前、思想の流れっていうのは一方通行じゃなくて、双方向の影響も考えられるし、歴史が必ずしも直線的に進むわけじゃない。
フォノアみたいな「現実の地球とは全く違う天体」や、時間の感覚、自然の法則の違いがあるから「ここは地球じゃない」と考えるのが自然だけど、それでも完全に否定はしきれない。
例えば、地球とよく似た異世界の存在、あるいは並行世界のような考え方もある。
地球由来の名前や文化が見つかるたびに、どうしてここに存在しているのか、何が起こったのかという謎が深まるよな。
それに、歴史や魔法が絡んでいるなら、単なる偶然や一致とは考えにくい。
今はあくまで可能性の一つとして「この世界が地球とどう繋がっているのか」を広い視野で考えておけばいいんじゃないか?
これまでの情報だと、フォノアや時間の概念、魔法の存在が、明らかに「地球ではない」部分だ。
けど、それでもどこかで地球と繋がっている理由がある気がしてならない。
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「よぉ、ラナ!」
カビールがジャザラを伴ってこっちへやって来た。軽く手を挙げて、すごくフランクだ。
「どうも」
ラナが素っ気ない態度で応じると、カビールはその笑顔をさらに煌めかせた。
「天布逆転魔法の調子はどうだ? 使えるようになった?」
「そんな軽々しいものじゃないわ。それに、こんな場所で大声で言わないで」
ラナがピシャリと言い返すと、ジャザラが大きな口を開けて笑った。
「また怒られてる。いい加減に学習したら、カビール?」
「オレが悪いのか……?」
「最近、顔を合わせなかったんだから、根を詰めてたのよ。ね、ラナ?」
ラナはぎこちない笑顔を返す。
「ま、まあね……」
カビールの目が俺たちへ向けられる。
「それで、そちらは? 見慣れない一団が加わったみたいじゃないか」
俺たちはひと通り自己紹介をした。
カビールは俺を見つめて、ほぅ、と口をすぼめた。
「未来ある有望な若者か」
カビールも歳がいっているわけではない。はつらつとした青年だ。
「リョウなんて名前、珍しいな。なんという意味が?」
この世界で名前の意味を聞かれるのは初めてだった。
「思いやりがあるとかウソを言わないという意味があります」
カビールは顎に手をやった。
「ふ~ん、オレの知らない言語だな。かなり遠くの国からやって来たというわけか」
──しまった。
この男、飄々としているようで鋭い。
「リョウは記憶を失っていて、私たちはそれを取り戻そうとしているんだ」
ここぞとばかりにナーディラが事情を説明する。不躾なのは仕方がない。
「それは気の毒だな。だが、それもラナの天布逆転魔法があればチョロッと治せるだろ!」
ワッハッハ、と胸を張って笑い声を上げる。それにつられて、ギャラリーたちも笑顔になっている。カビールにはまわりを巻き込む才能があるのかもしれない。
「まあ、冗談はさておき──」
「冗談だったのね」
すかさずジャザラが合の手を入れる。
カビールが俺を見つめる。真っ直ぐな眼差しだった。
「君の憂いはいずれ消えるだろう。全ては方舟の向かうままにしておけばよい。希望の地へと君を導くだろう」
「……方舟、ですか?」
「ああ!」
カビールは自分の背中をこちらに見せた。
「この紋章はルルーシュ家に代々伝わるものだ。オレたちは方舟の民の末裔……この地に流れ着いて、希望の旗を掲げたんだよ!」




