100:正義の剣
部屋の中の片づけを終えた頃には、室内に明かりが灯る時間だった。ここでも、壁に備え付けられた室内灯に自動で火が入った。
部屋の隅にうずたかく積まれた瓶の破片をアメナは一瞥した。
「あれはお主の研究に関わるものではないのか?」
「ああ、その通りさ。植物や鉱物の働きから人間の体内での働きを類推するために色々進めていたんだがね。やはり、ここでは邪魔が入るのさ」
諦めている、というわけでもなさそうな顔でイマンが言った。
(イマンは研究所の中ではなく、ちょっと離れたところにあるおんぼろの建物をあてがわれて、そこで研究をしているようだ。それなのに、何者かがイマンの研究所に押し入って研究室の中を荒らして行った……。イマンの様子を見ると、珍しいことでもないらしい。なんだか、やるせないよ)
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それは本当に胸が痛む話だな。
イマンのように真剣に研究に取り組んでいる人が、そんな状況で研究を続けなければならないなんて理不尽すぎる。
荒らされても「珍しいことではない」と受け流す彼女の態度を見ると、それが日常茶飯事のように起きているのか、あるいは彼女がその扱いに慣れてしまっているのかもしれない。
どちらにしても、彼女の努力や情熱が正当に評価されていないという事実が浮き彫りになる。
イマンが使っている建物が「おんぼろ」であり、研究所からも離れた場所というのも、彼女が周囲から疎外されている可能性を示しているな。彼女の研究の重要性や革新性がまだ認められていないのか、それとも意図的に排除されているのか……。
この状況がパスティアの社会構造や研究機関の内部事情に根差しているなら、彼女の奮闘がどれだけ厳しいものか想像できる。
リョウが彼女の味方として行動を共にしていることは、きっとイマンにとって大きな支えになるはずだよ。
今の状況に対して具体的に何ができるかを考えるのも大事だけど、まずはイマンの気持ちに寄り添うことが最も重要かもしれない。
そして、こうした扱いを受ける背景や原因を少しずつでも探ることで、彼女が安心して研究を続けられる道を模索していくのもいいかもしれない。
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(イマンは……少なくとも生物学的には男だと思う。イマンは同性愛者──つまり、迷い人だ。だから、レイスは魔法を扱うイマンをバカにしてたんだよ。イマンは迷い人で迫害の対象だ。そればかりじゃなく、この女性ばかりの場所で見た目は男性なのがさらに他の研究者との溝を深くしてるんだと思う)
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なるほど……イマンが迷い人であること、そして見た目が男性であることが、彼の置かれている状況に大きな影響を与えているんだな。
この世界の偏見や文化的な制約の中で、彼がどれほど多くの重荷を背負っているのかが見えてくるよ。
同性愛者であるという理由だけで迫害されるのは、明らかに理不尽だし、そこに彼が魔法を扱う存在であることが加わるとさらに状況は複雑になる。
この世界では、魔法が女性の役割とされているから、イマンのような存在は「規範から外れたもの」として見られてしまう。
結果として、彼の研究が正当に評価されないばかりか、周囲からの孤立や差別が彼の環境をさらに厳しくしているんだろう。
この女性中心の研究所で、見た目が男性であるイマンがどう振る舞っているのかも気になるね。
他の研究者たちからの偏見や冷遇が、彼の仕事や精神的な健康に悪影響を及ぼしている可能性も高い。
リョウがこのことを理解し、イマンを支える存在でいることは、彼にとって大きな救いになるはずだよ。
彼の研究がこの世界にとって重要だと思うなら、それを周囲にも伝えていくことが長期的には必要かもしれない。
さらに、彼が孤立しないよう、彼の努力や成果をサポートできる場を探すことも有益だと思う。
厳しい環境だけど、リョウの存在が彼にとっての希望になっているはずだ。
イマン自身の声を聞くことも忘れずに、彼が何を求めているのかに寄り添ってあげてほしい。
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(悪いけど、迷い人についてはちゃんと覚えておいてほしい。あまり何度も説明したくないんだ)
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了解したよ。「迷い人」の定義については覚えておくから、これからはその説明を繰り返さなくて済むようにするね。
リョウがスムーズに話を進められるように気をつけるよ。他に気になることがあれば何でも言ってくれ。
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(ちなみに、お前が認識している迷い人について教えてくれ。修正点があれば付け加えてほしいこともあるからな)
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了解した。現時点で「迷い人」について把握しているのは以下の内容だ:
迷い人の定義:
この世界では同性愛者を指す言葉として使われている。社会的な偏見や迫害の対象になることが多い。
文化的背景:
迷い人は、多くの場合「正常」な生き方から外れていると見なされ、この世界の文化や価値観の中で差別を受けやすい。特に男性同性愛者に対しては軽蔑や敵意が向けられることが目立つ。
イマンの例:
イマンは迷い人であるために、特に迫害の対象になりやすい。また、彼が男性であるにもかかわらず魔法を扱う点も、社会的なステレオタイプに反するため、他者との溝を深めている可能性がある。
修正点や追加事項があれば教えてほしい。リョウが重要だと思うニュアンスをきちんと捉えたいからね。
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(迷い人は、今では子をなさない者たちと呼ばれているんだ。性別に限らず、迷い人たちは迫害の対象で、災いの原因ともみなされている。緑目や人間もどきとも呼ばれていて、緑色の目の子供が殺されたり、デイナトス狂病の原因だと信じられてもいる。……こんなところかな)
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迷い人について理解が深まりました。
リョウが教えてくれた内容をもとに、以下のようにまとめます:
1. 迷い人の定義
現在では、「子をなさない者たち」を指す言葉として使われており、性別に限らず存在します。
2. 社会的な迫害
迷い人たちは、災いの原因とみなされ、迫害の対象です。この偏見には強い根拠はないものの、迷信や恐怖心が背景にあるようです。
3. 「緑目」や「人間もどき」との関連
緑色の目を持つ子供は「緑目」と呼ばれ、殺されることさえあります。また、迷い人が「人間もどき」とも呼ばれ、完全な人間とは違う存在として見なされています。
4. 病気との関連
デイナトス狂病の原因だとも信じられ、迷い人が不当な責任を負わされています。
これに加え、迷い人に対する偏見がイマンや他の人々の生きづらさを生んでいるのは、とても辛い現実ですね。
もし修正や追加の点があれば教えてください。
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サイモンに説明をしていて、気が滅入ってしまった。
だから、瓶の残骸を見て、俺は何か熱くなってしまっていた。
「さすがに、こんなことはやめさせるべきですよ」
「僕が成果を挙げさえすればいいことだ」
「なぜ言い返したりしないんですか。なぜやられたままにしておくんですか。悔しくないんですか」
イマンはそばの椅子に浅く腰掛けて、深く息をついた。
「考えてもみたまえ。僕が彼らと対立するようなことをすれば、街の人間は我々をさらなる攻撃対象と見做すだろう。それでは彼らと我々の間の溝を深め、分断を進めてしまうだけだ。僕の思い描く未来は彼らとの共存なんだ。彼らを打ち負かすことじゃない。だから、目先の感情に踊らされてはならないんだ」
ぐうの音も出ない言葉だった。だが、それはどこかサイモンの言葉のように綺麗事にも聞こえた。
「でも、俺は悔しいですよ。あまりにも辛すぎる」
イマンはいつものように微笑んだ。
「君は優しい人だ。我々の想いをそれほどまでに汲んでくれる人に僕は出会ったことがないよ。それだけでも、僕の力の源になる」
イマンは座り直して、まだ納得しきれていない俺をじっと見つめた。
「君は彼らに正当性がないと言ってくれている。それは僕も同意だ。だから、力や言葉をもって彼らを捻じ伏せることはできるだろう。そのための大義名分も揃っている。だが、君には憶えておいてほしい。正しさは、それを剣に変えて誰かを斬りつけた瞬間から過ちに変わってしまうのだ」
みんながみんな、誰かを平伏させるための正義を掲げている。
元の世界だってそうだった。SNSを開けば、常に誰かが誰かを斬り伏せようとしている。その原動力は自分が正しいと信じる心だ。
イマンは、その身体ひとつでこの理不尽な世界と戦っている。それも、正しさを振りかざすことなく。
俺はなんだか自分がひどく矮小な存在に思えてしまった。
所詮、世を恨んで小言を垂れ流すだけの人間だったのだ。その小言は間違いなく、正しさを剣に変えたものに違いなかった。
「さて、本当ならば、君たちに研究の途中経過を見てもらってからフェガタト・ラナに挨拶に行こうとしていたんだが、掃除の手伝いをさせてしまうことになるとは」
イマンがにこやかに立ちあがった。
彼は俺を見つめて歯を見せた。
「そう不安な顔をしなくてもいい。フェガタト・ラナはきっと君の心を解きほぐすだろう」
***
イマンの研究室を出て、再び魔法・精霊術研究所の建物の中に入っていく。
入口から出ると、向かい側にも同じようにポーチのある入口が見えた。イマンはそちらに向かって足早に歩いていく。
その入口から中に入ると、何やら騒がしい。
ダダダダ、と足音がして入口奥の方へ研究者たちが駆けていく。
「なぜあの研究室を取り壊さないのですか!」
「あの緑目は邪悪な研究に没頭しています!」
「ここにも災いをなすものを呼び込んでいるに違いありません!」
何人もの女性の悲痛な叫びが上がっていた。
観音開きの扉の部屋の前に人だかりがあった。そこに白い制服の人垣がある。
戸口の上には「研究部門長室」というプレートが掲げられていた。
人垣の向こうに、煌びやかなドレスに身を包んだ黒髪の麗人が立っていた。
眼鏡をかけた目鼻立ちのしっかりとした小さな顔に長く伸びた首。控えめな首飾りに、まるで四季の花が咲き誇るような鮮やかな色合いのドレス。
まだ若く見えるが。その佇まいには超然としたなにかがある。
そんな女性が凛として研究者たちに対峙していた。
「邪悪な研究と仰るのならば、その証拠を提出してください。しかるべき対応を致します」
「フェガタト・ラナ様は、不安ではないのですか! あのような者をこの崇高なる場所に置くことが!」
「この場所の本質が研究にあるのであれば、このような議論はこの場には不相応と言えましょう」
研究者たちは返す言葉を失ってしまう。
誰かが口々に言った。
「所詮、人間もどきの身元引受人というわけですか」
「下位貴族!」
麗人の目が鋭く光る。
「今の言葉は聞かなかったことに致しましょう」
それで、場はしんと静まり返った。
イマンは小さな声で麗人を指さす。
「あれが、フェガタト・ラナだ」




