6 夜の語らい
その可能性があることに気づいてから、ずっと考えないようにしてきましたが、やはりよく考えておけばよかったと今更後悔しました。
ベルナエル様の気まぐれが一夜で終わるとは限らないのではないか、と。
支部の最重要部署に配属し、不在中は腹心の部下に指導係を任せ、帰還してすぐに自分の部屋に呼び出すくらいです。
素直に考えれば、目をかけられている……気に入られていると思ってもいいのかもしれません。
いえ、良く言い過ぎました!
面白がられている、弄ばれている、というのが正しい気がします。
「どうぞ」
結局、誘われるままベルナエル様の私室へついてきてしまいました。
断れません。逃げるのもあきらめました。
だって後が怖いから。
この屋敷の最上階にあり、最も広い部屋。
素晴らしい調度品の数々に目を奪われそうになる前に、抱き寄せられ頬に手を添えられると、上を向かされました。
目が合ったら心臓が止まるかもしれない。
思わずぎゅっと目を閉じて身を縮こませると、しばらくして頬を撫でられました。
「そんなに怯えるくらいなら、断っても良かったんだよ?」
「……こ、断っても怒りませんでしたか?」
「怒らない怒らない。そんなダサい男に見える?」
恐る恐る目を開けると、ベルナエル様は私の顔を観察するように眺めていました。なんだかとても楽しそうです。
「でも……」
私のような小娘に拒絶されたら、不快な気分にはなるのでは?
それとも断られたらすぐにどうでもよくなる程度の存在なのでしょうか?
……だったら素直に断ればよかった。また愚かな選択をしてしまいました。
「断られたら、やり方を変えるだけさ。フィアがその気になるようにね。どのみち結果は同じだから、今夜素直についてきたフィアは賢いと思うよ。どうあがいてもきみは俺のものになる」
それは思いもよらない言葉でした。
「……どうして私なんかを」
「そんなに自分を卑下するものじゃないよ。きみはとても魅力的だって前にも言ったはずだ。というか、今夜はおしゃべりするんだったね? 座って話そう」
ああ、逃げる機会を完全に失いました。
そのまま大きなソファまでエスコートされ、ベルナエル様はグラスを二つテーブルに置きました。
「ジュースとワイン、どちらがいい? 俺はワインにするけど」
「……………………私も、同じものをお願いします」
二人で並んでも余裕のあるソファ。後ろにはベッドも見えています。
この空間にベルナエル様と二人きりだなんて、とても平静を保っていられません。
お酒に逃げさせていただきます。
「嬉しいなぁ。じゃあ飲みやすいものにするよ」
なんて馬鹿な女なんだと思われていそうですが、私にはもうお酒以外に頼るものがありません。
現実逃避のためにお酒に溺れていた父のことを思い出しかけ、すぐに首を横に振りました。
緊張したまま乾杯をして、ゆっくりと赤ワインで喉を潤します。
「美味しい?」
「はい……」
「よかった。アルコールが入るとすぐに頬が赤くなるね。かわいい」
多分、さらに赤くなりました。
かぁっと全身が熱くなっていくのが分かります。
このままじゃ本当に心臓がもちません。
いつ押し倒されるのかとびくびくし続けるくらいなら、もういっそのこと早く終わらせてほしい。
そんな気持ちすら湧いてきます。
「フィアの勇気を見習って、俺も白状しよう」
ワインの色と香りを楽しみながら、ベルナエル様は柔らかく微笑みました。
「初めて会った夜、本当にきみのことを美しいと思ったんだ。仕事柄たくさんの女性を見てきたし、王女や聖女や歌姫なんかをたぶらかしたこともあるけど、その時は彼女たちを利用することしか考えていなかった。もう顔も名前も覚えてない。でもフィアに関しては、仕事も打算も関係なく、ただ欲しくなった。あんな衝動を覚えたのは初めてで、自分でも驚いたよ」
「…………」
「そんな噓つきを見るような目をしないでほしいな。まぁ、悪魔の言葉だもんね、信じられないよね。でもとりあえず聞いて」
「……はい」
「正直、自分でもフィアの何をここまで気に入ったのかは分からない。本当に奇跡的に俺の性癖に刺さったんだと思う。記憶にある限り、一目惚れなんてしたことがなかったのにな」
「……そ、それは、ただの気まぐれではないのですか?」
羞恥のあまり爆発しそうで、私はつい尋ねていました。
「分からない。自分でも不思議で、だからフィアをそばに置いて一過性の感情じゃないか確かめたかった……のに、馬鹿な同僚の尻ぬぐいのせいで一か月も会えなくなった。本当に腹が立つ。どさくさに紛れて殺せばよかった」
「ひっ」
「でも、一か月毎日ずっときみのことを考えていたし、今日顔を見てすぐに好きだって分かったから、距離と時間を置いたのは良かったかもね。やっぱり俺は、どうしてもフィアが欲しい」
「……っ」
「フィアの気持ちを尊重してあげたい気持ちもあるけど、俺には我慢なんて無理。きみは逆らうことも、逃げることもできない。だからもう、あきらめて俺のものになって」
これはどう受け取ればいいのでしょうか。
一見してものすごい暴論を振りかざされている気もしますし、悪魔にしては誠実に話してもらえた気もします。
でも、確かに、私に選択肢なんてありません。
結社の最高幹部で、伝説の悪魔であるベルナエル様が望む限り、ただの人間である私は従わざるを得ないでしょう。
抵抗しても敵わない。苦しい思いをするだけ。下手をしたら殺されます。
ズルい。本当にどうしようもありません。
「ごめんね。不自由な二択を迫るのが、悪魔のやり口なんだ」
ベルナエル様は私の手からグラスを奪ってテーブルに置くと、腰を抱き寄せました。
不自由な二択――どうしても、どうしても彼に触れられるのが嫌ならば、死んで逃げるしかありません。
「フィアは俺のことが死にたくなるほど嫌?」
相変わらず私の心を的確に読んでいます。それがまた恐ろしい。
私はゆっくりと首を横に振りました。
「じゃあ、怖い? 信じられない?」
「……はい」
「例えばどういうところが? 絶対に怒らないから教えて」
爽やかなシトラスの香りに、胸が痛みます。
嘘は通じません。私は覚悟を決めて正直に言いました。
「少しでもベルナエル様をがっかりさせるようなことをしたら、殺されてしまうんじゃないかと思うと怖いです」
「そんなことはしない。きみが俺や結社を裏切らない限りね」
「今までの言葉は全部嘘で、私をからかって遊んでいるんじゃないかと思えてしまって……」
「本当に信用がないな。嘘はついてない。一つも」
「一緒にいて……好きになってしまうのが怖い。飽きたらあっさり捨てられそうで怖いです。これ以上傷つきたくない……」
ベルナエル様の指が、そっと私の瞳に浮かぶ涙に触れました。
「最後の心配に関しては、絶対にありえないとは約束できない。それは悪魔も人間も関係なく起こりうることだ。心変わりしないことを永遠に保証できるはずない」
「……そうですね」
「困ったな。どうしたら安心してくれる? できればフィアに俺を好きになってもらいたいんだけど」
私は自分の心に問いました。
どうすればいい。
合理的に、利己的に、自分が一番心安らかにいるために必要なのは……。
覚悟を決め、私は遠くに置かれたグラスに手を伸ばし、残っていたワインを一気に飲み干しました。
「フィア?」
こんなこと、勢いがないと言えませんから。
「では、お願いがあります。いつか私を捨てる時は……優しくお願いします。ベルナエル様ならできますよね。私を上手に騙してください」
飽きたとか退屈だとか他の女性の方がいいとか、そういうことを一切匂わせずに、どうしようもない理由があって離れるんだと、優しく嘘を吐いてほしい。
「最後まで、優しいままでいてほしいです」
自分でも何を無茶苦茶なことを言っているんだと思いながら、決死の覚悟でベルナエル様を見つめました。
間抜けなことに涙で視界が歪んでいて、彼の表情がよく見えません。
「……こんな短期間で、人生最高を更新するなんてすごいな。いや、甲乙つけがたいけど」
「え?」
「いいよ。約束する。邪神と己の魂に誓うよ。未来永劫、フィアにとって優しい悪魔でいる。それできみの全てが手に入るのなら、喜んで」
再びグラスを取り上げられ、ベルナエル様は優美に微笑みました。
「少しずつでいいから、俺を信じて。好きになってくれるのを楽しみにしてる」
涙が頬を伝って視界がクリアになると、美しい碧い瞳に吸い込まれそうになりました。
ああ、やっぱり恥ずかしい!
「あ、あの、もう一つ怖いことがありましたっ」
「んー?」
「わ、私、あの、そもそも男性に慣れてなくて……その、キスもあの夜までしたことがなかったくらいで……だから――」
「そうなんだ。きみの周りにいた男は随分我慢強かったんだね。俺には真似できないな」
顔を隠そうとする手を掴まれてしまって、もう逃げ場がありませんでした。
「大丈夫、任せて。フィアのことは絶対に俺が幸せにしてあげる」
「っ!」
その夜のおしゃべりはそこで強制的に終了になりました。




