32、逃げられない1
放り投げたのはチンクーだが、宰相の頬には真っ赤な紅葉の跡があり、その掌は間違いなく自分のものである。
しつこいようだが殴ったことに後悔はしてない。
けれど暴力は良くなかった。
ヨシュアに偉そうに説教していたことが恥ずかしくて、強気だったサリーネの表情がみるみるうちにスンッとなる。
「それは……私のせい……かな……?」
「私がどうしたせいでそうなった?」
「私が暴力を振るったからですね……」
「それで? サリーは何で俺を大嫌いだと言ったんだ?」
「ごめんなさい……でも私は権力を笠には着てないもん」
苦し紛れに反論を試みるも、ヨシュアは胡散臭さ100%の笑顔を浮かべた。
「何か言ったか?」
微笑んでいるはずなのに、ヨシュアは魔王と化し背後には人外魔境の闇が見える。
「……いえ、別に」
「で? 俺のこと大嫌い?」
「大嫌い……じゃないです」
完全な誘導尋問である。
しかしサリーネが拗ねたように口を尖らせつつも否定すると、ヨシュアはやっと偽りの笑みを消し満足そうに口角をあげた。
「俺は傷ついた。サリーからキスしてくれたら許してやる」
「ふえっ?」
「ほら、早くしろ」
「こ、ここで?」
何でこの流れでキスになるのか解らないサリーネはパニックになる。
ヨシュアのことは好きだし、キスできるならキスしたいが、こんな衆人環視の前でファーストキスとか拷問だ。
騎士団は気を遣っているのか視線を逸らしつつもチラ見しているし、トンヌラとチンクー、カントはニヤけた顔でこっちを見ている。
「み、みんな見てるし、トンチンカンの薄ら笑いもなんか嫌ぁ!」
情けない声をあげヨシュアを見ると、彼もまたサリーネを瞬きせずに見下ろしていた。
(え? キスするんだよね? 何でそんなガン見してくるの?)
なんか思ってたのと違うと戸惑うサリーネに、ヨシュアの顔がどんどん近づいてくる。
サリーネからしろとか言っていたくせに、何で? と叫びたくなるが、ともかくガン見はやめてほしい。
「せ、せめて目は閉じようよ!」
「断る」
一刀両断したヨシュアにサリーネが頭を抱える。
「でも……」
「タイムアップ!」
何とか回避しようと開いたサリーネの口は無情な声と共に塞がれる。
想像していた触れるだけのキスではなく、最初っから口内全部を貪られ、漸く開放された時にはサリーネは涙目になっていた。
「こ、こんな深いのひどい! ファーストキスだったのに!」
「ファーストじゃなかったらサリーは即監禁で、相手は魔物の腹の中だ」
「何それ、こわっ! ヨシュアこわっ!」
ムスッとしたヨシュアの言い分に、サリーネの顔が引きつる。
冗談だとは解っていても、もう少し甘い雰囲気を作れないものかと思う。
しかし冗談だと思っているのはサリーネだけで、ヨシュアが本気だということを、サリーネ以外の者達は察していた。が、怖いのでやっぱり誰も何も言わない。
「俺たちは結婚の約束をしてたんだから問題ないだろ」
すっかり背景化する周囲などお構いなしに、不貞腐れたように呟くヨシュアに、サリーネが呆けたように顔をあげる。
「結婚? え? 私がヨシュアと約束したのはデビュタントのエスコートの約束よね?」
「俺の中では婚約したのと同じだ」
「えええ? そうなの? 私が貴族の慣習に無知なだけで、あれって婚約の意味も含まれてたの?」
驚愕の事実にサリーネが周囲を見渡せば、騎士達もトンチンカンも何とも言えない微妙な表情を浮かべていたが、ヨシュアに睨まれると一様に視線を逸らした。
(え? どっち?)
誰からも目を逸らされたサリーネは困った。
もしエスコートに婚約の意味があるなら、もし本当にヨシュアと結婚できるなら、それはとても嬉しい。
けれど重大な問題があることにサリーネは肩を落とした。
「でも私はもう貴族じゃないから、辺境伯であるヨシュアとは身分が釣り合わないよ」
「そんなのは些事だ。俺も家族も貴族とか身分とかどうでもいいし、どうとでもなる」
すっぱりと言い切ったヨシュアに、サリーネがポカンと口を開ける。
「些事なの? ずっと気にしていたのに? 私の悩んだ日々は何だったの?」
「この俺が身分を気にすると思うか?」
「だって辺境伯だし……」
「親父の後を継いだだけで、サリーが嫌なら今すぐ返上するが?」
「それは……ダメじゃないかな?」
辺境伯という高い地位を、躊躇なく返上するというヨシュアにサリーネは開いた口が塞がらない。
ヨシュア以外に魔物討伐が多い辺境伯など誰が務まるものかと、トンチンカンだけではなく規格外の強さを見せつけられた侯爵領の騎士達も顔色を青くしているのを見て、サリーネが首を横に振るが、当の本人はあっけらかんとしたものだった。




