36 話を聞いてもらいましょう
エリーナ・ローゼンディアナはヒロインであり悪役令嬢ではない。その事実は、思いのほかエリーナの頭に重くのしかかっていた。おいしい夕食もどこか上の空で食べ、クリスの話に適当に相槌を打つ。言葉数少なく自室に戻れば、どうしても今後のことを考えてしまう。大好きな作家の新作を読もうとしても手は止まり、窓辺に置かれた安楽椅子に座ったまま窓の外を見ていた。
(シナリオの終わりまで、何をすればいいのかしら……)
シナリオはおそらくリズが知っている。だからといってヒロインを演じるつもりはなく、ヒロインとして生きていくつもりもない。
(悪役令嬢じゃなかったら……私は何なの?)
今までは、それしかなかった。自分から悪役令嬢を取れば何が残るのか……。窓に映るエリーナの顔は、愛くるしく可愛がられる顔だ。まさしくヒロインそのもの。
(この顔で悪役令嬢なんて……馬鹿みたい)
必死に目標に向けて頑張っていた自分が馬鹿らしくなる。独り相撲もいいところだ。
虚しさが胸の内に広がり、ため息が零れた。
(明日から何しようかしら)
思考が堂々巡りを始めた時、ドアが軽くノックされる音が聞こえた。気だるげに返事をし、サリーかなとドアに視線をやれば心配顔のクリスが立っていた。
「エリー……大丈夫?」
過保護なクリスの目はごまかせなかったようで、ティーカップが二つ乗ったお盆を持って部屋に入って来る。
「ちょっと、気が晴れなくて」
長年一緒にいれば、隠し事をするのも面倒になる。エリーナも誰かに聞いてもらいたい気分だった。それに、クリスは不思議と話しやすい。クリスはサイドテーブルにお盆を置くと、向かいの椅子に座った。カップには温かな紅茶が入っており、ほのかにブランデーの香りがする。
「少しブランデーが入っているけど、気が落ち着くから」
そう気遣った笑みを浮かべ、カップを手渡してくれた。エリーナは16であり、お酒を飲める年だ。あまり飲む機会はないが、そこそこの量は飲むことができる。
「ありがと」
カップを受け取り、その香りを楽しんでから一口飲む。いつもの紅茶にブランデーの香りが加わり、大人の飲み物に変わっている。体の中にじんわりと染みこんでいった。
「それで、何かあったの?」
クリスも紅茶を飲みながら、そう優しく問いかける。エリーナはカップの中に映る自分に目を落とし、皮肉な笑みを浮かべた。
「知ってしまったのよ……」
言えることと言えないことを選んで口にしていく。
「何を?」
「…………わたくしは、悪役令嬢にはなれないって」
その瞬間、クリスがウグッと苦し気に呻いた。むせそうなのを我慢しており、胸元を掴んでいる。そして軽く咳き込み、戸惑った表情をエリーナに向ける。
「えっと……本気だったの?」
クリスもサリーと共に散々悪役令嬢劇場に付き合った。ずいぶん入れ込むとは思っていたが、遊びの範囲内だと楽観視してたのだが……。
「そのためのロマンス小説とお稽古だったのよ……でも、この世界でわたくしは必要じゃないの」
「……悪役令嬢じゃないから?」
「そう。悪役令嬢じゃなかったら、何をすればいいかもわからないわ」
ずーんと落ち込んでいるエリーナに、何か声をかけてあげたいがいい言葉が思いつかない。学園で嫌なことがあったのかと相談に乗りに来たつもりだったが、予想の斜め上をいく悩みだった。
クリスは俯いているエリーナの表情をじっと見て、彼女の左手に自分の右手を重ね合わせた。
「エリー。エリーは悪役令嬢じゃなくても、エリーだよ」
「……悪役令嬢じゃなくてもいいの? 何の役にも立てないのよ」
クリスは小さく笑ってその手を握る。
「本当にエリーが悪役令嬢になりたいなら、目指せばいいと思う。でも、悪役令嬢にならなくても、エリーはそのままでいいよ」
エリーナは顔を上げ、目を瞬かせた。初めて知ったとでも言いたそうに、驚き戸惑っている。
(私の、まま? 悪役令嬢じゃない自分?)
「僕は、どんなエリーでも側にいるし、応援する。だから、エリーのしたいことをして」
エリーナのしたいようにすればいい。それは、祖父が死ぬ前に言い残した言葉だ。クリスの優しい声と言葉が、悪役令嬢にこだわり固まっていたエリーナの心をほぐしていく。
「それに、人に意地悪をするだけが悪役令嬢じゃないでしょう? エリーが悪役令嬢を好きなのは、その誇り高さと意思の強さだよね」
クリスにロマンス小説と悪役令嬢のよさを布教する勢いで語る時は、常にその言葉を口にしていた。エリーナはこくりと小さく頷く。それが、エリーナの原点だ。
「じゃあ、そういう悪役令嬢になればいい。行動じゃなくて、その心で」
「悪役令嬢の心……」
その一言で救われた気がした。クリスは何も知らないけれど、誰よりも本質を理解してくれている気がする。
(そっか……悪役令嬢の心さえ持っていれば、私は今までの自分に胸が張れる)
すっと心が軽くなった。それと同時に眠気に襲われる。ブランデーが効いてきたのかもしれない。
「エリー、そろそろ寝ようか」
うつらうつらし始めたエリーナをベッドに誘導し、布団をかけてあげる。エリーナが子どもの時は、よくこうして寝かしつけてあげていた。
「クリス……」
布団から顔をだしているエリーナは、少し酔いが回った顔でへにゃりと笑った。
「ありがと」
「うん。よく休んで、いい夢を……」
そっとエリーナの頭を撫で、目を閉じさせる。そしてすぐに寝息が聞こえてきたのを確認すると、静かに部屋を後にした。廊下に控えていたサリーに心配ないと伝え、下がらせる。
そのまま自室へと戻るクリスの表情は硬く険しい。
「学校での交友関係を詳しく調べさせるか……」
ぼそりと呟いた低い声は、夜の静けさの中に消えていく。扉が閉まる無機質な音が残された。




