26 ロマンス小説に浸りましょう
今日は休日。ベロニカのロマンス小説コレクションに釣られ、オランドール公爵家を訪れたエリーナは、その蔵書量に圧倒されていた。図書室の大きさからして違う上、その奥の小部屋が全てロマンス小説だったのだ。有名作家が無名だったころの作品や、刷られた数が少なかった希少本など、垂涎ものの著作の数々が収められていた。
さすが公爵家。この時初めて、エリーナはベロニカの地位と権力と金を羨ましく思ったのだった。
いつも通り好きな小説を読み、それについて語り合う。何気なく口にしたお茶とお菓子がとてもおいしく驚いたが、すぐに小説の世界へと入ってしまう。素晴らしい夢のような世界だ。
そして、小説語りも一区切りついたところで、お茶を飲みながら一息つくことにしたのだった。余韻に浸りながらも、エリーナの思考は最近頭を悩ませているヒロインのことになっていく。小説を読めば必ずヒロインがいるため、どうしても気が持っていかれるのだ。
優雅で気品のある所作でティーカップを持つベロニカを見ながら、ヒロインは誰だろうと考えを巡らせる。
最初は可愛い子のみを見ていたが、ぱっとしない普通の子がヒロインだったゲームもあったことを思い出し、容姿を気にするのはやめた。ずっと攻略キャラたちに近づく女の子たちを見てきたが、イベントが起きる様子もなく、彼らが特別思いを寄せているようにも見えない。
(今までなら簡単にヒロインに興味をもってくれるのに)
ヒロインがまだいないのか、特定のルートに入っていないのか、ヒロインがわからなければエリーナも動きようがない。
(攻略キャラたちとある程度関わりがある人って……)
それこそ、目の前にいるベロニカが一番当てはまりそうだ。ジークとは婚約者であり、ルドルフとは幼馴染みたいなものだと言っていた。それにラウルの授業も取っている。
(まさか! 今回のヒロインはちょっときつめの設定なの!? いじわるそうなヒロインは実は純情で、攻略キャラに崩されていくという展開かしら!)
まるで天啓と、閃いたエリーナはパッと表情を明るくし、テーブルに身を乗り出してベロニカに迫る。それに対しまた奇行が始まったわと、ベロニカは冷めた目を向けた。
「ベロニカ様。ジーク様やルドルフ様とお話されている時に、選択肢が出てたりしませんか?」
ある程度エリーナの奇怪な言動には慣れたベロニカだったが、その問いは理解の範疇を超えたようで、ぽかんと口を開けていた。公爵令嬢にあるまじき間抜け顔だ。
「エリーナ。腕のいい医者を紹介しますわ……」
「ストーリーのシナリオが頭にあったりもしませんか?」
ベロニカの目は、ますます残念なものを見てしまったと死んでいく。
「ちょっと、ロマンス小説は控えた方がよろしくってよ」
「それは無理ですわ」
ベロニカは深々と溜息をついて、部屋の隅で控えている侍女にリラックス効果のあるハーブティーを頼む。これでは結婚なんて遠い夢だと頭を痛めるベロニカの気も知らず、エリーナは、ヒロインはどこにいるのと思案顔だ。
(転校生が来るまで待つしかないのかしら……。ラウル先生にそういう話がないか聞いてみましょう)
その後、ベロニカから真剣に医者を紹介され、慌てて大丈夫だからと断ることになるのだった。
その頃、王都のローゼンディアナ家ではクリスが数枚の紙に目を通して、愉快そうに口の端を上げていた。サリーがお茶を淹れ、すっと机の上に置く。その紙はクリスが個人的に雇っている情報屋からの報告書だった。
「ラウル先生に、ジーク殿下、ルドルフ様に、ミシェル君……さすが僕の天使、男たちが放っておくわけがないよね」
報告書を読み終えると、紅茶で喉を潤してからサリーに笑いかける。情報屋には学園内でのエリーナの様子と、近づいて来た男の情報を集めさせている。全てはエリーナが安全に学園生活を送るためだ。
「特に殿下とルドルフ様は頻繁にお嬢様に接触されているそうです」
「ふ~ん。誰が最初に僕のところに来るかな。まぁ、簡単に認めるわけないけど」
報告書によれば、それほど積極的にアプローチをかけているわけではないらしい。探りをいれている段階なのだろう。だが、本気でエリーナを手に入れたいと思うなら、自ずとクリスの下に来ることになる。そのために、夜会でさんざんエリーナを溺愛していることを見せつけたのだ。
人の悪い笑みを浮かべているクリスに、サリーは意外そうな顔をした。
「一応、お認めになるおつもりはあるんですね。てっきり、一生エリーナ様をお離しにならないのかと思っていました」
エリーナに関するものは全て自分のものと情報を集め、余計なものを排除し、過剰なまでに守ってきた。そのクリスが最後は誰かのもとに嫁ぐことを認めるのが意外だったのだ。
クリスは苦笑を浮かべてカップを机に戻す。
「サリー、そこまで僕は鬼じゃないよ。そりゃ、できるならずっとそばにいたいけど……エリーが幸せになれることが一番だからね。エリーが本気で愛していて、一生をともにしたい人が現れたなら快く送り出すさ」
それは父のような兄のような表情で、寂しいがエリーナの幸せを願う家族の顔だった。が、それもすぐに腹黒い笑みにとって代わる。
「その前に、さんざん男の方を試すけどね」
「クリス様……その顔は最近流行りの小説で言う魔王ですよ」
せっかくいい話になりそうだったのに、やはりクリスはクリスだ。
「へぇ、それはいいね。エリーナが姫で……勇者は誰かな?」
そう冗談を口にするクリスはいつもの穏やかな笑顔で、先ほどの表情が見間違いかと思うほど清々しい。
「勇者がしばらく出てこないことを願いますが……」
サリーはそこで言葉を止め、話を変えた。エリーナがいないうちに相談したいことがあったのだ。
「そうそう。最近、エリーナ様の悪役令嬢ごっこに男性の方を罵倒するパターンが出てきたのですが……そろそろお止めしたほうがよろしいのではないでしょうか」
クリスは領地経営で忙しいため、男役は厨房の見習いにしてもらっている。なかなか演技の筋もよく楽しんでいたのだが、エリーナに罵倒されると恍惚とした表情を浮かべるようになってきたのだ。このままでは新しい扉を開いてしまう。
クリスも苦々しい顔をして、頬を引きつらせた。
「……それは、止めさせて。このままだとエリーナ様に罵倒されたい会ができる」
「ずいぶん発想が飛躍されましたね」
「あの可愛い天使のエリーに罵倒されるんだよ? 全員新しい扉を開くに決まってるだろう」
真剣な表情のクリスに、サリーは愛想笑いを返しておいた。時々、主人の思考がわからなくなる。
「かしこまりました。学園では普通に過ごされているのでいいのですが、いつ悪役令嬢のように振舞われるかと心配なんです」
子どもの頃は遊びだとサリーもノリノリで加わっていたが、最近はどんどん仮想敵がいるのではと思えるほど現実的になっている。
「報告書には上がってないから大丈夫。それに、エリーナは悪役令嬢にはなれないよ」
「……どうしてですか?」
小首を傾げるサリーに、クリスは小さく笑った。
「悪役令嬢として振舞うのに、小説の中では誰が必要?」
「……ヒロインと、三角関係になる男性ですね」
ロマンス小説の愛読者であるサリーはさらっと答える。
「そう。つまり、まずはエリーナが誰かを好きにならないといけないし、そこにライバルが現れないといけない。ねぇ、この僕がライバルの出現なんて許すと思う? エリーナにそういう兆候が見えた時点で、外堀を埋め尽くすよ」
「……やはり、魔王。ラスボスですね」
「そうだよ? なによりも、お姫様を想ってるラスボスだからね」
窓から吹き込んできた風が、クリスの赤錆色の髪を揺らす。本気か冗談かわからない言葉が、風の中に消えていった。




