179 恋する令嬢の背中を押しましょう
エリーナによる悪役令嬢レッスンも終わりを迎え、ナディヤは以前よりはおどおどすることが少なくなった。悪役令嬢になりきるというのは、ただのきっかけにすぎない。上手くできれば褒め、自信をつけさせていく。その過程でナディヤは確実に変わっていった。
そして今日、ナディヤはシルヴィオと二人で会う約束をしている。画廊に出していない絵を見せてもらうらしい。そのためナディヤはエリーナのところでドレスに着替え、リズが髪を櫛でといていた。エリーナは紅茶を飲みつつ、ナディヤの変貌を鑑賞している。
リズがナディヤの前髪をいつものように編み込み、サイドに流そうとした時に声がかかった。
「あの……前髪を切ってもらえませんか?」
「え? 切るんですか?」
目にかかっているうっとうしい前髪だ。今までは顔にかかっていないと落ち着かないというので、眉の下で止まるように編み込むだけにしていたのだ。
「はい。変わろうと思って」
前髪は編み込むために左右にわけており、琥珀色の瞳が明らかになっている。そこには強い意思が込められており、リズがエリーナに顔を向けて意見を伺えば頷き返された。
「存分にやっちゃいなさい」
「かしこまりました!」
前髪を切ってしっかり目を出せば、うんと可愛くなる。リズは髪切り用のはさみを用意し、前髪を少し水で濡らして切っていく。王女付きの侍女たるもの、簡単な散髪くらいお手の物だ。そしてものの数分で前髪は軽くなり、きれいな瞳がしっかり見えるようになった。雰囲気が明るくなり、眉が少し見えるので表情が分かりやすい。
「きれいね」
思わず鏡越しに見たエリーナもそう賞賛の言葉を漏らす。最後に後ろの髪を軽く編んで、流せば可憐なご令嬢ができあがりだ。
ナディヤは立ち上がって二人に向き直り、背筋を伸ばして胸を張った。特訓の成果が生きている。
「今まで、ありがとうございました。わたくし、今日という日を一生忘れません」
すでに瞳に涙が滲んでおり、エリーナは扇子をパシリと掌で打ち鳴らした。
「なんでまだ告白もしていないのに思い出にしようとしているのよ。ほら、これを持って行きなさい。お守りよ」
エリーナは愛用の扇子をナディヤに渡し、軽く肩を叩いて微笑んだ。
「ナディヤなら大丈夫。肩の力を抜いて、楽しんでおいで」
「……はい!」
ナディヤは控えめに笑って、リズと共に部屋を後にした。シルヴィオが指定した部屋は、王族の居住区にある小部屋だった。エリーナの部屋からも近い。リズがノックをするとシルヴィオの声が返り、ナディヤは身を固くする。
「深呼吸してください」
リズは小声でナディヤに最後の言葉をかけ、ドアを開いた。
「よく来てくれたね。ナディヤ」
「本日はお招きくださりありがとうございます」
ナディヤが中に入り、ドレスをつまんで挨拶をしたところでドアが閉まる。部屋の中は二人きりだ。ドアの向こうにはリズが控えているとは言っても、緊張する。
「ナディヤ、こっちに来て。あれ、前髪切ったんだね。似合っているよ」
「あ、ありがとうございます」
気づいてもらえたことが嬉しくなり、ナディヤは少し顔を赤くして近づいていく。
部屋には壁一面にシルヴィオの絵がかけられており、どれも画集に載っていないものだった。ナディヤは引き寄せられるようにシルヴィオの側に寄り、一際大きな絵を見上げる。城の庭園を描いたもので、記された年を見れば一年ほど前のものだ。
「僕は庭園が好きでね。日によって、時間によって景色が違う庭園をよく描いているんだよ」
シルヴィオは人を描くより自然を描く方が好きで、全体的に風景画の方が多い。
「美しい線ですね。この光の感じが、透明感があってきれいです」
ナディヤはこの前よりだいぶ落ち着いた様子でシルヴィオと話をする。シルヴィオと話している緊張より、見たことのない絵を見ている感動のほうが大きいのだ。そして一つ一つシルヴィオの説明を聞きながらじっくりと鑑賞する。絵の世界に入り込んでいるナディヤが好ましく、シルヴィオは温かい視線を向けていた。
そして最後の絵には布がかけられていて、ナディヤは不思議そうにそれを見る。
「これが、今の僕の最高傑作だよ」
そう言いながらシルヴィオが布を取れば、明らかになった一枚の絵にナディヤは息を飲む。
「信じられません……」
それは、エリーナと二人で描いてもらったあの絵だった。その時に見たものよりも人物は立体的に、背景は細かく描き入れられている。絵の中のナディヤは笑っており、楽しそうな雰囲気が伝わってくる。
目を丸くして驚いているナディヤを見て、シルヴィオは満足そうに笑った。
「すごく筆がのってさ、ここまで楽しかったのは久しぶりだよ」
「私じゃないみたい……」
鏡の中でもこんなに笑顔を浮かべていはいない。
「いや、これが君だよ。君はあまり感情が表に出ないけど、あの時はこんな感じで笑っていた」
「……幸せそうですね」
「幸せに、なるんだよ」
ナディヤはその言葉が心に染みて、そっと視線をシルヴィオに向ける。金色の瞳と視線が交差すれば、心臓が飛び跳ねた。絵画が霞むほどの美貌。その隣に、自分は立てるのか。
(無理……だわ)
気弱で引っ込み思案な自分に負けないようにしてくれたエリーナには感謝している。だが、それでもシルヴィオの隣にいる自分は思い描けない。
(だからせめて自分の気持ちに嘘をつかないように……諦めるために)
区切りをつける。そう思えば、不思議と心は落ち着いてきた。シルヴィオは恋人の話が尽きない人だ。ナディヤの小さな想いぐらい、簡単に受け止めて、忘れてくれるだろう。ナディヤは最初から、断られる前提でここに立っている。
「シルヴィオ様は、お優しいですね」
「そう? クリスには意地が悪いって睨まれてるけど」
「いえ……お優しいです。ですから、どうか戯言を聞き流していただけないでしょうか」
この恋に終止符を打つための言葉を、ナディヤは紡ぐ。




