164 気弱な令嬢を支えましょう
「すごいね、ナディヤ嬢。僕でもそこまで絵について話せないのに」
その麗しい弦楽器のような声が届いた瞬間、ナディヤは顔色を無くし固まった。エリーナが振り向けば穏やかな笑みを浮かべたシルヴィオが立っている。
「シルヴィオお義兄様、どれも素晴らしい絵ですわ。ナディヤが一つ一つ教えてくれて、とても勉強になりましたの」
エリーナは微笑みを浮かべ、不自然にならないようにナディヤを会話の中に入れようとする。もちろん今日、ナディヤと画廊に遊びに行くことをシルヴィオに伝えたのはエリーナだ。時間があれば絵について教えて欲しいとお願いしておいた。
シルヴィオは絵の方を見たまま固まっているナディヤの前に回り込み、顔を覗き込んだ。
「ナディヤ嬢。僕の絵はどうだった?」
魅惑の笑みが炸烈する。突如視界に神々しいシルヴィオが入り込んできたナディヤは、今度は顔を真っ赤にして水から上げられた魚みたいに口をパクパクさせている。突然のことに思考が停止しているナディヤをエリーナはつつく。
「ほらナディヤ、殿下の言葉にお答えしないと不敬罪になるわよ」
少し心は痛むが、気弱な子には罰がよく効く。背中を撫でてあげるのは忘れない。ナディヤはハッと顔を強張らせ、震える口を開いた。
「シ、シルヴィオ殿下におかれましては、ご機嫌麗しく。す、すばらしい、絵を拝見させていただき、嬉しさのあまり泣きそうです」
「すでに泣いていたわよ」
ナディヤの素直な言葉に、シルヴィオは笑みを濃くして朗らかに笑う。いつもの人で遊ぶような意地悪な笑みではなく、優しい天使のような笑顔だ。
「僕の絵でそこまで感動してくれるなんて、描き手冥利に尽きるよ。君の説明を少し聞いていたけれど、絵を大切に想ってくれていることが伝わって嬉しかった」
「そ、そんな。素晴らしい絵の前では、わたくしの言葉など、塵ほどの価値もございません」
ナディヤはなかなかシルヴィオを直視できていないが、それでもなんとか会話をしていた。エリーナは満足げに頷きながら、話に入る。
「そんなことないわ。ナディヤのおかげで、絵を楽しむことができたもの。もっと自信をもって、ナディヤはすごいわ」
「いえ、そんな……わたくしなんて」
すぐに自分を卑下してしまうナディヤにエリーナは困り顔になる。なんとかしてその容姿と知識に自信を持ってほしいのだが。
「ねぇ、二人にお願いがあるんだけど」
エリーナがどうしたものかと考えていると、シルヴィオがそう前置きをして話し始めた。ナディヤがちらりと顔を上げる。
「次の休みに、絵のモデルになってよ」
「かまいませんが……」
「え、そ、へ、む、無理です!」
一瞬壊れたのかと心配になるくらい、言葉が切れ切れになっていた。
「どうして? こんなに可愛いのに。二人一緒に庭園でおしゃべりしている姿なんて、素敵だと思うな」
「お、お描きになるならエリーナ様だけを……」
完全に腰が引けて殻にこもってしまっているナディヤを見て、シルヴィオは顎に手をやり「ふむ」と考え込む。そしてすぐに何かを閃き、裏のある笑みを浮かべた。幸いナディヤの視界には入っていない。
「ねぇナディヤ嬢。ナディヤ嬢はアスタリアの貴族だよね」
「は、はい。そうでございます」
「アスタリアの貴族は王家に忠誠を誓い、王家を第一に動く義務があるよね」
「はい。誠心誠意お仕えいたしております」
アスタリアは王権が強く、王家・国家の危機には率先して動くという盟約が各家と結ばれている。
「なら、絵のモデルになって僕の芸術に貢献することは、立派な貴族の務めだよね」
「はい……」
「ナディヤ嬢は、慎ましい淑女だから、貴族の務めを果たすよね?」
「そ、それはもちろんでございます……え?」
「じゃぁ、次の休みはお願いね」
さらりとシルヴィオはナディヤを絡めとり、反論が来ないうちに撤退する。
「僕はまだ公務があるからここで失礼するよ。後で正式に書状を送るから、逃げられると思わないでね」
その笑顔の圧は怖かった。ナディヤだけでなくエリーナも気圧され、コクリと頷く。クリスも似たような笑みを浮かべるので、やはり兄弟だと思う。
そして固まる二人を置いて、シルヴィオは颯爽と部屋を後にしたのだった。ドアが閉まった瞬間ナディヤが崩れ落ち、緊張と不安で泣きじゃくり始めたのは言うまでもない。




