119 自分の想いを伝えましょう
エリーナは玄関の前で大きく深呼吸をした。自分の家に帰ってきただけなのに、とても緊張する。そして意を決してそっと玄関を開けて、体を滑りこませた。勝手にベロニカの家に泊ってきたので、少し後ろめたいのだ。
玄関の掃除をしていた侍女が気づいて挨拶をしてくれ、すぐにサリーを呼びに行った。残った侍女にクリスのことを聞けば、クリスは夜に帰って来て気落ちした様子だったという。さすがに使用人たちも二人が喧嘩したことは察しており、気づかわし気な視線を向けられた。
「お嬢様、おかえりなさいませ」
すぐにサリーが出てきて、ほっとした表情をした。
「ただいま。急に泊ってきてごめんね」
「いえ、問題ありませんよ。クリス様は執務室にいらっしゃいますが、着替えてからお会いになりますか」
サリーの様子を見るに、クリスはそれほど怒っていないようだが気は重い。
「……そうするわ」
「かしこまりました」
謝るなら早い方がいい。エリーナは気楽なワンピースドレスに着替えると、サリーに連れられて書斎に向かう。書斎に近づくにつれて心臓の鼓動が早くなっていった。
(まずは謝って、それから……)
エリーナは頭で段取りを立てるが、上手くまとまらない。考えがまとまらないまま、サリーが書斎のドアをノックして開けた。
「クリス様、エリーナ様がお戻りになりました」
サリーが開いたドアから顔を覗かせれば、クリスは書類から顔を上げて目を見開いていた。
「エリー……おかえり」
距離を取りかねているようで、少しよそよそしい。サリーがお茶の準備を始めたため、二人は応接用のソファーに座って向かい合う。そしてサリーがお茶を淹れて出て行ったので、エリーナはぐっと拳を握ってクリスの顔を正面から見た。不安そうな表情を浮かべているクリスは、あまり寝ていないのか疲労が顔に滲んでいる。
「あの、クリス……その、昨日はごめんなさい。言い過ぎたわ」
正直な謝罪の気持ちを口にすれば、クリスは辛そうに眉間を寄せて首を横に振った。
「悪いのは僕のほうだよ……エリーの気持ちを勝手に決めて、選択を押し付けた。戻ってきてくれて、ありがとう」
その今にも泣きだしそうな顔を見れば、どれだけクリスを不安にさせたかがわかった。家族に対する親愛でも、想われていることが嬉しくてエリーナは肩に入った力が抜けていく。
「もちろんよ、だって私の帰る場所はここだもの」
クリスを含めたローゼンディアナ家がエリーナの居場所だ。クリスはそこでやっと表情を和らげて、嬉しそうに微笑んだ。その笑顔に胸が高鳴り、嬉しくなる。二人の空気がいつもと同じ温かなものに戻り、紅茶を飲んで一息ついた。カップを戻したクリスが遠慮がちに話を切り出してくる。
「ねぇエリー……それで、婚約について迷っているなら相談にのるけど……」
一人で決められるわけがないと言ったからだろう。クリスは踏み込んでいいのか迷いを浮かべながら、エリーナの反応を待っていた。だがクリスの心配をよそに、エリーナはあえて軽い口調で返す。
「そのことなんだけど、さっきラウル先生の申し出を断ってきたわ」
「え!? なんで?」
クリスは驚きのあまり、遠慮が吹き飛んだ。どうやらエリーナがラウルを断るのは想定外だったらしい。
「なんでって……先生とは結婚しないからよ」
「でも、エリーは先生のことを慕ってたよね。え、まさかシルヴィオ殿下を?」
「違うわよ。クリス、落ち着いて」
エリーナは混乱するクリスに呆れた顔を向ける。
(クリス、私がラウル先生と結婚すると思ってたのね。だから、昨日あんなふうに言ったんだ……)
エリーナはカップを机に戻して、言葉を続けた。
「私、クリスにローゼンディアナ家を継いでほしいと思ってるの。私にとってこの家はクリスがいて当然の場所だから」
「エリー……」
クリスは感動したようにじっとエリーナを見つめ、目元を和ませた。
「わかった。この家を正式に継ぐ方向で話を進めるよ」
そしてエリーナは自分の正直な気持ちを話す。
「それに、人生ってどうなるか分からないじゃない。だから、焦って婚約しなくてもいいと思うの」
せめて卒業後のストーリーに区切りがつくまでは、今のままでいたい。ゲームが終わった時、次の悪役令嬢が始まるかもしれないし、この世界に残れるかもしれない。
(この世界に……クリスの側にいたいけど、それは欲よね)
今、こうやって自由にこの世界を生きているのは奇跡なのだ。リズの言葉を信じるならご褒美である。だから、いつか元の悪役令嬢に戻ることも覚悟しなければいけない。
「エリー……確かに人生はどうなるか分からないけど、僕はずっとエリーを支えるよ。必ずすぐそばにいる」
その優しい言葉だけで、心は満たされる。
「ありがと、クリス。じゃぁ、私は部屋に戻るわね。お仕事の邪魔をしちゃ悪いし」
そう言って腰を浮かせたエリーナに、クリスが慌てて声を出す。
「あ、あのさ。エリーはこれからも、ここにいたいと思ってるの?」
エリーナは立ち上がり、目を瞬かせた。そして半ば反射的に頷く。
「そうよ」
「そう……わかった。じゃぁ、またあとで」
「えぇ」
エリーナは気がかりなことがなくなって心が軽くなったので、機嫌よく書斎を後にする。なんだか無性にプリンが食べたくなってきた。エリーナは廊下で待っていたサリーを上目遣いでじっと見つめる。
「ねぇサリー。私、アークのプリンが食べたいわ」
「かしこまりました」
そうサリーは答えたものの、呆れたように溜息をついている。
「お嬢様はいつになったら、プリンよりも殿方のことを考えてくれるようになるのでしょう」
「失礼ね、私だって考えることぐらいあるわよ」
「あら……そうなのですか。それはよいことで……楽しみにしておりますね」
ニマニマと面白そうな笑みを浮かべているサリーを見て、うっかり口を滑らせたと、エリーナは顔を青ざめさせた。サリーとクリスは結託しているのだ、男のことを考えているなどクリスに知られたくない。エリーナはひしっとサリーの腕を掴んで訴えかける。
「サ、サリー? お願いだからクリスには言わないでね」
するとサリーはますますおもしろそうに口角を上げ、悪役令嬢の取り巻きのようなからかいの笑みを浮かべる。
「あらまぁ、クリス様には知られたくないんですね」
この時点ですでにつんだ気がする。サリーは恋愛経験がほとんどないはずなのに、鋭すぎるとエリーナは恐ろしくなる。これがロマンス小説から正しく学んだ結果だろうか。
「別にクリスのことがどうっていうことじゃないのよ!?」
「あらあら、私はクリス様のこととは言っておりませんよ」
完全にサリーの手のひらの上で転がされている。
「お、お願いよ。今度、サリーが好きなイケメンマッチョが出てくる小説買ってくるから!」
「ほう。それは致し方ありませんね。このことは私の胸の内に秘めておきましょう」
そしてエリーナの部屋についたため、サリーはそう言い残してプリンを買いに行った。帰ってきたら根掘り葉掘り聞かれるに違いないと、エリーナは今から憂鬱になるのだった。




