115 恋の痛みを知りましょう
卒業式まではあと一か月に迫り、学生たちは浮足立っている。続々と婚約者が決まり始め、安心するものと焦りを強くするものに別れていた。そんな中エリーナは令嬢方に婚約について尋ねられても、微笑みを浮かべてはぐらかしていた。
なにも、必ず卒業までに婚約をしなければいけないわけではない。ただ侍女科の学生にとって就職先が決まるように、令嬢にとっても卒業後の嫁ぎ先が決まっていることは大事なのだ。
そんな中、久しぶりにクリスが一日空いたので、一緒に外出をすることになった。最近クリスは忙しくしており、ここ一か月ほど遊び目的で外出することはなかった。
「たまには、こうやって遊びに行くのもいいよね」
揺れる馬車の中で、クリスは朗らかに微笑む。その笑みを見るだけで、エリーナまで嬉しくなり自然と口角が上がった。
「久しぶりにゆっくりできるものね」
今日は特に予定を決めておらず、王都の繁華街をぶらぶらと回る予定だ。繁華街を進む二人は、新しく入ったお店を巡り可愛い雑貨などを見ていく。今までと同じおでかけなのに、エリーナの心は浮き立っていた。それを悟られないように、いつもと同じ表情を心掛ける。
「エリー、これよく似合いそう」
とクリスは可愛い飾りがついた髪飾りを手に取って見せてきた。
「可愛いわね」
そして、「つけてあげる」とクリスが近づいてき、その指が優しく髪に触れた瞬間ドキリと心臓が跳ねた。目の前にクリスの胸があり、聴覚が敏感になったのか息遣いまで聞こえてくる。無意識に息を詰めてしまい、クリスがすっと離れた後でそっと息を吐いた。クリスは、エリーナを上から下まで見て頷く。
「やっぱり、よく似合っている」
鏡で見せてもらうと、紫色のガラス玉と花をモチーフにした銀細工が施された髪飾りは、エリーナのプラチナブロンドの髪によく合っていた。
「軽いし、いつもつけていたいわ」
「いいね。じゃぁ、それにしよう」
いつもと同じ贈り物も、気持ちが変われば特別なものに思える。エリーナは嬉しそうにさっそく髪飾りをつけ、上機嫌で店を出たのだった。
そして買い物が終わると、いつも通りカフェ・アークでお茶をする。個室の一つに通され、エリーナはプリン・ア・ラ・モードとクレームブリュレを頼んだ。いつ食べてもおいしく、プリン・ア・ラ・モードは季節によって添えられている果物が異なる。それも楽しみの一つだった。しばらくは学園のことや、領地のことについて話をする。
その後、クリスは紅茶を飲んだカップをソーサーに置き、テーブルに戻してからエリーナに視線を向けた。その瞳は真面目なもので、クレームブリュレを口に運んだエリーナは目を瞬かせる。
「エリー、ルドルフ殿とミシェル殿のエスコートを断ったんだって? つまり、彼らと婚約をしないってことだよね」
「うん……そうよ」
エリーナはその時の胸の痛みを思い出して声を落とし、スプーンを皿の上に置く。
「ジーク殿下は側妃を取らないとおっしゃってたし、ラウル先生を選ぶつもりなの?」
キシキシと心が悲鳴を上げる。クリスの声はいつもの会話と変わらないことが追い討ちをかける。クリスに婚約について話されることが、これほど辛いとは思わなかった。当主代行で義理の兄であることを、まざまざと突き付けられたようだ。心を落ち着かせるため、膝に置いていた左手で強く拳を作った。
「それは……」
ラウルは、クリスがいなければ真っ先に婚約相手として選んでいただろう。誰よりも親しみを感じ、尊敬している。だが、恋をした相手ではないのだ。きっと今のままラウルに嫁いでも、本心を偽った後ろめたさで笑えなくなる。
「卒業までに決められないなら、エスコートは僕がしてもいいけど」
エリーナの沈黙を迷いと捉えたのか、クリスはそう提案する。だがそれは、家族としてエスコートをするという意味だ。エリーナは物悲しくなり、それを押し流すように紅茶を飲む。なぜか紅茶は苦く感じた。
「考えるから、心配しないで」
つい冷たい言い方になってしまった上、クリスの視線を受けることができず、エリーナは空になったカップに視線を落とす。エリーナの心は、そのカップのように空虚だった。
(クリスは、どうしたいのかしら。私の婚約者が決まったら、結婚したい人がいるのかしら……)
エリーナは選ぼうにも、一人だけでは心細くクリスの意見も聞きたかった。昔は簡単に訊けたが、今は答えが怖くて訊けない
(でも、知りたい)
知らなければ、何もできない。だが、エリーナが視線を上げて口を開こうとしたした時、クリスの重く静かな声が聞こえた。
「僕とディバルト様の契約は、卒業式までだからさ。その後はエリーナの選択によるんだけど、僕のことは気にしなくていいから安心して」
それは、クリスがローゼンディアナ家を出るか残るかの大きな選択だ。卒業式の選択が、そのままクリスに直結することを実感して、エリーナは握る拳にさらに力をいれた。すでに拳は白くなっている。
(つまり、クリスはその後を見越して動いているということ……?)
契約は卒業式で一度切れる。つまり、その後は他人となる。
「だから、最近忙しそうだったの?」
声が震えないようにするだけで精一杯だった。ピシピシと心に罅が入っていくようだ。
(クリスは出て行きたいの? 一緒にいて欲しいと思っているのは、私だけなの?)
ここに来て、クリスが分からなくなる。いつも一緒にいたはずなのに、家族のように近い存在だと思っていたのに、本当は一番遠い存在だったように思えてきた。罅が徐々に広がっていく。
「まぁ、色々と手続きもあるから……。エリー、そんな深刻な顔をしなくていいよ。好きに選べばいい。僕はエリーの選択を一番に考えるからさ」
そして、寂しそうに微笑み言葉を続けた。
「それに、ラウル先生なら僕も安心だから」
その言葉を突き付けられた途端、エリーナの心が砕けた。ポタリとテーブルクロスの上に涙が落ち、広がっていく。それは二滴、三滴と滲んでいった。
「エ、エリー!?」
クリスは上ずった声を出して立ち上がった。椅子が乱雑に引かれ、音を立てる。
エリーナは涙を拭うこともせず、悲しみと怒りに頬を引きつらせた。本当は笑いたいのに、正直な心は悲しみを、苦しみを訴える。歪な表情になった。
「クリスは? クリスはどうしたいの? クリスはいつも私を優先してくれる。でも、クリスの気持ちも教えてよ! 今のままじゃ選べないわ!」
偽りのない本音が口から飛び出す。
「クリスは全てを私に任せようとするけど、簡単に選べるわけないじゃない! なんで一緒に考えてくれないのよ。なんで、いつも外から見ているだけなのよ!」
エリーナが激情のままに言葉をぶつければ、クリスは顔面蒼白になりさし伸ばそうとした手は途中で止まっていた。その表情が目に入った瞬間、言い過ぎたと気づくがもう遅い。エリーナは立ち上がり、キッとクリスを睨みつける。
「今日はベロニカ様のところに泊るから、帰らないわ」
そう捨て台詞を言い残し、エリーナは足音荒くカフェ・アークを後にした。残されたクリスは呆然と呟く。
「エリー?」
クリスの思考はまとまらず、ただ取り返しのつかないことをしてしまったという思いだけが心を占めている。そして重い足取りで店を出れば、夕焼けの赤さが胸にしみる。鉛のような足が向くのは、唯一本心を零せる友の場所。
赤い夕陽はクリスの後ろに細く長い影を残していた。




