98 先生と踊りましょう
夜会には元々ゴードン家と関わりがあった人たちが集まっており、ラウルの門出を温かい気持ちで祝っていた。隠居したラウルの両親も参加しており、涙を流す人たちに囲まれている。それだけで、どれほど人望の厚い人だったのかがわかった。
夜会の始まりでラウルが堂々と挨拶をし、はにかむように笑う姿が印象的だった。さすが教員を務めているだけあり、人前で話すことには慣れている。その姿を見て、侍女や従者たちは涙ぐんでいた。
歓談の時間が流れ、エリーナはルドルフやベロニカと話をする。ラウルの下にはひっきりなしに人が訪れており、それを遠目に眺めていた。先ほど話を済ましたため、夜会では最後に挨拶だけするつもりだ。
「先生、ご令嬢方に人気ですね」
「そりゃ、あの容姿で職も確か、おまけに伯爵位に戻られたとあればご令嬢たちは群がるわよ」
「エリーナ嬢、嫉妬しているのか?」
からかうようなルドルフの言葉に、エリーナは少し考えるそぶりを見せてから首を横に振った。
「先生の新しい一面を見て、不思議な気持ちになっているだけですわ。なんだか遠い存在になったみたいで」
「何言ってるの。逆に近い存在になったのよ。伯爵位に就かれたんだから、結婚するのに何の障害もないわ」
はっきり結婚を強調するベロニカに、ルドルフが余計なことをと眉間に皺を寄せる。
「結婚ね……」
子どもの時から側にいてくれたラウルは、クリス同様家族のような存在だ。恋をして結婚する存在とはどうも思えない。それが顔に出ていたのか、ベロニカが扇子でエリーナの腰を軽くつついた。しっかりしろと言うように。
「いい加減目覚めて欲しいものだわ」
「え、わたくしはいつも起きてますよ」
「その頭に恋愛成分を注ぎ込んであげたいわね」
額に手をやっているベロニカと、苦笑いを浮かべているルドルフを交互に見てなんとも居たたまれない気持ちになる。そしてそうこうしているうちに、楽曲の曲調が変わりダンスが始まった。ベロニカはルドルフと踊って来るわねと微笑を浮かべて広間の中央へ進む。
エリーナはいつも最初にクリスと踊っているため、クリスを待つため壁際に移動しようとしたのだが、その背中に声がかかった。
「エリー嬢」
「ラウル先生?」
公の場ではエリー嬢と呼ぶことにしたようだ。ラウルは大人の色気を感じさせる笑みを浮かべ、エリーナに手を差し伸べた。
「私と一曲踊ってくださいますか?」
「先生……はい、もちろん」
新しい当主のお披露目会で、最初に踊る女性は特別な意味を持つ。お世話になった方だったり、婚約者だったり、意中の人だったり。エリーナが照れた笑みを浮かべてその手を取ると、会場が少しどよめいた。だが大半の人が、ラウルがローゼンディアナ家で長年家庭教師をしていたことを知っているため、当然だと受け入れている。
よく見ればその中でクリスも微笑して軽く手を振っていた。クリスの了承も取ったのだろう。
ラウルにエスコートされて、中央へと進む。踊る人たちが場所を開けてくれたため、二人は大きなシャンデリアの下で向き合った。眩い光に包まれるラウルは別人のようで、エリーナは惹きこまれる。そして、夢見心地で曲に合わせてステップを踏んでいった。ラウルはまだ少し硬く、踊り慣れていないのが伝わって来た。
「ダンスは昔からあまり得意ではなく、これ幸いとさぼっていたつけが回ってきましたね。上手く踊れずお恥ずかしい」
「そんなことないわ。ねぇ、こうして踊っていると昔を思い出すわね」
ラウルと踊るのは初めてではない。まだラウルが家庭教師だったころ、ダンスの相手役として練習に付き合ってもらっていたのだ。クリスが来てからは背の近いクリスとばかり踊るようになってしまったが、今でもよく覚えている。
「はい。あの時と比べると、本当に美しく成長されました」
「先生も、いい大人になったわ」
出会ったばかりの時は青年という印象だったが、踊っていると背の高さや筋肉の付き方、凛々しい顔つきが大人のものになっているのを強く感じる。思えばもうラウルは二十八だ。
濃い藍色の髪の隙間から覗く灰色の瞳は、心地よい熱を持っている。その瞳にエリーナの心臓が跳ねた。そしてラウルの口が動く。
「えぇ、私も男ですからね」
その言葉に、頭が揺さぶられた気がした。一瞬頭が真っ白になって、心が遠くに飛んでいく。それでも足だけは正しく動いていた。突然表情が固まったエリーナに、ラウルが不思議そうに小首を傾げた。
「エリー嬢?」
「だ、大丈夫よ。少しぼんやりしただけ」
慌てて意識を戻し、笑顔で取り繕う。ステップが少し乱れたが、なんなくごまかした。
(男の人……先生は、家族のような人だったけど、男の人なんだわ)
乾いた砂に水がしみわたるように、その事実が胸の奥に入ってくる。エリーナは頬が赤くなるのを感じた。その後は、気恥ずかしくなってラウルの顔を碌に見ることができなかった。
そして一曲が終わるとラウルはエリーナの手の甲に口づけを落とし、真剣な眼差しを向ける。
「私はこれで、やっとスタートラインに立てました。ようやく貴女に手を伸ばすことができます」
その熱を帯びた言葉の意味を理解したエリーナの頬はますます赤くなり、恥ずかしくなって視線を逸らす。
「先生……」
「エリー嬢。私のことをラウルと呼んでくださいますか?」
甘くお願いする表情にエリーナの頭が混乱しかけたところに、誰かが近づく気配がした。
「先生、他のご令嬢方がお待ちのようですよ」
クリスの言葉に顔を周囲に向ければ、令嬢たちが今か今かとエリーナが離れる時を伺っていた。狩をする猛獣のような目に、エリーナはひぃと一歩後ずさる。その腰をクリスに抱かれ、そのままダンスの輪の中へと連れていかれた。
「エリー。先生とのダンスはどうだった?」
クリスとのダンスは意識していなくても、楽に美しく踊ることができる。おしゃべりをする余裕も十分にあった。
「懐かしかったわ。それに、先生が貴族に戻ったんだって実感したの」
先ほどのラウルの表情を思い出すと、顔が熱くなってくる。
(先生はずっと私の傍で見守ってくれていたのね……一人の男性として)
ベロニカの言葉を借りれば、目が覚めたようだ。ぼんやりラウルのことを考えながら、クリスの顔を見つめる。金の瞳が不思議そうに瞬かれた。
(クリスみたいな存在だったけど……)
そう思った瞬間、ざわっと何かが胸の奥で騒ぎ立てた。何かを伝えるようにざわめく。エリーナの視界にはクリスが映っている。その端整な大人びた顔立ちと広い胸幅が。そして握り合う手と腰に回された手の大きさとを感じる。心臓が一際大きく跳ねた。
(違う。クリスもラウル先生と同じ。家族のようだけれど、一人の男性だわ)
今更ながら、以前ベロニカに言われた言葉が蘇る。クリスは結婚相手の選択肢にないのかと訊かれた。その時は現実味がなかったが、今ならわかる。
(クリスも、そういう存在……)
意識するとみるみるうちに顔が赤くなった。先ほどから心臓がうるさくて、クリスにも聞こえるのではないかと不安になる。早くダンスを踊り終えて、壁際に逃げたくなった。
「エリー? 大丈夫?」
声が、顔が、その瞳が甘い。
「ごめんなさい、クリス。ちょっと気分が悪くなってきたから、休むわね」
曲が終わるのを待てず、エリーナはすっとクリスから離れて壁際にあるソファーで休んだ。すぐにクリスが心配そうに後を追ってきて、冷たい水を渡してくれる。
「会場の熱気に当てられたかな。果物を取ってこようか?」
冷たい水が喉を通ると、すっと体を冷やしてくれた。靄がかかっていたような頭もすっきりしてくる。
「エリー、気分が悪いなら帰る?」
床に膝をついてエリーナの顔を覗きこむクリスと目を合わせた。
(あれ、熱くならないわ)
先ほどまでうるさかった心臓も、すっかり元通りである。
「少し休めばよくなるわ。熱気に当てられたみたい」
エリーナは心配しないでと微笑み、もう一口水を飲む。
(きっと、気のせいよ……きっと)
言い聞かせるように内心呟き、体の力を抜いてソファーに背を預ける。そしてベロニカ、ルドルフと合流し、おしゃべりをすれば先ほどの胸のざわめきは消えていったのだった。




