96 幸せのおすそ分けを味わいましょう
ベロニカから幸せな気分のおすそ分けをもらった翌日の放課後。エリーナはお菓子の差し入れを持ってラウルの研究室に続く廊下を歩いていた。研究が佳境に入っているそうなので、ささやかな応援の気持ちだ。
廊下には侍女が椅子に座っているだけで、人影はない。その侍女も奥の部屋のベルが鳴り、対応に向かっていった。ラウルの部屋の前に着くと、中から話し声が聞こえてエリーナはノックしかけた手を止める。先客がいるようで、廊下に置かれたソファーに座って待つことにした。サリーにもラウルを訪ねると伝えてあるので時間は問題ない。
ほどなくラウルの研究室の扉が開き、出てきた人物にエリーナは驚く。
「ジーク殿下?」
「え、エリーナ?」
ジークも驚いたようで目を丸くし、部屋にいるラウルを振り返った。すぐにラウルも顔を出し、同じように驚いていた。
「エリーナ様、いつからそこに?」
戸惑いと申し訳なさが混ざった表情でラウルは廊下に出てきた。エリーナは立ち上がって二人に近づく。
「少し前よ。先客がいると思ったから、そこで待っていたの。研究に勤しんでいる先生に私とクリスから差し入れを渡したくて」
お菓子の詰め合わせといい茶葉が入った袋を渡せば、ラウルは緊張が解かれたように破顔した。
「お気遣いありがとうございます。すみません、今は部屋が散らかっていておもてなしができず……」
「かまわないわ。先生の邪魔をしたら悪いから、すぐに帰るつもりだったし」
ラウルの顔には少し疲れが滲んでおり、研究の大変さを物語っている。それを見たエリーナは、次は疲労回復の効果があるものを贈ろうと決める。
「ありがとうございます。クリス様にもよろしくお伝えください。目途が立ったら伺いますので」
「えぇ、待っているわ」
最後に「無理はしないで」と付け加えると、ラウルははにかむように笑って研究室へと戻っていった。そしてエリーナが研究室を後にしようと歩き出せば、当然ジークも一緒に歩き出す。エリーナは先ほどから大人しく見ていたジークに視線を移した。
「歴史を学ばれていたんですか?」
「あぁ……それと、研究について話を聞いていた。俺も興味があるから」
そして階段に差し掛かった時、ジークは足を止めてエリーナと視線を合わせた。
「エリーナ、少し時間をもらえるか? 話したいことがある」
その表情はいつになく真剣で、エリーナはこくりと頷いて歩き始めたジークの後をついて行った。
ジークは小さめのサロンに入ると、札を使用中にした。そして遠くで様子を伺っていた護衛に合図をして、外に立ってもらう。部屋付きの侍女はいないため、エリーナがお茶を淹れようかと申し出たが、すぐに終わるからとやんわり断られた。
その対応に大人びた印象を受け、エリーナは知らず知らずのうちに背筋が伸びる。ジークの王族としての風格が上がり、面と向き合うと気が引き締まって来た。普段は気さくで奔放な部分に引っ張られるが、元々カリスマ性はあったのだ。
ジークは静かに息を吐いてからエリーナを見つめた。体に力が入っており、緊張しているのが伝わってくる。
「エリーナ。俺は卒業したら、ベロニカと結婚することになった」
「えぇ、聞いておりますわ。おめでとうございます」
それは素直に喜ばしいことで、エリーナは微笑みを浮かべて頷いた。
「今まで色々と迷惑をかけて、すまなかったと思っている。会食の時にお前の意思を聞き、今後エリーナを側妃に迎えることはしないと決めた」
「ベロニカ様からも聞きましたわ。わたくしの側妃入りに反対されたと。ありがとうございます」
そうお礼の言葉を口にすれば、ジークは照れたように視線を逸らして「ベロニカのやつ」と恨みがましく小さく呟いた。エリーナに伝わっているとは思っていなかったらしい。そしてジークはエリーナに視線を戻すと、口調を強くして想いを口にする。
「最後に、これだけは言っておく。お前を好きになった気持ちは本物だからな。でも、ベロニカが妬くから諦めてやるだけだ」
尊大な言い方だが、そこにはエリーナへの優しさとベロニカへの愛情がある。ベロニカについて口にした時、少し嬉しそうに表情が和らいだのをエリーナは見逃さなかった。
「今頃お気づきになったんですか? ベロニカ様はずっと殿下のことを想っていらしたのに……プロポーズ、してあげてくださいね」
今回結婚が決まったのも、二人の意思ではなく政治の兼ね合いが強い。そのため、王家から通達があっただけでジークから言葉をもらったわけではないのだ。そう事情を話したベロニカは何も不満を口にしていなかったが、エリーナの目には残念そうに見えた。
「プロポーズ……そうだな。俺達は意地っ張りだからな。今回ぐらいは、俺が折れるか」
そう一人納得して何回か頷くと、嬉しそうに微笑んだ。強い意思を瞳に映してジークは言葉を続ける。
「俺は変わる。皆の幸せを守り、この国を正しく導けるように」
それはジークが自分の目と耳でこの国を感じ、ラウルの下で学んだ末にたどり着いた答えだった。自らの目指す為政者としての姿だ。
「素晴らしいですわ。ベロニカ様は必ず支えてくださいます」
そう言葉を返せば、ジークはこそばゆそうに、はにかむのだった。そして、優しいまなざしをエリーナに向けて問いかける。
「エリーナの幸せは何だ」
「幸せ、ですか……」
唐突に訊かれてもすぐには答えられない。
(わたくしの幸せ……わたくしは今が幸せだわ)
エリーナとしてクリスやベロニカ、リズにジークを始めとする皆と過ごしているこの時が、今までの悪役人生も含めて最も幸せだと胸を張って言える。そのため、エリーナは満面の笑みを浮かべてはっきりと言い切った。
「私の幸せはみんなと仲良くして、ロマンス小説を読んでプリンを食べることですわ」
そのなんともエリーナらしい答えに、ジークは噴き出す。
「そうだな、それがエリーナだ。俺はその幸せが続くように、全力を尽くす」
そしてジークはしばらく笑っていたが、「長く引き留めてすまなかった」と話を切り上げ、そこで別れた。今日の夜はベロニカと観劇をする予定らしく、仲睦まじい二人にエリーナは頬が緩むのを止められなかった。
そして廊下を歩き、サリーが待つ門へと向かう。
(ベロニカ様もジーク殿下も幸せそう。恋って、いいものなのね)
夕日の中をエリーナはサリーと歩く。エリーナの心は夕日のように優しく温かなもので溢れていた。




