黒髪の獣人
☆ハンナ(パン工房の人)視点
獣人の娘はビーチャに連れていかれた。私は庇ってやったが、あの娘が胸ぐらを掴み返すものだから、それも無駄だった。
やり過ぎるのを止めるために、いえ、正確にはビーチャが拳を痛めて仕事に支障が出ない様にするために、デニスが付いて出ていった。
全く、身を弁えない獣人なんだから。軽く痛め付けられて、今後の生き方を学んだ方が良いわね。
獣人は不浄の存在。小さい頃からそう教わっている。悪人が死んだら、罰として獣人に生まれ変わる。そんな昔話を親からたくさん聞いた。あいつも前世では殺人とかしているに違いないわ。
人から生まれるのに、人でない。育っても不幸なんだから、生まれた瞬間に殺した方が良いのよ。
親がその責任を放棄した結果が、あの兎だし、あの黒髪の娘。あれ、あの黒髪は何の獣人なんだろう?
まぁ、いいわ。獣人に違いはないのだから。クルスさんが獣人が来るぞって言ってたし。むしろ、一見が人間の獣人って悪質ね。クルスさんから聞いてなければ、普通に会話して、私も穢れるところだったわ。
王都に住まわせなければ良いのにって、皆が言っているけれども、お城の人たちは気にしてないみたい。むしろ、田舎からも連中を呼び入れてるのよね。
どうせ王都に来ても十年も持たずにガリガリになって死ぬんだから、無意味どころか害しかないと思うわ。
私は生地を捏ねている。
強く捏ねないとコシが出ない。だから、重労働。しかも、うちで扱っている小麦粉は三級品、それに、他の麦粉も混ぜているから、一度だけクルスさんが作ってくれた貴族様が食べるような白いパンとは違う。ふっくらもしない。
にしてもラッキーだったわ。
以前の職は、場末の飲み屋の女給。安月給だったけど、その日の残り物をくれるから、食うには余り困らなかった。一人で生きていくには充分だったなぁ。
でも、先月に兄さんが死んで、その子供を引き取ったから、夜の仕事は出来なくなった。
それで、雇い人の募集がないか飛び込んだのがこの工房で、たまたま転職者がいたらしく採用された。
不浄な獣人が清掃人として在籍していたのは誤算だったけど、夜には病気がちの子供と一緒にベッドで眠れる様になった。
っていうか、汚い獣人が掃除や洗い物をするっておかしいのよね。余計に汚れると思うわ。
あっ、でも、ストレス発散にイビるのは楽しかったな。
だいぶ仕事に慣れてきた証拠ね。筋肉痛もしなくなったし、考えながらでも、生地を捏ねる事が出来るようになってきたわ。さて、これを一日寝かせてと。
私はボウルに入れた生地をパンのベッドに置く。ここに生地を置いておくと、何故か膨らむのよね。日によって膨らみ方が違うのは、パンの神様が気分屋だからって、皆は笑っていた。
洗い場に続く扉が開かれた。戻って来たのは、当然、ビーチャとデニス。
ふん、あの獣人も獣人ね。下手したら、骨の一本くらい折られているかもしれない。
……昨日の金貨の礼に、簡単な手当てと食事くらいは用意してやるか。私にイビられたくなくて、あんな大金を出して来たんでしょうが、全く恩着せがましいわね。……いえ、助かったのは間違いないか……。
!!
ふ、二人のズボンが股間を中心に血塗れだ!! えっ、何!?
そんなに血を流しているのに、どうして二人とも無表情でキビキビと歩いているの!?
あの獣人に何をしたら、そんな所に鮮血が付くのよ!
私の見間違い!? 夕暮れの光で錯覚したかな。
私の横に立つビーチャの股間を改めて見たけど、完全に真っ赤な血だったわ。えー、死んでるんじゃないの、あの獣人?
勘弁してよ。死体を運ぶの、私は嫌だよ。重いから。
ビーチャは黙々とパンの成形を始めた。普通に仕事の続きをしているのよね?
でも、「ハハハ、獣人の癖に生意気だったからな!」とか自慢気に喋る性格のヤツだと思うんだけど。
「ビーチャ? あの獣人…………死んだの?」
私のその言葉にビーチャは動きを止める。そして、体を激しく震わせる。
えっ!? 何、何!?
「10回……くらい、死んだ……」
どんな表現よ。笑うポイントが分からないわ。でも、そっか、あの獣人、変わっていたけど死んだのか……。
……次の休みにお花を供えるくらいしてあげるか。
それにしても、乾いてもない血を付けたままでパン作りって、こいつ、ダメね。こいつのパンだけは食いたくないわ。
「ビーチャ、股間の――」
「ひっ! 許して!」
……? 殺す気はなかったからとかで、罪悪感にでも苛まされているのかしら。まぁ、野良犬を棒で叩いた時でも、当たり所が良過ぎて、そのまま弱って死んだら嫌な気分になるわよね。
ビーチャって、意外に繊細だったのね。
もういいや。私は生地を捏ねる仕事に専念しよう。捏ねてたら、その内、詰まらない事も考えなくなるし。
「おい! 全然、パンが足らんぞ! どうなってるんだよ!?」
誰かの怒り声で意識を戻す。生地を捏ねる腕は動き続けている。
この声は、焼いたパンを納める販売店の責任者だ。クルスさんとよく飲んでいて仲が良い様子だったから、こんな乱暴な言い口をするとは思っていなかった。
彼が怒っている理由であるパンの不足は、実はもう予測が付いていた。ビーチャが半焼きでパンを取り出すものだから、それだけで予定が狂ったのよ。あれをもう一度焼いても良かったんだけど、味が悪くなるのよね。一応、皆は職人だから、中途半端な物は売れないって判断したの。
でも、何よりも、一番腕の立つクルスさんが3日も無断欠勤なのが原因。性格も顔も悪いけど、技術は高いのよね、あの人。
「お前ら、責任を取って貰うからなっ!!」
あちゃー、怒りまくってるわ。誰が対応するのよ? 私は頼りになりそうなデニスを見る。
でも、黙々とパンの形を整え続けていた。突然の騒がしい訪問者を全く意に介していないのが、ちょっと違和感、いえ、不気味。
「クルスさんが来てないんです。すみませんが、また伝えておきます」
デニスの様子を私と同じ様に伺っていたフェリクスが諦め、いつもと違って丁寧な言葉で答える。
「ああ? じゃあ、お前が責任取れよ! 金を払え。今すぐにだ。金貨10枚だな」
……とんでもない金額を言うわね。私達が一年間働いても届かない金額だわ。
「……んな金、ねーよ。バカじゃね」
フェリクスも思わず、いつもの口調に戻っていた。
「あ?」
「あっ、いえ。有りませんよ、そんな大金。金貨なんか一枚もないんですから」
……一枚なら私は家に持っている。昨日、奇妙で哀れな獣人から貰ったから。あぁ、クソ、思い出したわ。子供に使えって、何様なのかしら。生意気だわ。助かったけど。
「こっちだって、お前らに金がねー事くらい知ってんだよ! クルスが工房を辞めた事もな!」
なんだ、無断欠勤でなく退職だったんだ、クルスさん。私達に伝えずとは、水臭いどころか薄情ね。
「昨日、クルスと偶然に出会った。震えるあいつは俺に言ったんだ! 『怖い、怖い。新人、怖い』ってな! ハンナ! お前、クルスに何をした!?」
はぁ!? 私? 何もしてないわよ。
「新人って、お前しかいねーだろ!?」
確かに私は先月入ったばかりのペーペーだけど……。
「……3日前から黒髪の獣人が――」
「ひーーー!!!」
私の発言の途中で予想外の方向から悲鳴が上り、私は飛び上がりそうなくらい驚く。
ビーチャだった。
「ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――」
彼は何回も呟く。どうしたのだろう。……とても怖い。
デニスもガタガタと音を立てながら震えだしている。でも、パン作りの作業は続けていて、成形をしているはずなのに、抑えられない手の震えでグチャクヂャに生地が崩れていく。
「あ? お前ら、訳の分からん事を言って誤魔化そうとしているな? 許さん。おい、ハンナ! お前、今日で首だ。借金は売春宿で返せ」
「はぁ? 何言ってんのよ!」
「お前のガキはもう捕まえた。うちの事務所で預かっている。お前が逆らうなら、明日には奴隷として売ってやるよ」
……嵌められたの……?
状況が全く飲み込めないけど、クルスとこいつに騙されていたと私は深く疑う。飛び入りの素人を雇ってくれた理由は、これか……。
戸惑いと焦りと怒りで、黙ってしまう私の代わりにフェリクスが宥めに入ってくれた。
「ちょ、ナイマスさん。冗談は止めて下さいよ」
「かかか、冗談なんかじゃねーぞ。何なら、お前らが払うか? 本店には伝えてるんだ。工房の人間がクルスを追い出したってな。優秀な職人を失った損害金も込みだぜ」
ぐるりと店内を舐める様に見回すナイマスという男。よく工房に来ていたけど、初めて名を知ったわ。私なんかに教える名前は無かったってことか!
「……すまんな、ハンナ」
フェリクスが呟く。
奥さんがオメデタになったばかりだもんね。仕方無いわ。職を失ってまで私を庇う必要は無いもの。
ほんと絶望だわ。折角、ここまで頑張ったのに。全うな職で生きていけると思ったのに。
結局はお母さんと同じ職業。兄さん、ごめん。あなたの息子は、誰かに託すわ。
「工房が汚くなってるなぁ? クルスがいねーからって、サボってんじゃねーぞ!! クソが!! 最後の仕事だ、ハンナ、清掃係を呼んでこい!」
ナイマスは作業台を激しく蹴って、皆を威嚇しながら叫ぶ。
ふぅ。あの獣人、もう死んでるのよね。裏口から逃げよう、あっ、ダメだ、あの子が奴隷にされちゃうか。
ん? デニスの震えが尋常無いくらいに大きくなっている? 足なんかワナワナして立てないくらいじゃない? ナイマスがそんなに怖いの? だらしない。
ガチャリと洗い場の扉が開く。
私は目を大きく見開いて驚いた。死んだと思っていた黒髪の獣人が歩いて出てきた。
「ひっ、ひっ、ひっ、ひっ――」
ビーチャの奇妙でリズミカルな喉の音が部屋に響く。デニスのガタガタする音と合わさって、想像だけだけど闇黒教団の音楽みたい。
「どこか汚れていましたか?」
「あ? ここだ。早くしろよ! このグズが!!」
獣人は笑顔のままだ。静かに手を上げる。
その瞬間、ビーチャとデニスが目にも止まらぬ速さで、ナイマスの下に駆け寄り、布でゴシゴシと床を拭きだした。ずっと無言。どんな汚れかは分からないけど、彼らの手は止まることがない。
「な、なんだよ、お前ら……?」
異様な光景にナイマスも怖気付いた。ざまぁみろ。でも、何が起きているの?
「くそ、気味が悪いな……。おい、ハンナ、来い!」
強い力で引っ張られた私は、弱々しくしか抵抗できない。兄さんの子供を人質に取られているから。
せめて、こいつが多少の罪悪感でも感じる様に叫んでやるわ。
「止めてよ! あの子は病気なのよ! 私がいなくなったら、看病もされずに死んじゃうじゃない!」
「知るかよ。金貨を10枚払えよ」
……ちぇっ。動じずか。
「金貨10枚ですね。丁度持っていますよ」
獣人が言う。そして、掌を開く。そこには、確かに黄金色の貨幣があった。しかも、たくさん。
「あ? お前、誰だよ?」
「メリナです。ここの工房で働く、天才パン職人です」
「見た事ねーけど」
職人じゃないし、3日前に来たばかりだものね。
「ナイマス、お前、このメリナ様を知らねーて言うのか!? マジで殺すぞ! 絶対に殺すぞ!!」
急に立ち上がったデニスが真っ赤な顔で叫ぶ。絶対に気が触れてるわ。目が血走ってるし。
「ナイマス!! 俺の怒りの鉄拳を喰らうか! あぁ、デニス! 俺が先だからな! 俺が先にメリナ様にご助力しようと思ったんだからな! くそ、殺すぞ! 俺が最初にこいつを殺すぞ! ナイマス、頼む、すぐに死んでくれ! メリナ様を侮辱したな、死刑だ、死刑なんだよ!」
「黙れ、ビーチャ! ナイマスは俺が殺る! メリナ様に捧げるんだよ! 天才パン職人であるメリナ様に捧げるのは俺なんだよ! 死ね、お前も死ね!」
……ヤバイ……。ここの職場、ヤバイ……。
幼い頃にいた娼館でも、ここまでのお客さんは見た事がない。
「落ち着いて下さいね。捧げられても嬉しく有りません。しかし、そこのおっさん、私を天才パン職人と呼んだ事は忘れません。その優れた洞察力、素晴らしいですよ」
「うおーーっ! ありがとうございます!」
デニスは天を衝く様に高々と片腕を上げる。とても嬉しそうね。
その隙にナイマスはほうほうの体で工房の外へ逃げて行った。
「あら、金貨を忘れていますね」
「渡して来ます!!」
「子供も宜しくお願いしますね。連れて来てあげてください」
ビーチャが脱兎の如く追い掛けて行き、遠くからナイマスの悲鳴が高く聞こえる。
……私、助かったのかな?




