82話 コーヒーください
カミラはひりひりと痛む頬を押さえて、呆然としていた。
目の前には赤い顔で睨みつけるユリシーヌの姿。
(パパ様とママ様にも殴られた事…………あ、けっこうあったわ)
セレンディア家はわりと、脳筋教育純情派である。
しかして今はそんな事は重要ではなく…………。
(――――そう。これが男としての情動というモノね)
別名として、欲望とか肉欲でもいい。
元カミラは“それ”に打ち震えていた。
(嗚呼、嗚呼…………私は変わってしまった…………。)
ついさっきまで自覚はなかった。
少しコンパスの長さが違うので、歩きにくいと、ただそれだけだった。
だがこれでは――――。
(――――こんなの、私じゃない)
(私、ではない――――)
自覚した途端、ふつふつと腹の奥底からどす黒い“何か”が、燃えさかる“何か”が沸き上がる。
ぐつぐつ、ぐらぐらとカミラを満たしていく。
人生の全てを賭けて、ユリウスの“女”となるべく努力してきたのだ。
何年も、何百年も経て、漸く手に入れた“理想の体”なのだ。
それを、それを。
この女は。
「くくくっ、はははははははははっ!」
「……ごめんなさいカラミティス。強く叩きすぎましたか?」
「――――くくく、くくくっ。嗚呼、いや。今のは私が悪かったよユリシーヌ。軽率だった。謝罪しよう」
突如として、暗い瞳で笑い出した元カミラに、元ユリウスも他の三人も戸惑いを隠せない。
「いえ、解ってくれればいいのです。――それよりちょっと変ですよカラミティス。大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。優しいなユリシーヌは」
カラミティスは瞳は笑わず、冷たい笑みをセーラに向ける。
長時間の正座で足が痺れ、逃げようにも逃げれないセーラは怖々と問いかけた。
「え、ええと…………やっぱり怒ってる?」
「――――いいや、怒っていない」
カラミティスはしゃがみ、殊更に優しくセーラの頬を撫でながら顔を至近距離まで近づけ。
そして冷たく、冷たく囁く。
なお現時点でセーラは、カミラの覇気に当てられて恐怖により錯乱寸前である。
「なぁセーラ。私は確かにお前の憤りを受け止めると言った。…………言ったが、私が“それ”をどう思うか、反撃しないか等は言わなかったよな?」
「は、はいっ! 言いませんでしたっ!」
「よろしい。――――なら、今私がどう思っているかわかるか?」
女性であった時以上の鋭い声、刃を素肌に差し込まれる様な幻覚を前に、セーラはあらぬ事を答えてしまう。
「ゆ、ユリシーヌ可愛いヤッターとか、そういうのでしょうかサー!」
「十点だけあげようセーラ。後、サーはいらない」
「サー! はい! サー!」
「一割はあるんですねカミラ様…………」
「…………喜んでいいのでしょうか?」
「のんきな事を言ってないで、早く余をセーラから遠ざけてくれ! 漏らしてもしらないぞっ!」
外野の声なんて何のその。
真っ青な顔で失神寸前のセーラに、カミラは重大な事を告げる。
「くっくっくっ…………貴女は愚かだなセーラ。その愚かさに免じて、一ついい事を教えてあげよう。今回の件、二人の処分は私達に一任されているのだ。――――この意味が解るか?」
「――――ひぃ!」
「え、何それ余は聞いていないぞっ!」
「そうなのですかユリシーヌ様?」
「ええ、カラミティスの言った事は事実です――――ご冥福をお祈りするわ」
ユリシーヌが肯定した事により、ガルドの顔も真っ青になり、セーラに至っては口から泡を吹き始めている。
「なあ、セーラ。私はお前達に……特にお前に、どういう処罰を与えればいいのだろうか?」
怒りが収まらない、という感じの堅い口調。
向けられたセーラも、側で聞いていたガルドもそう思った。
だが、アメリは。
そしてユリシーヌは違った。
言葉の奥に秘められた叫びに、確かに気づいた。
故にユリシーヌはカラミティスを無理矢理立たせると、その顔を両手で優しく包む。
「…………私に触った貴女を見て、何時も通り。私の事が好きなカミラだと思いました。でも、それだけじゃありませんね?」
「カミラ様お聞かせくださいっ! どうしてそんなに――――」
「そんなに、――――悲しい顔をしているのですか?」
アメリの言葉に続いたユリシーヌは、カミラの目を真っ直ぐ見つめる。
確かにそこには、怒りがあった。
憎しみすらあった。
でもそれは表面的な部分だけ、憶測には絶望にも等しい“悲しみ”がそこにはあった。
「嗚呼、嗚呼…………ユリウス、ユリウス…………ユリ、ウスぅ…………」
カミラは肩を震わせて、一筋の水滴を右目尻からこぼした。
本当は、本当は――――。
「――――こんな姿、貴男には見せたくなかった」
「カミラ、アンタ…………」
涙と共に出された言葉に、セーラは呆然と呟いた。
あの時、自身が取った選択に悔いは無いし、もしやり直せても同じ行動を取ったであろう。
だが決して、こんな言葉を聞きたかった訳ではない。
「違うのです、この体は」
「私のじゃない…………」
「この指はもっと細かった。ユリウス様の目を惹き付けられるように、もっと白かった」
「肩幅はもっと小さかった。ユリウス様に抱きしめて貰えるように小さかった」
「この声はもっと高かった。ユリウス様の耳を癒せるように、もっと可憐だった」
「胸も腕も足も、髪の先からつま先の爪に至るまで、全て、全てユリウス様の理想に育て上げたのに…………」
「だから、見ないでくださいユリウス様」
「どうか、見ないでくださいユリウス様」
「私でない私を、見ないでください…………」
カミラの告白に、セーラもアメリもガルドも。
ただただ、言葉を喪った。
唯一ユリウスだけが、優しくカミラを抱きしめた。
「すまないカミラ。俺は、お前の想いに気づいてやれなかった。本当に、すまない……」
「いいえ、いいえ……。ユリウス様が謝る事では無いのです」
「これは、恋人として俺の責任だよカミラ。だからお願いだ。そんなに悲しまないで。いつもの様に笑顔を見せてくれ」
「駄目です……私、こんな体では笑えない……」
か細く答え、静かに泣く腕の中のカミラに、ユリウスはいっそう強く抱きしめた。
抱きしめた感触は、無骨な男の体そのものだったが、確かにこれは、ユリウスの為だけに人生を捧げていた一人の弱い少女そのモノ。
ユリウスという存在を愛してくれる、一人の女そのものだ。
故に、ユリウスは言葉を尽くす。
その心に届いてくれと、真摯に言葉を尽くす。
この身もまた、女になってしまったけれど、カミラに対する“想い”は変わらぬのだから。
「聞いてくれカミラ、俺はお前が好きだ。――お前が今も、その男の姿でも俺が好きな様に、同じ様に、お前を愛している」
「ユリウス様…………」
「今この場で宣言しよう。俺はお前がどんな姿になっても、どんな過去をもっていようとも。今と変わらずお前の事を愛する事を」
優しくも力強く出された言葉に、カミラがゆっくりと顔を上げる。
ユリウスはカミラを抱きしめるのを止め、代わりにその涙で溢れた顔を丁寧に指で拭う。
「正直、俺も今の状況には戸惑っている。男の姿のお前に慣れない。お前もきっと同じなんだろう?」
「ユリウス様、私は、私は…………」
「……今は、無理に言葉にしなくていい。でもさ。嘆き悲しむより、元に戻る方法を、例え戻れなくても一緒に幸せになる方法を探そう。――――俺は、お前と幸せになるって決めているから」
「はい、はい。ユリウス様…………」
再び涙を溢れさせたカミラは、ユリウスの華奢になってしまった柔らかな体を抱きしめた。
ユリウスの時と変わらぬ匂いが、カミラに安心を与える。
(嗚呼、嗚呼…………。私は、この人を好きになってよかった…………)
カミラはへし折れそうだった心が、絶望と怒り悲しみに侵されそうだった心が、光の輝きを取り戻していくのを感じた。
好きな人の、愛する人の言葉は、どうしてこんなにも勇気をくれるのだろう。
「ありがとうユリウス。……いいや、今はユリシーヌか」
「別に礼を言われる事じゃないカミラ。いいえ、愛しいカラミティス」
心から溢れ出る衝動のままに、そっとユリシーヌの細い腰を抱き寄せたカラミティスは、その女らしい顔に片手を添える。
なすがままであるユリシーヌも、それに答える様に、そっと目を閉じた。
「…………いいなぁ」
「ああ、この光景は何故だか心が暖かくなる。これが正しい男女の情なのであろうか?」
「犬も食わぬ何とやらねぇ…………」
すっかり二人だけの世界に入った恋人達は、軽く、しかして長いキスを交わし。
そして名残惜しそうに顔を離した後、どちらからともなく、自然に笑いあった。
なおキスの時間だけで、アメリがブラックコーヒーを豆から挽いて、全員分入れ終わる事が出来た事を記しておく。
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折角の夏休みなんで、どっかでどかっと更新したいですねぇ……!




