第21話
退部届に必要事項を記入しながら、まき子は鬱々とため息をこぼした。
まだ、悩んでいる。
秋園に絵をあげる約束を果たした今、あの美術室に用はない。いや、本当は絵を描きたいが、そんなことは大切な学園生活の前では瑣末なことだ。
しかし、退部届に書く手がたびたび止まる。これを提出したからって絵を描けなくなるわけではないのだが、それでも名残惜しいものがあった。
(在部してるまま、別の場所で描こうか)
あれ? その方が良くない? とまき子はすぐに思い至る。美術室にさえ行かなければ、斗真に会うこともないのだから。
まき子は途中まで記入した用紙を見て、書きかけのまま折りたたんでポケットに入れた。あとで外のゴミ箱に捨てようと思ったのだ。
帰宅するため誰もいない教室から出る。廊下には夕陽がさしていて、豪華な校内を魅力的に引き立てていた。
まるで映画のワンシーンで流れていそうな光景だな、と思いつつ廊下を曲がろうとした時、誰かとぶつかりそうになった。思わず身を引くと、相手も驚いたように止まった。
「あっ、すみません」
軽く謝罪して、顔を上げた瞬間、まき子は息が止まった。
(ーーえっ、なんだこのイケメン)
「俺もごめん。怪我してない?」
イケメンな優男の言葉に頷きつつ、すっげぇ顔が好き、と思った。アイドルのような可愛さと華やかさ、そしてそこから覗く男性らしい骨格や声にまき子は久しぶりにトキメキを覚える。
その彼はまき子の初恋の人によく似ていた。過去の記憶もフラッシュバックしより彼が眩しく見える。
こんなイケメン早々お目にかかれるものではないだろう、とまき子は自分の幸運に感謝しつつ会釈をしてその場を立ち去ろうとした。
しかし、「あっ」というイケメンの声につられてそちらを見る。
「これ、君のじゃない?」
「そうです。すみません」
イケメンが拾ったのは、まき子の退部届だった。それを受け取ろうとして、彼がまき子の退部届に釘付けであることに気がついた。
「あの、なにか?」
「君、まき子っていうの?」
「え? あ、はい」
どうやら彼はまき子の氏名を記入した欄を見ていたらしい。まき子は戸惑いながら素直に頷くと、彼は柔らかく微笑んだ。
「俺、工藤亮太郎っていうんだ。覚えてる?」
(ーー!?)
まき子はビシィッと固まった。さきほど、その人物を思い出したばかりだったからだ。
まき子の初恋の相手は、同じ幼稚園に通う工藤亮太郎だった。
亮太郎とは、家が近くで幼い頃はよく二人で遊んでいた。亮太郎は幼稚園児ながらに見目がよく、女の子に人気だった。当時園児だったまき子も、例に漏れず亮太郎のことを好きになったのだ。
まき子が他の女の子たちと違うのは幼稚園以外でも亮太郎と関わりがあった点である。亮太郎はまき子に優しく、運動が苦手なまき子のために簡単な遊びに誘ってくれていた。
亮太郎の優しさとかっこよさに惹かれて、告白まがいの言葉を連発していた記憶がある。今思い出しても消えてしまいたいくらい恥ずかしい。
幼さゆえの大胆さだが、今となっては黒歴史だ。どうして忘れたいことばかり脳みそに刻まれているのだろうか。
脳裏に溢れ出てくる思い出。
よく遊んだ公園の砂場で、幼いまき子は亮太郎の手を恐る恐る握り上目遣いで尋ねた。
『亮くんは、好きな人いる?』
『好きな人? うーん、内緒』
『まき子はね、亮くんが好き』
『え、本当!?』
『あっ、あのね、好きな人とはちゅーするんだって……。亮くんと、ちゅーしたい』
亮太郎はびっくりした顔でまき子を見た。その顔をまき子は忘れたことはない。そして困ったように笑って、私のほっぺにキスをしてくれたのである。
『お口のちゅーは特別だから、まだだめ』
あの時は本当に萌え死ぬかと思った。喜びと恥ずかしさで、私は茹で蛸のように真っ赤になった記憶がある。
なんてこと言うんだ!!??? 相手が困ってるだろ!!! と過去の自分を張り倒したいくらいだ。今ではトキメキよりも羞恥心と後悔の方が大きい。
結局、まき子の恋は実らず、亮太郎は小学校に上がる直前に家族で引っ越してしまった。告白の返事はもらえなかったが、後日母から『亮くんはまき子のこと好きだったみたいよ。亮くんママがね、教えてくれたの』と言われた。正直嬉しかったが、今となっては本当か嘘か分からないし、なんなら気を遣わせた可能性もある。申し訳ない。
大混乱しているまき子の目の前で亮太郎が手を振って意識を引き戻そうとしてくる。まき子はハッとしてから、知らないふりをしようと決めた。
「人違いでは?」
「え、俺のこと、覚えてないの?」
子犬のようにしゅんとする亮太郎に、まき子の方が折れそうになる。
「ちっちゃい頃、公園でキスーー」
「うわぁぁあああぁ!!!」
まき子は全力で叫んだ。とんでもない声量が、廊下に響く。
驚いたように目を見開いた亮太郎が、嬉しそうに笑った。
「やっぱり覚えてる!」
「いや、あの、いまのは……」
「俺さ、春から前の家に戻って来たんだよ」
「あ、そ、そーなんだ……」
「最初はなんか見たことあるなーと思ったけど、まきちゃんだったんだね。可愛くなってて気付かなかったよ」
(ま、眩しい……!)
まき子は思わず目元を手で覆った。亮太郎の笑顔が輝きすぎていたのである。これはよく見るパリピ(死語)に違いない、とまき子は恐れ慄いた。
一人で震えるまき子に気付かず、亮太郎は楽しげに話す。
「まさか同じ学校だなんて思わなかったなぁ。まきちゃんは隣のクラスだったんだね」
特待生のクラスは二つあるので、亮太郎はまき子とは違うクラスになっていたようだ。
「あー、工藤くん、部活は……」
「なんで苗字なの? 昔は亮くんって呼んでくれたのに」
まき子は白目を剥いた。イケメンの前だろうと関係ない。
あぁ、なんと言うことだ。かつての初恋の人が、超絶イケメンになって帰ってきた。まるで少女漫画のようであるが、まき子は別にヒロインに据え置かれたって嬉しくない。
しかも、男子との関わりがほとんどないまき子にとって名前呼びはあまりにもハードルが高すぎた。なんなら、さっきから‘まきちゃん’と呼ばれるたびに逃げ出したいほど羞恥に駆られる。そのあだ名でまき子を呼ぶのは両親くらいなのだ。
「名前呼びは恥ずかしいって言うか……」
「俺はできれば昔みたいにまきちゃんと仲良くしたいけど」
まき子は亮太郎との間に心の壁を三つほど作った。一つ目は、『パリピ怖い』の壁。二つ目は『羞恥心』の壁。そして三つ目は『何を企んでるんだ?』の壁である。
久しぶりに出会った幼馴染への馴れ馴れしさに、まき子は少し眉を寄せた。
まぁ確かに? 頬にちゅーをした仲ではあるが、それでも十年ほど彼とは会っていないのだ。そんな急に仲良くするなんてこと、人間不信のまき子には不可能だった。
だが一方で、あんたとなんか仲良くするわけないでしょ、と突き放す勇気がないのもまき子の性分である。
「どうしても名前じゃなきゃダメなの?」
答えは分かっているが、渋々尋ねる。亮太郎は無垢な目で、うん、と頷いた。
私を騙そうとしてるんじゃないだろうな? とまき子は思った。あのブスと仲良くするわけねーだろ、勘違いしてやんの、って陰口言うとか!!
まき子の被害妄想など微塵も知らない亮太郎は楽しそうにニコニコと笑っていた。
彼は幼馴染との再会を心から喜んでいたし、話した言葉もすべて本心であったが、悲しいかな、まき子には何一つ伝わっていなかった。
「まきちゃんは帰るところ?」
「うん」
「じゃあ、俺も一緒に帰ろうかな」
亮太郎は楽しそうに笑い、自分のクラスへ荷物を取りに行った。今のうちに帰ろうかと思ったが、さすがに良心が痛み、結局その日は亮太郎と帰ることになった。




