第20話
「斗真さ、撫子のこと好きだったろ?」
流れゆく景色を眺めながら、斗真はハッと意識を戻す。秋園を見ると、彼は真顔だった。
「昔のことだよ」
「だよなぁ。あーあ。俺の奥さん、モテモテで困るわぁ」
秋園は心底嫌そうな顔をする。嫌だったら聞かなければいいのにと思ったが、叔母が初恋なのが恥ずかしくて斗真は余計なことは言わないよう口をつぐんだ。
「叔父さんは、俺のこと嫌いだったでしょ」
「んなわけあるかよ。大切な甥だぞ?」
「嘘。俺が家で撫子さんと一緒にいると睨んできてたよ」
「甥としては好きだし、大事にしてるが、男としては嫌いだったかもしれない」
秋園は隠そうともせず、はっきりと言った。斗真は軽くため息をつく。秋園の撫子に対する愛情は、並々ならぬものであることをよく知っているのだ。
なにせ、秋園が撫子の死後もこうしてまともに生きているのは、ひとえに撫子からの遺言が理由である。人は愛する人を失うと、生きていけなくなるらしい。
斗真には想像もできないが、少し羨ましく感じてしまう。
確かに、斗真は恋をしていた。撫子という美しく、自由な女性に。撫子が病気だと告げられた時も、亡くなった時も、とてもとても悲しかったし喪失感も覚えた。
でも、それでも、自分が彼女とともに死のうとまでは全く思わなかった。天使だった彼女はきっと、あるべき場所に帰るのだと、子どもながらに理解していた。
でもきっと、叔父は違う。
撫子の羽をもぎ取って必死にこの世に留めておこうとしていた。おそらく彼は撫子の体が弱いことをなんとなく察していたのだろう。だから決して、家から出さなかった。
撫子は自由だった。だけど、その自由さの裏には、少しだけ寂しさや歪さ、彼女の体にある不自由さが隠れていたと、今なら思える。撫子の絵が、優しくもどこか切なかったのは彼女の病に対する憂いだったのかもしれない。
「なんか、自由って難しいね」
「急にどうした?」
「撫子さんは、本当に自由だったのかなって」
秋園は、考えるようにしばらく黙っていたが、おもむろ口を開いた。
「あいつは、生き辛そうだった。そういう意味では、自由ではなかっただろうなぁ」
「叔父さんが閉じ込めてたからじゃなくて?」
「馬鹿言うな。愛しい妻でも、そんな雁字搦めに監禁するわけないだろう。彼女は、外に出られなかっただけだよ。陽の光に耐えられないんだ。学生時代はもっと外へ出かけていたが、ある日を境にピッタリと外に出るのをやめてしまった……。あの時から、きっと病は進行していたんだろうなぁ」
秋園は濡れたような声で、寂しげに瞳を揺らした。彼に張り付いた後悔が内側から滲み出ていて、斗真は秋園から目を逸らした。
秋園は気まずげにしている斗真を見て、軽く笑う。
「斗真は、まき子に撫子以上の憧れを感じたんじゃないか?」
ピタリと言い当てられ、斗真は驚いて秋園を見た。そして、こくこくと頷く。
「そう、なんだよね。撫子さんより、ずっとずっと西島は自由で……自由っていうか、傍若無人?」
撫子が美しい天使だとするならば、まき子はまるで王様のような自由を持った人だった。
絵に向かう彼女は、確かに"無敵"だったのだ。
「斗真が言う自由って、アイデンティティとか、自我とか、そういう類のことだろ」
「……そうなのかな?」
秋園は、時々難しいことを言う。哲学みたいな、あやふやなことだ。
アイデンティティ、自我。さっきは強烈な自己とか言っていた。分かるようで、斗真には分からなかった。
「斗真は、何を一番望んでいるんだ?」
言ってみろ、と秋園が言った。
斗真は、瞬きをしながらじっと考える。
友達と自由に遊ぶこと、好きな時間に好きな場所に行けること、興味のあることはとことん追求できることーー父に決められたレールの上から、逃れること。
父の敷いたレールは、まるで綱渡りみたいに細くて、気を緩めることすら許してくれない。一歩も踏み外すことはできず、ひたすらに制限が多い。
大学も職業も、友人も食事も睡眠の時間も、全て父の言われた通りにしか生きてはいけない。
例外は、父の兄である叔父が関わってきた時くらいで、それ以外はこっそりと度々隠れてルールを破ってきた。この前のファーストフード店だって、本当は行ってはいけなかったが隙を見て家を抜け出したのだ。
別に、父が嫌いなわけではない。生徒会も大変だがやり甲斐はある。勉強も嫌いじゃないし、幸い能力には恵まれているのだ。
だけど、今まで進んできた自分の道が、選択が、全て父によってもたらされたものだと思うと、急に腹の底が冷えるような感覚に陥る。誰かの人生をなぞっているかのような、寒々しい感情が沸いてくのだ。自分の存在意義を、見失いそうになる。
斗真は目を瞑り、しばらく黙っていた。
秋園は決して急かしたりしなかった。
「俺は……自分で決めたい。父さんが決めた選択じゃなくて、俺が、俺自身が望んだ道を歩いてみたい」
不覚にも、涙が出そうだったが歯を食いしばって耐えた。秋園に泣かされるなど屈辱だ。
自分を押し殺すようにして生きてきた斗真にとって、思い切り感情を露わにするまき子の姿は羨ましいものだった。
「斗真。自由っていうのはな、大人になるにつれて増えていくようで、その実失われていくものなんだ」
「そうなの? 大人になったらなんでも自分で決められるよ。仕事も結婚もお金もなんだって自由だ」
「そうだな。だけど、大人の自由の裏には、数多の責任と感情と世間体と……いろんな要素が絡んでくる。本当はやりたいと思っている"夢"にすら、沢山の枷が絡みついてくるもんさ」
「んー、なるほど。なんとなく言いたいことは分かるかも」
「大人になるっていうのは、失敗を繰り返し臆病になっていくことだからなぁ」
秋園は皮肉げに笑った。斗真は、自分の父もそうなのだろうかと思った。
「失敗し続けてどん底に落ちても、信じて続けていけばうまくいくかもしれないのにね」
「恐れず、折れず果敢に立ち向かっていくのが若さってやつさ。別に、大人が悪いってわけじゃないぞ? 人生のどこに比重を置くかで価値観なんて変わってくもんだからな。斗真はきっと、大人の方が楽しいだろうよ」
穏やかな瞳をし教えを説く秋園に、斗真は少しつまらない気持ちになった。
「なんだ、叔父さんも西島に憧れてるんだね」
斗真がムスッとしたまま言うと、秋園はわずかに目を見開いた。
「西島が自分の気持ちを作品に表現する様子を、俺は自由だなって思って憧れてるけど、叔父さんはその若さってやつに憧れたんだろ」
「……斗真、お前現国の成績めっちゃいいだろ」
「俺は基本どの教科もできるよ。叔父さん、いくつになっても子どもみたいな人だもんな。そんなにこだわらなくても十分若いだろ」
「うるせぇ」
秋園は悪態を吐きながらも、少し嬉しそうに笑った。
あぁ、やはり面白くない。秋園と自分の嗜好が似てるところや、秋園が連れてきた人にまた憧れを抱いたことが、斗真は嫌だった。その感情は、兄のお下がりばかりもらう弟のなんとも言えない悔しさに似ている。
「……美術室、また来てくれるかな」
「その前にあの生徒会の春陽って女子をどうにかしないとお前が来れないだろ」
「そこは教師の権限でどうにかしてよ」
「お前なぁ……」
秋園は、ため息を吐きながらも頭の片隅で春陽を追い出す理由を練っていた。なんだかんだ言いつつ、斗真は大切な甥なのだ。
自分に僅かな対抗心を持っている所も含めて、可愛げがある。撫子は自分のものなのでやれないが、まき子はまだ一人だ。
女性恐怖症の斗真にとって、ここまで彼が興味を示した女の子はまき子が初めてだった。恋じゃないとか言いつつ、しっかり気になっているあたり斗真もまだまだ現役の男子高校生である。
秋園はもう少し突っついてやろう、と口元を楽しそうに歪めた。
「やっぱりまき子のこと、好きだろ」
「なんでそんなに恋愛に繋げたがるの? 憧れって言ったよね?」
しつこい秋園にうんざりした様子で、斗真はそっけなく言った。鬱陶しい、と睨む斗真を知らんぷりして秋園は続ける。
「憧れも好きも一緒だろ。好意の前段階にしか思えないけどなぁ」
「暴論だよ。ーーそれにさ、俺、女子に触れないし。触りたくないし。正直、西島も無理。普通、好きだったら触りたいとか一緒にいたいとか思うものでしょ。西島のことは好きだけど……なんか、男女の触れ合いみたいなのはマジで想像できない」
秋園はうーん、と唸った。斗真の言い分も一理あるし、女性が嫌いな彼に恋愛は少し荷が重いか、と思う。しかし、斗真の中に芽生えた淡い好意を自分の手で潰してほしくない。
「恋のライバル……」
高校生の青春を間近で見てきた秋園は、小さく呟いた。
そういう人物が現れれば、少しは心も動くだろうか。
(いやいや、斗真の女性恐怖症は根強いし一朝一夕で解決するようなものじゃない。そもそも、好きな相手に対して独占欲を感じるのかも微妙なところだ……。というか、斗真が好きでもまき子がそれに答えるかどうかも考えなくちゃならねぇ)
秋園は、強引すぎたかと今更になって後悔した。余計なことを言って斗真を焚き付けて、それで玉砕する方が何倍も不憫である。
「……斗真、ごめんなぁ」
「分かってくれたならいい。西島のことは尊敬してるけど、恋をすることは絶対ないから」
少し寂しい気持ちになりながらも、秋園はそうか、と頷いた。
しかし、後日、まき子が美術部に男子を連れてきたことで波乱が巻き起こることになる。




