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第19話

「お前さ、ちょっとまき子のこと好きだろ?」


 まき子を家まで送り届け、車内が秋園と斗真の二人になった瞬間、秋園は楽しそうに言った。斗真は少々うんざりした様子でため息を吐き、色気のある流し目で秋園を見る。


「うん、まぁ。普通に好きだけど」

「それはラブ? ライク?」

「はぁ……叔父さんのそういうとこさぁ……」


 斗真は面倒くさそうに露骨に顔を顰めた。自分が女性恐怖症ということを知っているくせに、こういう話を平気で振ってくる秋園の無神経さと強引さが、斗真は少し苦手だった。明るくて無邪気で、それに救われる時も少なからずあるのだが……。


「友達としてしか見てない」

「へぇ、ふぅん? そんなこと言って、結構いい感じだったじゃん」


 いい感じとは? と斗真は首を傾げた。

 確かに、他の女子よりも贔屓している自覚はある。だけどそれは男友達にもしていることで、別に恋に繋がるような行動をしているつもりはない。友達なら普通に話すし、気を使って肉を皿に乗せてやるくらいのことはする。


「別に、あれが普通でしょ」

「お前の普通は普通じゃないからなぁ」


 斗真には好きと言う感情が分からないが、でもきっと、まき子に抱いている気持ちは恋ではないのだろうと思う。


「西島は、『憧れ』みたいな。多分恋とかそういう類じゃない」

「憧れ? 撫子に似てるからか?」


 斗真は一瞬、体を硬くした。そして秋園にバレないように、浅く息を吸い込む。


「もちろん、それもある。でも、西島と撫子さんは違う」


 秋園は斗真をちらりと見てから、同意を示すように深く頷いた。


「そうだなぁ。撫子は、柔らかくて優しくて上品だった。観る者を包み込んで受け入れるような絵を描いていた。その点、まき子は絵に対する熱意や信念は撫子に似ているが、圧倒的な"自己"が強烈に見える」


 秋園に説明され、斗真はようやくまき子の絵にあった違和感が言語化されたような気がした。自分が酷く恋焦がれた撫子の絵とは違うのに、なぜか惹き込まれる絵。

 その不気味な魅力の正体は、まき子の"自己"だったのだ。


「俺に描いてくれた絵はさすがに他所行きの顔をしていたが他の作品を見たか? すごいぞ」

「……見たことない」

「感動、喜び、嫉妬、羨望……。強烈なまき子の感情が作品に詰め込まれてる」

「芸術家らしいね」

「根っからのな。撫子もそうだが、やっぱ芸術肌の奴って、変態しかいないんだよなぁ」


 秋園が楽しそうに笑った。斗真はまき子の過去の絵を見せてもらっていないことにムッとしたので、今度絶対見せてもらおうと心に決めた。

 そしてやはり、まき子は撫子に似ていないと思う。


 撫子は、美しい人だった。

 所作が洗礼されており、立ち姿から靴を履く仕草だけでも育ちの良さが垣間見える。かつて小学生だった斗真は、放課後、鵬華小の近くにあった秋園宅によく遊びに行っていた。秋園夫婦の住む家は、緑が多く涼やかな花々が咲き誇るアトリエのような場所だった。

 最初は勉強漬けの日々が嫌になったからだったが、斗真は次第に違う理由で秋園の家へ通うようになる。


『いらっしゃい』


 柔らかい黒髪を揺らし、撫子が笑う。滅多に外出をしないせいか、撫子の肌は真珠のように白く、黒髪によく映えていた。

 赤い唇が動く艶やかな仕草に、当時の斗真は目が離せなかった。


 撫子は、多くを語らない。挨拶以外で彼女の声を聞いたことがなかった。

 撫子は斗真の側に寄ると、可愛らしい洋菓子を斗真の手に握らせ優しく微笑む。斗真は顔を真っ赤にして、なにか気の利いたことの一つでも言おうと思ったが、結局何も言えなかった。


『ありがとう。撫子さん』


 撫子は嬉しそうに笑い、そしておいで、と言うように手を差し出した。その手に触れられることに緊張しつつも、手を引かれ、絵の具の散らばった部屋へ案内される。

 撫子は手が空いている時、こうやって絵を描く姿を見せてくれる。

 筆は、滑らかに紙の上を滑った。適当に置いている色たちが、気がついたら絵になっているのだから本当に不思議だと思う。


 撫子は斗真を見て、首を傾けた。『何を描いてほしい?』という撫子の問いかけだ。斗真は、『鳥』と言った。特に意味はなかった。

 撫子は頷くと、下絵なんか描かずに適当に絵の具をのせていく。今日は、どの部分から描いているのだろう。足だろうか、羽根だろうか……意外と、尾羽からだったりして。


 キャンパスを時々見ながら、斗真は撫子をじっと見ていた。

 自由に筆を動かし、理想の絵を仕上げていく。絵に没頭した撫子は、他の何よりも楽しそうで生き生きとしていて、空に羽ばたいているようだった。

 撫子の筆がシュッという音を立てた時、斗真は撫子の背中に羽が生えているように見えた。

 思わず目を擦ると、その幻想は消えている。


 撫子が、キャンパスを指差す。そこには、美しい白鳥がいた。斗真は強く拍手をした。何度も何度も、拍手をした。

 撫子は微笑んで、少し汚れた手で、斗真の頭を撫でた。

 大丈夫。あなたも自由になれるよ、と言われているようだった。

 撫子は、美しい。そして、慈悲深く、優雅で上品。それはまるで、天使のように。


 斗真は撫子の手に頬を擦り寄せ、笑った。そして、白鳥の絵は貰って帰った。

 その絵は、撫子に描いてもらう最期の絵になった。


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