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第17話

 梅雨特有の湿気の多さを感じながら、まき子は助手席から灰色の空を眺めた。

 降水確率70%の日曜日。秋園は約束通り、まき子の家に来た。そしてまき子の両親に挨拶をし、さっさと車に詰めてここまで連れてきたのだ。


「まき子、お前なんでそんな草臥れた格好で来たんだよ」


 秋園の声にまき子はため息を吐いた。余計なお世話すぎて返事するのも億劫だった。


「別に先生との食事くらいなんだっていいじゃないですか」

「え、冷たくない? 折角の休日だからおしゃれしたいもんじゃないの? 女の子ってさ」

「焼き肉行くのにおしゃれしてお気に入りの服に臭いが付いたらいやじゃないですか」


 秋園は目を瞬かせると「確かに、それもそうだな」と言って笑った。

 まき子は運転席に座る秋園をじっと見る。家に来たときからずっと思っていたが、隣の男は本当にまき子の知っている秋園だろうか。


「そんなに見つめてどうした?」

「先生ってちゃんとしてるとすごく格好いいんですね」

「ちゃんとしてるとってなんだよ。俺はいつも格好いいだろうが」


 いつもは伸びっぱなしでツンツンしている髭を綺麗に剃り、髪までしっかりセットしている。服も絵の具で汚れたつなぎじゃなくて、ジャケットに黒のスラックスという綺麗なファッションだった。


「いつもは汚れた作業着じゃないですか」

「そりゃ、弟子の親御さんに挨拶すんのに汚ねぇ格好じゃいけんだろうが」

「お母さん、顧問の先生に挨拶されたの初めてだったからビックリしてましたよ。あと、格好いいって」

「えぇ、マジ? それは照れるわぁ」


 秋園は頬を掻きながら照れたように口角を上げた。

 秋園に向けていた視線を外に写すと、そこは住宅街だった。思わず声が漏れる。


「えっ、焼き肉は……?」

「そんなに急ぐなって。実は今日もう一人来るんだよ」

「はぁ!?」


 秋園から初めて聞かされた話にまき子は大声で非難の声を上げる。


「どうしてそれを先に言ってくれないんですか!」

「いやな、さすがに教師と生徒と言えども二人きりじゃ気まずいし、周りから疑われたくないだろ?」

「何か言われたら親子って言えばいいじゃないですか」

「こんなに若々しく見えるのに?」


 秋園がわざとらしくにっこりと優しく微笑んだ。彼は今年で45歳らしいが、とても年相応には見えない。10歳は若く見えた。

 まき子は思わず口ごもる。


「まぁ、そんな怒るなよ。お前も知ってるやつだから大丈夫だって!」

「……嫌な予感がします」


 まき子は諦めてため息を吐きつつ言った。

 秋園の車が走る住宅街はどう見たって富裕層が住む高級住宅街である。

 ということは、ここに住めるだけの財力を持ったまき子の知り合い……そんなの限られてくる。

 しかも隣には鵬華の教師である秋園。


(確か、伊集院先輩が叔父さんと呼んでいたはず……。ほぼ確定で伊集院先輩が来るじゃん)


 まき子の目は一瞬で死んだ魚の目になった。この三人で一体どんな話ができると言うのだろう。


「着いたぞ」


 秋園の声と同時に車が停止した。まき子はパッと前を向き、そして絶句した。


「な、なにこれ……」

「伊集院財閥のお家……って、財閥って言い方は良くないか」

「え、ぇ、この家の大きさは財閥って言っていいですよ」

「いやぁ、伊集院グループは今で二代目の新参者だから市場の古参には嫌われてるんだよなぁ」


 秋園はあっけらかんと言って、まき子に車から出るように促す。まき子が出たのを確認しつつ、秋園も運転席から出て、大きな門にこじんまりと着いているインターフォンを押した。

 斗真の家らしいその屋敷の有する敷地面積はまき子の想像を越えた大きさだった。

 目の前にそびえ立つ門から屋敷の玄関に行くまでも時間がかかりそうだし、一軒家と呼ぶのもおそれ多いほど何もかもが大きい。


「一体どんだけお金を掛けたらこんな……」

「お前の想像する数億倍の金かけてるぞ」


 まき子は衝撃のあまり思わず秋園を見た。

 彼は「おっ」と言ってからインターフォンに向かって手を振る。


(秋園先生って何者……?)


「斗真ー? 約束通り迎え来たから早く出てきな」

『え、叔父さん……? 俺課題しなきゃいけないからって断ったよね?』

「そんなの後でいいだろ? まき子もいるんだぜ、な?」


(なぜそこで私に振るんだ……)


 まき子はじっとりとした目で秋園を睨んだ。

 そんなまき子に秋園はニヤリと笑いかけ、その肩を抱きインターフォンのカメラに写した。


「ちょっと先生!?」

「俺も久しぶりにお前と話したいし、まき子のこと気になってんだろ? 話すチャンスだぞ」

「そういうこと言わないでくれます!?」

『西島とはこの前話したよ』


 まき子と話すときよりか幾分か優しめに斗真は秋園に接する。身内と話すときは意外と好青年なんだな、と場違いな感想が頭に浮かんだ。


「え、話したの? 俺が折角場を設けてやったのに?」

『……はぁ、分かった。行くよ。支度するから待ってて』

「了解。まき子も待ってるから急げよ」

『はいはい』


 斗真は雑に返事をしてそのままインターフォンを切った。まき子はプツリと通信が切れる音を聞くと、秋園を睨み付けた。


「先生、セクハラです」

「おっと」


 秋園はまき子の肩を抱いていた両手を上げて降参のポーズを取る。そして焦ったように言い訳を始めた。


「いや、いや、そのな? これはノリというか勢いというか、疚しい意図はなくてだな……」

「先生が奥さん一筋なのは知ってますけど、年頃の女の子に許可なく触れないでください」

「う、うん……すまん……」


 まき子がフンッと鼻を鳴らすと、秋園は参ったように縮こまった。

 そして明らかに不機嫌なまき子に恐る恐る話しかける。


「怒ってるか?」

「怒ってません。ただ、ムカついただけです」

「怒ってるじゃん……。触ったから?」

「それは謝ってもらいましたからもういいんですけど、どうして伊集院先輩を呼んだのか本当に分かんないです」


 まき子が責めるように秋園に言えば、彼は精悍な顔立ちをきょとんとさせた。


「え? まき子って斗真のこと嫌いだっけ?」

「そういうことじゃなくて……! 伊集院先輩って学校ですごい人なんですよ!? そんな人に近付くなんて……恐れ多いです……」


 まき子は目を泳がせつつ、なんとか斗真に近付きたくない、という意思を伝えた。

 秋園は首を傾げる。


「確かに斗真は学園では有名人だけど、別に気にすることないだろ。誰と仲良くしようが、まき子の自由だ」

「……私は平和に学校生活を送りたいんですよ。彼のファンに妬まれるような事態になるのは極力避けたいんです」


 秋園はしばらく思案するように顎に手を当ててから、真剣な表情でまき子を見た。

 秋園のその顔にまき子は驚いて生唾を飲む。


「まき子が感性溢れる豊かな人間で、それゆえに他者の悪意や敵意に敏感なことはなんとなく分かる」

「……感性が豊かとかそういうことじゃ……」

「あんな絵を描く奴が鈍感な訳がない」


 秋園のやけに言いきった物言いに、まき子は反論するのを止めた。

 秋園はまき子を見て眩しそうに目を細め、そしてまき子の頭を乱暴に撫でた。


「ちょ、先生っ!」

「こういう思春期の感情を青春って言葉で片付けたくないけどさ。きっと、今みたいに人と関われるのって、学生のうちだけなんだ」


 秋園は撫でるのを止めて満面の笑みを浮かべた。

 まき子はなんとなく、秋園の妻である撫子は彼のこういう根っこから明るい部分に引かれたのかな、なんて思った。


「斗真自身を知ろうとせずに、邪険にしないでくれ。折角なら二人には仲良くしてほしいんだ。な? 先生からのお願いだ」


 秋園はお茶目にウィンクをしながら言った。まき子はその言葉の意味を考え、そして少し反省した。


(伊集院先輩は、別に私に危害を加えようとしているわけじゃない……)


 彼の周りが問題なのであって、彼自身を責めるのは間違っている。


「斗真はさ、縛られた子だから」

「縛られた?」

「家見たら分かるだろ? こんな無駄にでかい家継ぐために、勉強ばっかり。友人も学校も進路も何もかも、親から決められてるんだ」


 秋園は悲しそうに瞳を揺らして、大きな屋敷を見上げた。まき子もそれを追って聳え立つ建物を見る。

 その時、玄関の扉が開いて人が出てきた。斗真とあのスーツの男だった。


「まっ、そういうことだ。俺の勘ではお前と斗真は波長が合いそうなんだよなぁ」

「相性は知りませんが、伊集院先輩を避けるのは極力止めます。今までは私の態度が悪かったです。……すみません」

「まき子は物わかりが良いな」

「その言い方腹立つので止めてもらっていいですか?」

「え、当たり強くない!? 俺今から焼き肉食わせてやるんだよ!?」


 ギャンギャンと喚く秋園と、それを冷めた表情で見るまき子。

 秋園の車が止まっている場所まで東条を連れてやってきた斗真は呆れながらもおかしそうに笑った。



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