第13話
突然肩に置かれた手に、まき子は驚いて喉を詰まらせた。甘めの卵焼きが気管に入り思い切り噎せる。
「うぐっ、ごほっげほっ!」
「あ、驚いちゃった? ごめんね、盗み聞きするつもりはなかったの。お水飲む?」
可愛らしい声でまき子を心配そうに覗き込んだのは春陽だった。思わず身体を仰け反らせるが、咳が止まらない。
まき子に水筒を渡してくれたのは目の前にいた美千代で、彼女は静かに春陽を睨んでいる。
「なにか用事?」
「美千代ちゃん、冷たいね。私、悲しくなっちゃう」
言葉とは裏腹に、ニコニコと愉快そうに笑う春陽は不気味だった。美千代は嫌そうに顔をしかめる。
「聞きたいことがあるだけどね。斗真先輩が放課後美術室にいるってほんとう?」
きゅるんっと瞳を潤ませて、まき子に問いかける春陽は同性のまき子から見ても可愛らしい。うっかり甘やかしてしまいそうなほど可憐だ。
ただ、その可愛らしい容貌に隠された薄暗い感情を感じて、まき子は震え上がる。
とんでもない人にとんでもない情報を与えてしまった。
「し、しらない」
「えぇ~? 話してたじゃない! 私にも教えて?」
「えっと、そ、それは私の口からは言えない、かな」
「どうして? 私、これでも斗真先輩とは仲良しなんだよ? 別にいいじゃない。斗真先輩に口止めされてるわけじゃないならさ」
ね? と春陽は可愛らしく小首を傾げた。まき子はちらりと前にいる美千代を見る。
美千代は不機嫌そうに春陽を睨んでいた。
「本当に私の口からは言えないの。ごめんね」
まき子はなるべく優しい声色で、相手を刺激しないような言葉を選んだつもりだ。
春陽はきょとんとした顔をした後、みるみるうちに唇を尖らせ、頬を膨らませた。
「なんで教えてくれないの?」
「え、いや」
「まき子ちゃんだけ放課後斗真先輩と仲良くしてるなんてズルいよ。春陽は、斗真先輩がバスケの自主練してる時もお手伝いしてるし、生徒会の仕事だって頑張ってるんだよ。春陽の方が斗真先輩と仲良しなの」
笑顔から一転、春陽は真顔で捲し立てるように言った。
まき子は春陽の言葉に脳を混乱させるばかりで、口を挟むこともできない。彼女の言いたいことが何一つ頭に入ってこなかった。
「自分が斗真先輩の特別だなんて勘違いしないでね? 放課後まき子ちゃんと一緒にいるかもしれないけど、それはたまたま! 偶然だから。だって春陽の方がまき子ちゃんより可愛いし頭良いし完璧だもの!」
まき子は春陽の思考回路を理解できなかったが、ただ真澄並みに面倒くさい相手であることはなんとなく分かった。
完全に怒り狂った表情で春陽に噛みつこうとする美千代を視線で制して、まき子はニッコリと微笑んだ。
「そうだね。春陽ちゃんは可愛いもんね。生徒会長も、きっと春陽ちゃんのこと好きだよ」
春陽はまき子の言葉に一瞬動きを止め、満更でもなさそうな顔でツンッとそっぽを向いた。
「そんなの、当たり前でしょ! だって、春陽は完璧だから!」
春陽が言った瞬間、遠くで彼女を呼ぶ声が聞こえた。そこには数人の男子がいて、そのうちの一人が走って寄ってくる。
「は、春陽ちゃん。今日は僕たちと一緒にご飯食べない?」
緊張した面持ちで、頬を染めながら彼は言った。春陽は一瞬で満面の笑みを浮かべる。
「本当!? 嬉しい! 私、今日とってもお腹が空いてるの!」
「え、いいの?」
「うん!」
「や、やった! じゃあ、食堂のレストランに行こう! あそこの料理長は元ミシュラン四ツ星のシェフでね……」
「嬉しいー! 楽しみだなぁ!」
春陽は驚くべき切り替えの早さでその男の子たちと食堂へ消えていった。
春陽が見えなくなった途端、ドンッと美千代が机を叩いた。
「み、美千代……」
「なにあれ! 信じらんない!!」
火を吹きそうなほど憤慨する美千代に、まき子は苦笑いをこぼす。
「まき子もどうしてもっと言い返さないの!?」
「ああいう子は言い返しても倍になって返ってくるよ」
「でも、言われっぱなしなんて悔しいじゃない!」
地団駄を踏む勢いで怒る美千代に、まき子の怒りも沈んでいく。自分より怒っている人を見たら随分と冷静になれるようだ。
「……私は春陽ちゃんより可愛くないし、賢くないし、優秀でもない。これは事実だから」
「まき子っ……!」
「でも、それを春陽ちゃんに言われる筋合いはないのよね」
さっき春陽に向けたにっこり笑顔で、まき子は言う。
「もう二度と口をききたくない」
笑顔を保ったまま静かに怒るまき子に、美千代は驚いて目を見開く。
「まき子、思ったより怒ってるのね……」
「当たり前じゃない。生徒会長だか何だか知らないけど、私を巻き込まないで欲しいわ」
春陽も真澄も訳の分からない嫉妬心を自分にぶつけないで欲しい。
斗真は、あくまでもまき子の絵に興味があるのであって、まき子自身は関係ない。
まき子だって、何も斗真と仲良くなって優位に立ってやろうなんて一つも思っていないし、彼に好かれようとも思ってない。
斗真が真澄と仲良くしようが、春陽と恋仲になろうが、心底どうでも良い。
(どうでも良いことに、どうして私が色々言われなくちゃならないのよ)
とことん理不尽だと思う。
全ては斗真が中心だと思うと、彼は悪くないのに嫌いになってしまいそうだった。
「やっぱり私、家で絵を完成させる」
「それがいいわね」
「こんなに文句言われるなら、こっちから徹底的に避けてやるわよ」
まき子も随分と先程の春陽の態度が堪えたらしく、自分でも気付かないうちに相当苛立っていた。
美千代はまき子の機嫌を敏感に感じとり、取りあえず自分の怒りは後回しに、彼女を宥めることに決めた。普段温厚な人ほど怒りが長引くことをよく知っていた。
「まぁまぁ、まき子。これでも食べて落ち着いて」
差し出されたチョコレートを一粒食べながら、まき子の心は決意に燃えていた。
もう美術室Ⅱで絵は描かない。
ただ、どうしたら斗真と接触することなく無事に絵を完成させれるかが問題だった。
こうなったら、放課後一番に教室を出て、絵を取って家に持ち帰るしかない。でないと、斗真と鉢合わせしてしまう。
一度美術室Ⅲに行ったこともあったが、ガラクタばかりの物置部屋になっていて、絵を描くことは出来なさそうだった。
幸いにも、家には絵の具や筆など最低限の道具はあるから、どうにかなるだろう。完成したら秋園に渡す約束も果たさなくてはならない。
(どうしてこんなに私が神経を尖らせないといけないのか分かんないけど、これも平穏な学校生活のため)
もう中学の頃のように、誰かに疎まれるのは嫌だった。
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その日の放課後、まき子は誰よりも早く教室を出て美術室に向かった。美術室には誰もおらず、まき子は見られてもいないのにこそこそと隠れるように乾燥棚から自分の絵を取った。
やはり数日経って自分の絵を見ると手直ししたいところがたくさん出てくる。
さらに自分の理想に近づく作品を想像して、まき子は満足げに微笑んだ。
作品を家に持ち帰るのは案外簡単なことだった。作品を持ち出した後、そそくさと下校して、自室の隅に追いやられていたイーゼル引っ張り出す。
中学時代にお年玉で買った自分だけの油絵道具はあの頃と変わらず輝いて見えた。まるで早く自分達を使って絵を描いて欲しいと訴えているようだ。
作品の前に座り、筆を取る。
頭に完成した絵を描きつつ、思いのままに色を乗せていった。




