第12話
「今なんて?」
目を何度も瞬かせ、美千代はまき子に聞き返した。まき子は慌てて美千代の耳に顔を寄せ小声で素早く言い切る。
「だから、生徒会長が私の絵を見に来るの!」
「……いつ?」
「放課後」
「いや、え? なんで?」
「知らないよ! ねぇ、どうすればいい?」
心底参っています、と言わんばかりに眉尻を下げても、美千代は思考が停止したかのように微動だにしなかった。
分かりやすい変化があったのは、初めて真澄と出会い、次いで斗真から完成した絵を見せて欲しいと言われてからだった。
自分の作品を褒められることが嫌な人間なんていない。例えその褒め言葉が上辺だけのものだとしてもまき子は嬉しかった。斗真にそう言わせるほどの価値が自分の絵にあるのだ。
しかし、その喜びを凌駕するほどの恐怖を感じたのもまた確かである。
真澄がまき子を見る目は一言では言い表せないほど暗い感情を煮詰めたものだった。
まき子が斗真に褒められたのが気に入らなかったのか、嫉妬しているのか不信感があるのか、まき子には分からない。分かりたいとも思わない。
ただひっそりと、面倒なことになりそうだ、と思っただけである。
人の感情に敏感なまき子が真澄の異変に気付くのは容易いし、それが明らかに自分のせいであるものだと分かっていた。きっと、真澄はまき子が気にくわないのだ。
生徒会というこの学校で力を持つグループの一人に目を付けられたらまき子の高校生活は終わってしまう。よくよく考えれば、斗真に近づくなど狂気の沙汰ではない。真澄より先に斗真の過激派ファンに殺されるだろう。
斗真と関わらないようにする。
それが一番効果的な対策だった。
美術室に斗真が来る時やいる時は絵を描かない。学年も部活動も異なるまき子と斗真が出会えるなんて、それこそ奇跡に近いことだったのだから、片方が避ければ疎遠になるのも早いだろうと、まき子は高を括っていた。
にもかかわらず。
斗真はほぼ毎日美術室に現れた。絵を描いたり作品を鑑賞するわけでもないのに、参考書を開いて美術室の机で勉強を始める。
受験生だもんなぁ、なんて的外れな感慨はポツリと頭に浮かんですぐに霧散していった。
斗真がいないか窺うように美術室に入った途端、高確率で斗真と目が合う。「お疲れ様」と声をかけられれば、「お疲れ様でーす……」と目を泳がせながら間抜けな返事しかできなかった。
なるべく斗真と関わらないように、教室の隅で細々と絵を描くまき子の努力も虚しく、彼は自分からまき子に近付いてきた。
絵を描くのに集中していると、気がつけば傍らにのっそり立っていたりする。身長が高い分、気配を消して近寄られると死ぬほど驚くから正直止めてほしい。
この前もそんなことがあった。
「かなり完成してきたな」
唐突に隣から声が聞こえたと思ったら、なんとまき子の近くにあった椅子に腕組みをして座っていた。
まき子は驚いて思わず聞いてしまった。
「あの、そんなに近付いて大丈夫ですか?」
斗真はちらりとまき子を見た。
「女子が苦手なこと、気付いているんだな」
「あっ……その、なんとなく、そうなのかなぁって思ってるだけで、別に生徒会長がそうだと決まったわけじゃないですし」
「そんなに焦らなくても怒ったりしない。俺は女子に触れられないだけで、喋るのも近付くのも問題ない」
(この人、強がってる)
まき子から見た斗真は明らかに顔色が悪かったし、なんなら手も若干震えていた。自分が女性恐怖症を意識させるようなことを言ったからだと気付き、申し訳なくなった。
実際、純粋に絵を見ている時は震えも怯えも彼からは感じられない。
まき子は何も気付いていないふりをしながら、視線を自分の絵に移した。我ながら、出来の良い作品だった。
「生徒会長は、本当に私の絵を評価してくださるんですね」
「あぁ」
「……ありがとうございます」
「だからこそ、この絵の完成形を見たい。どうかこのまま描き続けてくれ」
(褒められるのは嬉しいけど、この人は存在感がありすぎる)
正直言って、まき子は斗真がいる空間では集中が出来なかったし、抜き打ちで現れる真澄にもヒヤヒヤしていた。
斗真いるー? とふんわりとした声色で思いの外強めに扉を開く真澄は定期的に美術室へ現れる。
その時、まき子と斗真の二人きりだとビキビキと額に青筋を浮かべ、笑顔で不機嫌になる。これがもう面倒臭くて仕方がない。秋園がいればまだマシなのだが、彼も彼で最近は忙しいらしい。
ヘラヘラしながら斗真も真澄も刺激させずに気を遣ってきたが、さすがに疲れた。絵を満足に描けないというストレスも相まって、まき子は二人を完全に遮断することに決めた。
だが決めたはいいものの、まき子は斗真に言われてわざわざ美術室で絵を描いている。絵の過程と完成形を見たいから、という斗真の我が儘ゆえである。
あれほど、「俺が邪魔なら出ていく」と言っていた斗真は今や美術室の常連客だ。まき子からすれば、邪魔だから出てけなんて正直に言えるはずがない。
そもそも、女性恐怖症である斗真にとって美術室は自身の叔父がいる安全地帯なのだから邪魔なのはまき子の方なのだ。
だけど、斗真との空間は緊張するし真澄には睨まれるしでいいことなんてない。だから、いっそのこと徹底的に避けることに決めた。
絵を家で描く、これは決定事項だ。
斗真に止められたことを今日、強行する。
だがまき子は小心者なので、斗真に反抗することに恐れ戦いているのである。そこで生徒会に詳しい美千代に事情を話すことにしたのだが、美千代は未だ固まったまま動かない。
「美千代、大丈夫?」
「そんなことになってるならもっと早く言ってよ!!」
勢いよく叫んだ美千代の声量に驚いてまき子の肩が跳ねる。小さく謝れば、美千代も落ち着いたのかため息を吐いた。
「まぁいいや……。なんの相談だっけ?」
「絵を描きたいのに、美術室に生徒会長が来るから集中できない。だから絵を持って帰りたいけど生徒会長の反感を買わないか、という相談です」
相談内容を簡潔にまとめ、敬語を使って下手に出れば、美千代は心得たように頷いた。
「まず、反感は買わないでしょ」
「そ、そうかな?」
「伊集院先輩だって無理やりまき子に絵を描かせたりしないよ。あの人は生徒会長として、生徒が一番大事な人だから、まき子が本気で嫌がれば何も言わなくなるよ。そもそも生徒会は全員優しいし。ヤバイのはファンの方なんだから」
(優しい……?)
脳裏に浮かんだのは真澄である。あれは優しい部類に入るのか。少なくともまき子にとっては"怖い人"だった。
「その、生徒会長は部活に来てるの?」
美千代がマネージャーをしているバスケ部には斗真が所属している。放課後美術室に入り浸っている彼は部活に参加できていないのではないだろうか。
「来てるよ」
「え!?」
「放課後は来ないけど、朝練と放課後の練習後に自主練してる」
「うっそ!? そんな時間ある!? 放課後の練習後って7時頃だよね?」
「そうそう。そっから2時間練習して、9時に帰るらしいよ。他の先輩から聞いた」
信じられない気持ちでまき子は思わず身を乗り出した。
「あ、朝は?」
「朝は……6時とか言ってたかな……?」
「6時から学校で練習してるの?」
「らしいよ」
「……うそでしょ」
そんなに根を詰めて体を壊さないか心配になるレベルだ。三年生はもうすぐ引退試合があるから斗真が練習を頑張る理由は分かる。分かるが、想像以上だった。
「三年生は引退近いから、そんなに頑張れるのかな」
「いや、伊集院先輩は一年からこのサイクルで練習してるんだって。生徒会に入ってから、通常の放課後練習に参加できなくなったらしいけど」
「ぉ、おお」
もうまき子は感心することしかできなくて、変な感嘆をあげる。斗真が生徒会長になれた理由も、多くのファンに慕われる理由も分かった気がした。
「他に心配事は?」
「ないです! 美千代ありがとう! これで心置きなく絵を持って帰れる!」
「正直、家で描く方が集中できたりするの?」
「私は音のない静かな場所なら何処でも集中できるよ。……生徒会長がいると気が散るだけ。あの人、自分の存在感の大きさ分かってないから」
まき子はうんざりしたように目を細めて小声で悪態を吐いた。美千代は苦笑して、肩を竦める。
「面白そうなお話してるね」
その時、まき子の真後ろから可愛らしい少女の声が聞こえた。




