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第11話

「これが、私の作品です」


 乾燥棚から取り出され、眼前に晒された油絵に真澄は純粋に驚いた。強い色使いと油絵ならではの厚塗り。そしてなにより、その絵には人を惹き付ける不思議な魅力があった。


「君、才能があるんだね」


 心の底から、真澄はそう呟いた。まき子はそんなことないです、とか、今回は上手くいっただけです、とか色々言っているが、真澄からすればまき子に対する認識を変えなければならない案件であった。


 彼女は真澄が思ったよりもずっと、絵画を愛している。


 斗真に会ったと聞き、当然真澄はまき子を警戒をしていた。斗真は、女性が苦手で普段ならば話すことすら嫌悪する。それを真澄は知っていた。


 しかし、彼女の絵を見れば斗真が彼女に対してどう考えたか、聡い真澄はすぐに察する。


「上手くはない。だけど、とても魅力的だね」

「あ、ありがとうございます……?」


 上手くない、と言われたことに引っ掛かりを感じつつも、まき子は素直に礼を述べた。真澄は飽きもせず、まじまじと絵を見つめてくる。まき子はなんだか恥ずかしくなって視線を泳がせた。


「僕は水彩が好きなんだ」

「水彩も、素敵ですよね。私も好きです」


 まき子は話を合わせるように相槌を打って、下手くそな愛想笑いを溢した。緊張して上手く話せないまき子など気にも止めず、真澄はさっさと絵を描く準備を進めていく。

 まき子は真澄の意識が自分から逸れたことにホッと胸を撫で下ろした。



 絵を描く作業は、どんな時でも変わらず楽しい。そこに言葉はいらないし、誰かと一緒にいるもいないも自由である。真澄から離れた場所にイーゼルを立て、キャンバスを立て掛ける。


 二週間越しに感じる筆の感覚に胸が踊った。油絵具を油で溶かし、キャンバスに乗せていく。

 脳内に描いたものをそのまま描き出すように何度も何度も調整を重ねる。目の前の絵だけに向き合い、恐ろしいほどの静寂がまき子を包んだ。目が乾いたことにも気付かないほどその絵だけを見つめる。

 しかしその集中も不意に途切れてしまうもので、まき子はハッと覚醒した。


 さっきより進んだ絵を俯瞰的に見て、バランスが崩れていないことを確認した。ちょっと気に入らないところもあるが、及第点だろう。

 絵の出来に満足し、次いで真澄の存在を思い出した。真澄が絵を描いていた場所をそっと見てみるが、真澄の姿は無い。


「……あれ?」

「はい、お疲れ」


 後ろから声を掛けられたことに驚いてヒュッと息を詰める。


「随分と集中してたね」

「あ、えっと、はい。あはは」


 緊張のあまり上手い言葉が出てこず、乾いた笑みを溢す。あまりにもぎこちない態度にまき子は心の中で自分を思い切り殴った。なんだ、その気持ち悪い笑い方は。

 まき子の様子に真澄はクスクスと美しく笑うだけだった。


「そんなに怯えないでよ。僕まで気まずくなるじゃないか」

「す、すみません……」


 余計なことを言わないように意識すれば、自然とまき子は無口になる。何か話題はないかと頭をフル回転させても、元来喋ることが苦手なまき子に良い案が浮かんでくることはなかった。

視線を忙しく左右に動かしそわそわと落ち着きのないまき子を尻目に真澄は近くの椅子に腰を下ろした。


「ね、聞きたいことあるんだけど、いい?」

「……なんでしょう?」


 一体真澄から何を聞かれるのか、まき子は身構えた。


「斗真と何を話した?」

「えっと……?」

「なんでも良いよ。一言だけでもいい。斗真が君にどんな言葉をかけたのか、気になるだけだから」


 にっこりと優美な笑顔を浮かべる真澄の雰囲気に、まき子は意味もなくゾッとした。その瞳や口調、ゆるりとした気配までまき子に圧を掛けているような気がしたのである。

 真澄が何を考えているのか分からず、まき子は慌てて彼の意図をはかろうとする。


(女性恐怖症の生徒会長が私と話したことに興味を持っただけ? いや、違う。なんだろう、この違和感)


 真澄の感情が読めず、まき子は正しい答えを見つけられないことに焦った。正直に答えるべきなのか、特に何も話していませんよ、と笑って誤魔化すべきなのか。


「何を迷っているの?」


 固まるまき子の思考を先読みしたかのように真澄は首を傾げた。まき子の喉がごくりと音を鳴らした瞬間、二人の間にスナックの袋が現れる。


「真澄、あまり俺の弟子を苛めてやるなよ」

「……わぁ、僕の好きなお菓子だ! 麿彦おじさん、ありがとー!」


 真澄はパッと顔を明るくして、スナック菓子を手に取った。先ほどの重苦しい空気が消えたことにまき子は胸を撫で下ろす。


 こんな所で目を付けられるわけにはいかないと内心冷や汗をかいている最中、さらにまき子の顔色を悪くさせる出来事が続く。


 ガラリと突然美術室の扉が開いたと思えば、そこには生徒会長である斗真がいた。ゆるりとまき子と真澄、そして秋園を流し目で見る仕草には高校生とは思えない色気がある。


「斗真!」


 予想外の展開にいち早く反応したのは真澄だった。スナック菓子を机に放り投げ、斗真に駆け寄っていく。その明るい表情とキラキラした瞳はさっきまでまき子に向けていたものとは全く異なるものだった。

 コロリと態度も雰囲気も変わった真澄に、まき子は面食らった。驚いて目を見開くまき子に、秋園がそっと耳打ちをする。


「真澄はな、斗真の幼馴染みなんだ。斗真に対して過保護なとこがあるから警戒心が強いんだよ。あまり悪く思わないでくれ」


 秋園の言葉に、まき子はうんざりと顔をしかめた。幼馴染みだかなんだか知らないが、まき子はこれでも肝を冷やしたのだ。変なとばっちりを受けてストレスを感じたくなかった。


「斗真どうしたの? 来て良いの?」


 真澄はちらりとまき子を見て、含みのある言い方をした。斗真が唯一素でいられる美術室に異分子である自分がいるのは良くないと、まき子は立ち上がった。ガタンっと多少乱暴に立ち上がったのはまき子なりの小さな反抗だった。

 だって、よく考えればここ最近ずっと斗真に振り回されている。女性恐怖症もトラウマもどうしようもないことだ。斗真が悪いわけではない。


 しかし、斗真に関わることによってまき子は気を遣うために神経を尖らせることを強要され挙げ句の果てには真澄に敵視までされたのだ。面倒くさいことこの上なかった。苛立ちに任せて絵を描くのも止めてしまおうかと思ったが、こんなことで一生懸命描いた作品を捨てるのは癪に触る。

 ならせめてキャンパスを持ち帰って家で描こうとイーゼルに立ててあったキャンパスに掛けた手を、誰かが拒んだ。


 自分の手に重なった大きなゴツゴツとした男らしい手にまき子の思考と体は石のように固まってしまった。


「どこへ持っていくつもりだ?」


 低く芯の通った声がまき子の鼓膜を揺らす。何がなんだか状況など全く理解できなかったが、口は勝手に質問に答えてくれた。


「家で、描こうと思って」

「ここで描けばいいじゃないか。俺が邪魔だったか」

「いえ、違います。家に油絵専用の自分の道具があって、そっちの方が描きやすい、かな、と」


 言葉を喉に詰まらせながら、なんとか言いきった。咄嗟に出た嘘も機転が効いていると心のなかは自画自賛の嵐だった。

 しかし、やはり状況は理解できないまま。


(なぜ私は手を握られている……?)


 正確には手が重なっているだけだが、手から伝わる他人の体温にまき子の思考は蝕まれていく。グルグルと目を回していると、その体温が突如消えた。


「ちょっと、斗真! また発作が出たらどーすんの!?」


 斗真の手首を掴んでまき子から引き剥がしたのは真澄だった。真澄は斗真とまき子の間に身体を滑り込ませる。

 斗真はむすりと分かりやすく顔をしかめた。


「真澄、そんなに心配しなくても大丈夫だ。俺ももうそんなガキじゃない」

「そんなこと言って、この前怯えてたのはどこの誰だよ」

「あれは……」

「あんま自分過信しないでよ。見てるこっちがハラハラする」


 二人の駆け引きをまき子はぼうっと眺めていた。異性との接触に脳が追い付かない。あんなとんでもないイケメンと触れあえるなど一生の運を使い果たしたとしか思えなかった。


「でも、コイツは大丈夫だ」

「は?」


 思いの外冷たい真澄の声に、まき子は現実に引き戻され勢いよく斗真を見た。斗真は真っ直ぐ──まき子の絵を見つめている。


「こんな綺麗な絵を描く奴が、怖いはずない」


 絵を、褒められた。

 まき子は持って帰ろうとキャンパスにかけていた手をゆっくり下ろした。俯いて赤くなる顔を隠すように手で覆う。純粋に、絵を褒められたことが嬉しかった。


「俺は伊集院斗真。お前は?」


 斗真は律儀に自己紹介をして、まき子に問う。真澄を押し退け、ずいっとまき子に近付いた。


「西島、まき子」


 まき子は辛うじて、ポツリと自分の名前を告げる。斗真はこくりと頷いて、またまき子の絵を見た。


「西島、俺はお前の絵が好きだ。だから、完成したら俺にも見せてほしい」


 斗真は真っ直ぐに、本心を包み隠さずまき子に伝える。その素直すぎる感想に、まき子は言葉を失う。なんと反応すればいいのか分からない。ただ、自分が今、喜びに包まれていることだけはハッキリと理解できた。


「ほら! 言ったろ!? 俺の弟子はすげぇって!」

「叔父さんそんなこと言ってたっけ?」

「言っただろうが! まき子は良い奴だって!」


 呆然としていたまき子を秋園は引き寄せてめちゃくちゃに頭を撫で回した。子供にするように遠慮なくガシガシと撫でられ、思わず抗議の声を上げる。

 こんなに褒められるのが嬉しくてもっと喜びに浸りたいのに。


(真澄先輩めっちゃ怖ぇ……)


 表情を無くしてまき子を睨む真澄が恐ろしくて、まき子は遠慮がちにそっと視線を下げた。

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[一言] 真澄様ディランみを感じる……ディランもベルに近づく人間には警戒MAXだったもの
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