第10話
未だ開ききらない目を擦り、大きな欠伸を溢しながら電車を待つ。こんなに早く学校に行くなど初めてではないだろうか。
朝が苦手なまき子は不機嫌になりつつも絵のためだから仕方ない、と自分に言い聞かせる。昨日携帯のアプリで買った少女漫画を読むことで無理やりテンションを上げた。
学園は相変わらずの高級感ではあるが、どこの教室も静まり返っている。まき子は教室に寄ることなく、通学鞄を持ったまま美術室に向かう。用事は早めに終わらせた方が良い。
美術室の引戸を開けて、まき子は一瞬意識を飛ばしそうになった。そこには参考書を広げて勉強する斗真がいたのである。もしかして美術室に住んでいるのではないかとまき子は思った。
案の定、まき子に気付き参考書から顔を上げた斗真と目が合う。
これは一度秋園を通した方がいいのかもしれない。辟易しながらも、仕方がないとまた出直す覚悟をした。若干イラッとはしたけれど、それくらい許して欲しい。まき子は朝早くから頑張って起きたのだ。
まき子はため息を吐いて踵を返した。しかし後ろから声を掛けられる。
「おい」
もちろん美術室には斗真しかいないので、まき子に話しかけたのは彼で間違いない。たった一言の声かけではあるが、投げやりな言い方がどこか秋園に似ている。
まき子はピタリと足を止めて、無視するのも違うと思い、振り返って斗真を見つめた。
「……何でしょう」
距離は詰めることなく、まき子は応える。斗真は睨むようにまき子を見ていて、何か悪いことをしてしまったかと戸惑った。
「お前は、誰の絵を描いてるんだ?」
斗真は怒っているかのような険しい表情でまき子を見つめ、低い声でそう聞いた。まき子は思わずじっと斗真を観察する。
斗真はまき子に見つめられ、更に眉間にシワを寄せる。そこでまき子は斗真のその表情が怒りではなく、嫌悪感であることに気付いた。
慌てて斗真から視線を外し、何も気付いていないかのように振る舞った。
「秋園先生と、奥様がバーベキューをしているところです」
「……そうか」
聞いてきたわりには反応が薄い。まき子は取り敢えずここに来た理由を斗真に言おうと思った。ここで絵を持って帰れれば、わざわざ秋園に言う必要はない。
「あの、私、絵を描きたいんです。家で描こうと思っているのでその絵を持って帰っていいですか? 同じ教室にいるのが嫌なら、貴方のいない時間帯を教えてくれます?」
まき子としては相当気を遣い譲歩したつもりである。なんだか英語を直訳したかのようなぎこちなさだが、できるだけ失礼のないように訊いたつもりだ。斗真は相変わらず顔をしかめたまま、じっと無言だった。
「俺がここを退くから必要ない。君はここで絵を描くといい」
斗真はおもむろに立ち上がり、参考書を持ってまき子がいる扉とは反対の扉から出ていく。まき子は面食らって一瞬固まった。
足早に去ろうとする斗真を思わず引き留める。
「いえ、貴方を責めているわけじゃないんです。秋園先生といるのがいいなら私がいなくなりますから!」
「いや。君は絵を描くのが好きなんだろう」
斗真は先程の険しい顔が嘘のように無表情だった。むしろ少し微笑んですらいる。
(二重人格……?)
まき子はわけが分からなかった。さっきまで親の仇を見るような目でまき子を睨んでいたのに。いや、よく考えれば斗真は生徒会で女子と関わっている。というか、この学園は共学である。女子と関わらないなんてできない。
(状況に応じて意識を使い分けてるの……? もしかしてここは生徒会長にとって安全地帯だったとか?)
もしこの仮説が合っていたとしたらまき子は完全に邪魔者だ。彼が二年間過ごした安寧の地にまき子が勝手に住み着いたようなものである。
「絵はどこでも描けますし、気を遣わなくても」
「気なんて遣ってない。生徒会長として、生徒の活動を邪魔するのは許せないだけだ」
斗真は気高い獣のようにまっすぐな瞳でまき子を見つめてそう言った。その言葉には嘘偽りがなく、彼の本心であることがわかった。
そのまま去っていく斗真を、まき子は呆然と見送ることしかできなかった。
□■□
まき子が一番気まずかった相手は斗真ではない。秋園である。
「えっと、そういう訳で生徒会長はここに来ないらしいです……」
斗真が秋園を「叔父さん」と呼んでいたことから、秋園は斗真の親戚で間違いないだろう。まき子が意図したものではなかったとはいえ、斗真を追い出すような真似をしてしまった。
まき子はそのことを申し訳なさそうに申告する。
「あぁ、また気が向いたら来るだろ。そんな心配すんな」
落ち込むまき子とは対照的に、秋園はあっけらかんとそう言った。それにはさすがのまき子も拍子抜けする。まき子としては若干責任感を感じていたのに。
「まー、アイツは女嫌いだけど自分の仕事は完璧にこなそうとするし、自分に妥協は許さない。それこそ、"生徒会長"として最善の選択をしたんだろうよ」
まき子のなかで斗真の好感度が爆上がりした瞬間だった。よくよく考えれば、斗真は生徒会長でありなにより三年生だ。受験生でもある年に生徒会を運営し、聞いた話だがバスケ部のキャプテンでもあるらしい。目立つのが苦手なまき子にしてみればそれだけでも十分凄いのに、その全てに全力で取り組む姿勢を知れば、もう尊敬するしかない。
「……努力家なんですね」
「そうだなぁ。アイツは期待されてるから、ずっと頑張ってるよ」
顔も良く、頭も良い。なんなら身長が高くてスタイルがいいし、スポーツもできる。成績も家柄も申し分ない。
(なのに努力家で真面目? どんだけ完璧人間なの……?)
まき子は一周回って感心した。人間が皆平等などよく言えたものである。
「秋園せんせーい」
間延びした柔らかい声が、突然聞こえた。最近は来訪者が多いな、とまき子は思った。また面倒なことじゃなければいい。
声のした方を振り向いて、まき子は目を見開く。そしてその数秒後にボッと顔を赤らめた。
(七々扇真澄……っ!)
何故か心の中でフルネームで叫ぶ。特に意味はない。興奮しすぎたためである。
サラサラの濡れたような黒髪に、中性的な容貌。天女のごとき美しさ。斗真のファンは斗真を美しい美しいと連呼していたが、目の前にいる真澄こそ本物の"美"だとまき子は思った。
「あれ、女の子がいる。珍しいね?」
真澄はゆるりと微笑んで、まき子を見た。目があった事実にまき子は発狂しそうだ。自分をその美しすぎる瞳に映さないで欲しい。小心者のまき子は影からこっそり見るくらいが丁度良いのだ。
顔を真っ赤にして身悶えるまき子に秋園は胡乱げな視線を向けた。
「お前、斗真の時はそんな反応してなかっただろうが……」
「え、なになに? 君、斗真に会ったの?」
秋園の余計な一言に、真澄が食い付く。まき子は慌てて否定した。
「いえ、会ったというか、見かけたというか」
「どっちにしろここで会ったんでしょ?」
「あ、まぁ、そうですね」
吃りながらもまき子は頷いた。真澄の顔が驚愕に染まる。信じられない、とでも言いたげである。
「え、あの斗真が? ここで、君と? マジ?」
美しい見た目とは裏腹な荒く崩れた口調にまき子はギャップを感じて、目を輝かせた。
「マ、マジ、です」
「普通に凄いね。にしても、君は美術部員なの? 僕は見たことないけど」
「えっと、五月の中旬に入部届けを出したので……。初めのミーティングには参加できませんでした」
「あ、あー! 西島まき子ちゃん?」
「ぅえっ」
不意打ちで真澄に名前を呼ばれ、まき子は喉が潰れたような呻き声を発してしまった。動揺するまき子を、真澄は可笑しそうにクスクス笑う。
「僕は部員のこと全員覚えてるからさ。君とも一度ちゃんと話してみたいと思っていたんだ」
真澄に認識されていたことがある意味衝撃である。美術部の女子が揃いも揃って真澄の虜になる理由が分かった気がした。
「自己紹介してなかったね。僕は七々扇真澄。生徒会で副会長をしてて、美術部の部長だよ。よろしく」
ふんわりと微笑みながら、真澄はまき子に手を差し伸べる。まき子は内心混乱していたが、促されるままおずおずと手を差し出し握手を交わした。下心のない純粋なものだとは分かっているものの、男性にとんと耐性のないまき子は触れた手の感触に頬を赤らめた。
白く透き通るようなしなやかな手と、爪が絵の具と油で汚れた自分の手が交差する様は正直女子として複雑ではある。手の性別が違う気がする、とまき子はぽけっとした頭でそんなことを思った。
「で? 真澄は何の用でここに来たんだ?」
「こっちにも顔を出しておこうと思っただけですよ。ほら、これでも僕は部長ですし? あとはまぁ、休憩がてら、お菓子でも頂こうかなと」
「お前は本当にちゃっかりしてるよなぁ」
秋園ははぁ、とため息をついて、準備室に消えていった。それを見届けると、真澄はまたまき子の方を向く。色気のある微笑みに、まき子はドキリと心臓を高鳴らせた。
「いい機会だし、今日は僕と一緒に絵を描かない?」
「はッ!?」
「声デカっ! んん、元気でよろしい。ほら、親睦を深めると思ってさ、ね? だめ?」
声の大きさを指摘されたことにどこかショックを受けながらも(あまり嬉しいことではなかったので)、まき子は真澄の申し出を断れなかった。
集中して絵を完成させるなら断然真澄がいない方が捗るのだが、上目遣いでねだられるように見つめられればもう無理だ。頼られると断りきれないのがまき子の美徳でもあり欠点でもあった。
「わ、分かりました。不束者ですが、何卒よろしくお願い致します」
「わぁい、やった! そんな堅くならなくて大丈夫だって。ほら、楽しんで描いてこ?」
真澄は気さくで明るく、仕草の一つ一つが幼くて可愛かった。あざといとも言うのだけれど、その狙ったような可愛さが似合うのだからどうしようもない。幼い仕草の中に匂わせる色気には、男も女もメロメロになってしまうだろう。
(……独特の雰囲気のある人だ)
天才的に人を操るのが上手そう、なんて失礼なことを考えた。
ちらりと真澄を窺い見たまき子の視線に真澄が気付く。コテンと首を傾げて含みのある笑みを浮かべる真澄が、なんとなく不気味に感じられた。




