不思議な女
「んっ、んっ……」
「落ち着いて!」
「んっ、んっーー! ……ハァ」
「まあ、今日はこれくらいで……」
「ダメだ、もう一回!」
プクゥゥゥ
「ふくれてもダメ、もう一回!」
スー、ハー、スー、ハー
「んっ、んっ、んっーーー! ……ハァ」
「もう無理なんじゃないかな」
「仕方ない。今回はこれまで!」
プクゥゥゥ
「お前がいくら睨んだって、ちぃーっとも怖くなんかないぞ」
「……ヒューリの、バカ」
「なぜそれは言える!」
最近の朝の定例行事である。
シンシアは、社員に対して”おはよう”を言うことになっていた。もちろん、すぐに声が出せるとは思えないので、努力をすればよいということになっている。
たかが挨拶。
しかし、シンシアにとってはいまだにハードルが高い。意識をすればするほど体がこわばってしまう。
それでも、最近は少しずつ声が出せるようになってきていた。
特に、ヒューリへの文句はなぜかすんなりと……。
シンシアは、リリアと二人の時が一番喋れるんじゃないかと全員が思っていた。
だが、その予想は見事に覆されている。
そんな状況に、マークとミナセは苦笑い。
リリアは心配そう。
そしてヒューリは……。
「挨拶もできないくせに、文句だけは言えるのか!」
「ムゥゥゥ」
「なんだその顔は! 先輩に対する敬意が足りん!」
「キライ」
「キィィィッ! もう我慢ならん、こうしてくれる!」
「ヤーッ!」
「……ヒューリと喧嘩している時が、一番リラックスできてるってことなのかな」
「そんなことがあっていいのでしょうか?」
「私、シンシアの将来がとっても心配です」
ドタバタと暴れ回る二人を見ながら、三人は大きなため息をついていた。
そんなある日の昼下がり。
事務所からほど近いオープンカフェで、リリアとシンシアはお茶を飲んでいた。
シンシアは、リリアと一緒に事務所の部屋で暮らしている。もともと家族向けのアパートなので、広さとしては何の問題もなかった。
寝室には、リリアのベッドと、マークがプレゼントしてくれたシンシアのベッドが並んでいる。
「それにしても、シンシアってお裁縫上手だよねぇ」
カップをコトリと置いて、リリアが感心したように言った。
シンシアは、恥ずかしそうに微笑んでから、テーブルの上に出しておいたメモ帳に返事を書いた。
団員たちの 服を よく直してたから
それを破ってリリアに渡し、次の紙に別のことを書く。
リリアも 料理 上手
「ありがと」
渡された紙を見て、リリアがニコニコと笑った。
シンシアはリリアから料理を習い、リリアはシンシアからお裁縫を習っている。互いに協力し合いながら、二人は仲良く暮らしていた。
そんな楽しい会話の最中、シンシアが、別の席に座っている客をチラチラと見ている。
「どうしたの?」
そう言いながら、リリアはシンシアの見ている方向に体をひねった。
そこには、お茶を飲みながら優雅に本を読んでいる一人の女がいた。
「わぁ、きれい!」
思わず声が漏れる。
髪は鮮やかな紫。肩の下まであるその豊かな髪が、そよ風に吹かれて優雅に揺らめいている。
アメジストを思わせる透明な紫の瞳と長いまつげ。
はっきりとした目鼻立ちと真っ白いきれいな肌が印象的な、とても美しい女だ。
そして何より。
「大きい」
「シンシア、それは言えるんだ」
無意識に出たであろうシンシアの言葉通り、その女の胸は、大きかった。
ことさらに胸元を強調するような服ではない。それでも、十分にその大きさと重量感が見て取れた。
見事にくびれたウェストと、美しく組まれた足。女でも見蕩れるであろう抜群のスタイル。
艶やか。
妖艶。
魅惑的。
どんな表現をしても、誰もが納得するに違いない存在感溢れる女だった。
二人が、我を忘れて女を見つめる。その視線に気付いた女が、顔を上げて二人を見つめ返してきた。
慌てて二人がお辞儀をする。すると、女が笑って手を振ってくれた。
その仕草に、リリアとシンシアの鼓動が高鳴る。
ステキな人!
二人は、すっかりその女に魅せられてしまった。
その時。
「お姉さん、暇そうだねぇ」
「俺たちと一緒に遊ぼうよぉ」
女のテーブルに、二人の若い男がやってきた。
馴れ馴れしい態度と軽い言葉。言わずと知れたナンパのようだ。
だが、これほどの女であれば、ナンパされることなど日常茶飯事だろう。たぶんさらっと受け流すはず。
リリアたちはそう思ったのだが。
女は、ちょっと不機嫌だった。
「私、滅多に出会えないような美少女を、こんなに近くで鑑賞中だったのよ。それなのに、どうしてそんなタイミングであなたたちはやってくるの?」
「えっ? そ、そうだったの?」
想定外の答えに、男たちはしどろもどろになった。
「お茶もなかなか美味しかったわ。風が気持ちよくて、最高の読書日和。そこに偶然居合わせた、二人の美少女。こんなに気分がよくて、こんなに素敵な時間を過ごせたのは初めてだったのに、それをあなたたちは壊してくれちゃったのよ」
「えっと、それは、申し訳ない」
男たちは困惑したが、とりあえず謝った。
しかし、女は許してくれないようだ。
「申し訳ないじゃ済まないわよ。あなたたち、本当だったらここで燃やし尽くしてあげたいところだけれど、今日のところは美少女たちに免じて許してあげるわ」
過激なことを女は言うが、その表情は、とても”燃やし尽くそうと”しているようには見えない。
普通の会話をしているのと変わらない顔で、言葉だけが不機嫌さを表している。
男たちが、一瞬怯んだ。
だが。
「まあまあ、怒らせちゃったんだったら謝るよ」
「ごめんね、お姉さん」
めげずにアタックを再開した。
「お詫びにご馳走するからさあ、何か食べにいこうよ」
「もちろん、お酒でもいいよぉ」
ナンパを成功させる極意は、下手な鉄砲数打ちゃ当たるである。男たちは、まさにダメもとでナンパを続けた。
男たちが誘い、女が断る。極上の女を何とか落とそうと、男たちは粘りに粘っていた。
何度断ってもしつこく誘ってくる男たちに、やがて女は疲れてきたようだ。
「うるさいわね。あっちへ行って」
そう言うと、右手の人差し指を、男の一人に向ける。
直後。
「あちちちっ!」
小さな炎の矢が、男の太ももを直撃した。
男が慌てて自分の太ももを叩いている。ズボンのその部分が焼け焦げていた。
「いきなり何すんだよ!」
いきり立つ男に、つまらなそうな顔で女が答える。
「だって、しつこいんだもの」
そう言って、女はゆったりとカップを持ち上げた。
「こいつ!」
女の馬鹿にしたような態度に、二人は怒ったようだ。
「許さねぇ!」
二人が女に迫る。
女は、まだ左手にカップを持ったままだ。目を閉じて、のんびりお茶を味わっている。
「ふざけんな!」
男の一人が、片手を伸ばして女の肩を掴みにかかった。
「あっ!」
リリアが声を上げる。
二人は思わず立ち上がってしまった。
ところが。
男は、突然何かに弾かれたように二、三歩後ずさったかと思うと、そのままの姿勢で動かなくなってしまった。
驚いたもう一人が女から離れようとしたが、やはり弾かれたように二、三歩後ずさって、固まる。
「?」
リリアとシンシアが首を傾げた。
見れば、女の右の手のひらが男たちに向いている。
その手のひらを、女が閉じた。続いて人差し指を立てて、それを再び男たちに向ける。
次の瞬間。
ズババババババババババッ!
とんでもない数の炎の矢がその指先から放たれた。
動かない男たちをかすめるように、無数の矢が飛んでいく。
直撃は一発もなかった。しかし、その熱で髪は縮れ、服は焦げ、皮膚は赤くなっている。
おそらくは、十秒程度の短い時間。
だが、男たちにとってはとてつもなく長い恐怖の時間だった。
やがて矢の放出が止まり、体に自由が戻る。
動けると分かった男たちは、そのままゆっくりと下がっていき、女から十分距離を取ったところで、大きな声を上げた。
「うわぁぁぁっ!」
叫びながら走り去るその背中を見送って、女はようやくカップを置く。そして、リリアとシンシアに向かって鮮やかに微笑んだ。
リリアとシンシアは呆然としていた。起きた出来事と、女の態度にギャップがあり過ぎた。
「この人って……」
二人が、驚きから冷めてイスに座り直した、その時。
「失礼」
女の前に、またもや二人の男がやってきた。




