謎の小屋
「よし、完成だ!」
工具を握るマークが、満足げにそれを眺めている。
「何ですか、これ?」
社員たちが、興味津々といった表情でそれを見つめていた。
ここは、事務所のアパートの中庭。そこにある井戸のすぐ横に、小さな小屋が建っていた。
ミアの入社前から、時間を見付けてはマークが作っていた謎の小屋だ。
「大家さんの許可はもらってあるから」
そう言って黙々と作業をするマークは、それが何なのかを誰にも教えることなく作り続け、そして今日、ついに完成させたのだった。
小屋の大きさは、幅およそ一メートル半、長さは三メートルに少し届かないくらいの長方形だ。天井近くには、小さな明かり取り用の窓がある。
高さは二メートル以上あって、社員の誰が入っても結構余裕がありそうだ。
横の井戸にはちょっとした櫓が組まれていて、やたらと高い位置に手押しポンプが設置されていた。
小屋の下からは、地面に半分埋もれている土管が延びていて、敷地を隔てる壁の向こうまで続いている。
みんなの注目を集める中、マークが水の入った桶を抱えて櫓に上り、ポンプに水を注いで、ハンドルを上下に動かし始めた。
すると。
「おおっ、水が出てきた!」
ポンプの先から勢いよく水が溢れ出す。
その水は、小屋の上部に作られた貯水槽にどんどん貯まっていった。
この世界では、魔法で簡単に水を発現させることができる。
魔力の小さな一般人でも、料理や洗い物、洗顔に必要な水くらいは誰もが扱うことができた。
それでも井戸は、大量の洗濯物がある時や行水をする時、そして火事が起きた時などのために、町のあちこちに作られている。
このアパートにも井戸はあったが、エム商会の社員以外はあまり使っていないようだった。
貯水槽に水が貯まったのを確認すると、マークがみんなに声を掛ける。
「誰か、気分壮快、さっぱり体験をしたいと思う人いないか?」
「???」
全員が首を傾げている。
社長、いったい何を?
そんな中、ミアが元気に手を挙げた。
「はいはいっ! 私、体験してみたいですっ!」
警戒心も疑問の欠片もない笑顔で、五人を押しのけて前に出る。
「さすがだな」
「さすがね」
みんなの尊敬を集めながら、ミアがマークの前に立った。
「よし、ミアが第一号だ」
そう言うと、マークはミアと一緒に小屋の中に入っていった。
パタンと扉が閉まり、中から二人の会話が聞こえてくる。
「まず、ここで服を脱ぐんだ」
「はい」
ちょちょちょちょっと!
全員の目がまん丸になる。
「そうしたら、これとこれを持って、こっちに移る」
「はい」
二人が中を移動する気配がした。
「これ、ずいぶんドロドロしてますけど」
「大丈夫、すぐに慣れるさ」
なに!?
いったい何がドロドロしてるっていうの!?
「これを掴んでみてくれ」
「こうですか?」
「いや、そうじゃない」
「よく分からないです」
「しょうがないなぁ」
「きゃあ! いきなりやめてくださいよー」
「ごめんごめん」
五人の顔が真っ赤に染まっていく。
フェリシアでさえ、動揺で目が泳いでいた。
「こ、こうですね?」
「そうだ。それを優しく……」
「だめーっ!」
ついに耐えられなくなったリリアが、小屋の扉を勢いよく開けて中に飛び込んだ。
そこには、小さなバルブを握るミアと、その手元を懐中電灯で照らしているマークがいた。
二人とも、ちゃんと服は着ていた。
「あの……えっと……」
まともな言葉が出てこないリリアの背中越しに、ほかのみんなも小屋の中をのぞき込む。
全員が、一様に脱力していた。
説明を終えたマークが、一人で小屋から出てくる。
「分からないことがあったら声を掛けてくれ」
「はい!」
疲れ切っている五人を不思議そうに見ながら、マークが小屋の外に立つ。
中からは、今度こそミアが服を脱いでいるらしい気配がしていた。
もっとも早く立ち直ったフェリシアが、咳払いをしてからマークに聞く。
「これって、何なんですか?」
「これは、まあ、簡単に体を洗い流す装置ってところかな」
「体を洗い流す装置?」
「そう。どうしても欲しくてね、作ってみた」
「はあ」
フェリシアもほかのみんなも、ピンと来ていないことがありありと分かる。
空中に”…”が見えるようだ。
やがて、中から水音がしてきた。
「わぁ、これ、気持ちいい!」
ミアの嬉しそうな声が聞こえる。
「ちょっとぬるいですけど、ちゃんとお湯が出るんですね!」
「ああ。水の通る管に、魔石を仕込んであるからね」
魔石には、様々な使い方がある。
職人が加工することで、熱や光を発するようにしたり、冷たくしたりすることが可能だ。
「社長! この石鹸いい匂いがします!」
「精油を混ぜて作った特別製だ。気に入ったか?」
「はい!」
民間に入浴の習慣があまりないこともあって、売られている石鹸は、とても質がいいとは言えなかった。
香りのついた石鹸は、一部の貴族が使うだけで、一般の人が手にする機会などまずない。
「社長、この瓶に入ってるドロドロしたのが……」
「それで髪を洗ってみてくれ」
「分かりました」
水音が止まり、少しの間静かな時間が流れる。
やがて、また水音。
その音が止まると、中から大きな声がした。
「社長! もの凄くさっぱりしました!」
「だろ?」
「これ、いいかも!」
ミアの興奮した声が聞こえる。
「じゃあ最後に、もう一つの瓶の中身を、さっき説明したみたいに使ってみてくれ」
「はい!」
またもや沈黙。
しばらくすると、ミアが聞いてきた。
「これ、すぐ洗い流していいんですか?」
「ああ、大丈夫だ」
また水音が聞こえてくる。
その音が止まり、タオルで体を拭いているらしい、パタパタという音が聞こえてきた。
続いて、ミアが小屋の入り口側に移動して、服を着る気配がする。
そして。
「気分壮快、さっぱりです!」
幸せそうな顔で、ミアが小屋から出てきた。
外にいた五人がミアに寄っていく。
「ミアさん、いい匂いがします!」
リリアが驚いたように声を上げた。
「ほんと、いい匂い」
フェリシアが、遠慮なくミアに顔を近付けて匂いを嗅ぐ。
「悪いけど、誰かミアの髪を乾かしてやってくれないか?」
マークの言葉で、シンシアを除く全員が魔法の風をミアに送った。
風の魔法の第一階梯、ウィンド。女性に限らず、誰もが使える風の魔法の基本だ。
四方からの風で、ミアの髪が乾いていく。
すると。
「ちょっと、ミア! あなたの髪!」
フェリシアが驚いて叫んだ。
ほかのみんなも、驚きの表情でミアの髪を見つめている。
まるで上等な絹糸のように、ブロンドの髪が日の光を浴びてきらきらと輝いていた。
軽やかなその髪が、庭を抜けていくそよ風にさらさらと揺れている。
「天使みたい」
思わずシンシアがつぶやいた。
地上に舞い降りてきた天使。
そんな言葉を思い浮かべてしまうほど、ミアは輝いていた。
「俺の国では、毎日お風呂に入って体も髪も洗うんだ。だから、湯船は無理だとしても、体を流すくらいのことは何とかしたかったんだよ。石鹸とかもまずまずの物ができたし、後はもうちょっと水を溜める手間を……」
「次、私!」
「だめ、私が!」
「ちょっと、年長者を立てなさいよ」
「なら先輩を立てろ」
「みんな落ち着け! とりあえず私が……」
得意げに語るマークの目の前で、女性たちの激しい戦いが始まっていた。
「さらさら~、さらさら~」
ミアは、ご機嫌な表情で髪をいじっている。
「えーっと、俺も使いたいんだけど……」
マークの投じた爆弾は、以後しばらくの間、社員同士の熾烈な争いを生むことになったのだった。




